結晶化する病に纏る欠片たち〜思い出を噛みしめる〜
※状態変化した人間を食べる描写があるので、苦手な方はご注意ください。グロテスクではなく、耽美系の表現を目指しています。
「もう、ほら早く行きましょう」
花火が始まっちゃう、と僕の手を引いて笑う彼女。
ふわりと花が開くようにピンク色の髪を揺らし、とても柔らかく華やかに笑う人だった。この世で彼女だけが光っているように僕には見えた。
僕は彼女のことを心の底から愛していて、ずっと一緒に居るつもりでいたし、なんとか婚約までこぎつけた。彼女のご両親とも良い関係を築き、甘い日々を過ごしながら結婚式を待つのみだった。彼女と家族になり、僕はこれから素晴らしい毎日を送るのだといくつもの夢を描いていた。
それがある日、僕が結晶化する病を発症したことで変わる。
初めは、触れたカップが結晶化した。驚いて手を離すと、それは床に当たって砕け散りながら煌めいた。中身はそのままだったのか、床に紅茶のシミを作る。
その様子を見ていた者が父に告げたのか、血相を変えていつも整えてある髪を振り乱して部屋に飛び込んできた。いつも毅然としていた父の慌てた姿を初めて見た。
「お前、まさか本当に……いや、まだ自分の目で見るまでは」
そう言って、僕の前に新たなカップを置く。それに触れてみろと言うことだろう。僕はそっと指先で持ち手の部分に触れる。そこからじわりと透明度が上がり、陶器が変質し結晶でできたカップになる。触れたものが結晶化すること以外、仕組みなど誰も分からない。突然、病が発症するのだ。
結晶化する病には二通りあり、僕は触れるとすべてが結晶化するタイプなのだろう。自分の中から結晶を生み出す方だったら、他の者たちにこのような顔をされなかっただろうに。
僕が視線を向けると、皆一歩下がる。僕のことが恐ろしいのだ。触れられたら最後、結晶になってしまうのだから。
「そんな、本当にあの奇病にかかってしまったというのか」
父はその場に崩れ落ちる。後からやってきた母と弟も悲痛な顔で僕を見る。母の両手が上がりかけ僕の方に一歩進んだところで、ハッとしたように動きを止める。きっと、僕を抱きしめようとしたのだろう。けれど、それはかなわない。
パリっと乾いた音が鳴り、服も薄い結晶に変質したようだ。もうこうなっては止められない。僕の触れるすべてのものが結晶化してしまう。幸いにもまだ自分の周りだけにしか影響がないようだ。どのくらいの範囲まで影響があるのか分からないため、今のうちに自分を隔離しなくてはいけない。
皆が混乱する中、僕の頭ははっきりとしていた。悲しいと思いつつも、やらなければならないことだけは分かる。
荷物をまとめて、と思ったところでやめた。触れたものすべてが例外なく結晶化してしまうのだ。大切だったものも、必要なものも何もかも。手にした時点で変質してしまう。
「僕は離れにいます」
「……なにもしてやれなくてすまない」
父が俯いたまま呟く。身ひとつで離れへと向かう僕に、兄さん、と声をかけられたけれど、僕も父と同様に顔を上げられなかった。研究者として生きていきたいと目を輝かせていた弟を、僕のせいで家に縛り付けてしまう。弟は研究を諦めるしかないだろう。弟には自由に生きてもらいたかったのに。
しかし、病を治して弟を自由にしてやりたくても、治療法のない病なのだからどうしようもない。しかも他人に害を与える方だなんて、僕は死ぬまで一人きりだ。
そうだ。誰よりも愛おしい彼女には、このことをなんと伝えよう。いくら伝えたい気持ちがあっても、声の届く範囲にいてくれなくては直接伝えることが叶わない。今後自分一人では、手紙を書くことすらできないのだ。
「彼女に僕の言葉で別れを告げたいので、だれか代筆を頼めるかな」
「では、私が」
「僕が離れに入ったら、ドアの前で手紙を書いて彼女に届けて欲しい」
「かしこまりました」
執事が答えるのを確認し、僕は離れへと歩き出した。
彼女への手紙を書いてもらってから、僕は離れを見渡した。
離れはたいそうな造りではなく、僕が趣味の絵を描くだけの小屋だった。ごく一般的な民の家と変わりないかもしれない。簡素なキッチンとベッドに、テーブルと椅子。生活に必要なものが最低限あり、あとはキャンバスがある。こじんまりとしているが日当たりも良く、見慣れたとても居心地の良い場所だった。窓からは庭を見渡すことができて癒されるけれど、これからはここが僕を閉じ込める檻になる。
キャンバスがあっても、僕はもう絵を描けない。手にするすべてが結晶化してしまうのだ。筆も絵の具もすべてが結晶に変わる。先ほど触れたキャンバスも変質して、何を描いたのか分からない透き通ったものになってしまった。僕が美しいと思った庭を描いたものだったけれど、それも僕の思い出の中にしか残っていない。僕が触れるだけで、大切なものすべてが消えていく。
これ以上、大切なものが消えてしまうのは嫌だった。
僕の愛したものが消えてしまったら、僕が僕である意味などない。
けれど、何にも触れないなんてことはできない。触れるものがすべて結晶化するなら、食べるものも結晶なのだ。
これから僕は結晶を食べる生きものになる。しかし、それははたして人間なのだろうか。すべてを結晶にしてしまうなんて、病というよりも呪いに近い。
なんにせよ、彼女と共にいられる存在でないことだけは確かだ。彼女を幸せにするのは僕ではない。
彼女には笑顔でいて欲しいのだ。たとえ、隣にいるのが僕ではなかったとしても。いつか遠くからでもその顔が見られれば幸せだと思う。死ぬまでの間、たった一人きりで過ごすしかないのだとしても。
花がほころぶようにふんわりと笑う彼女は僕の光だったから、これからもきっとそうなのだ。
食事は温かいものを用意してくれるが、僕が手にすればそれは一瞬にして結晶化する。
それでも、味の良し悪しは分かるし、結晶だからといって歯が折れるようなことはなく、シャクリと果物を食べたような音を立てて噛みきれるのだ。
僕の歯もいつの間にか変わってしまったのだろうか。
不安が込み上げて来るが、もうこれ以上悪くなることはない。
誰も僕に触れることはできず、僕はすべての温もり、寒さもなにもかも感じる術を奪われた。
命を断てばこの苦しみも消えるのだろうけれど、刃も体に刺さる前には結晶化してしまう。毒を飲もうとしても、手にした瞬間、結晶化してしまう。飲み込んでみても、その毒が僕を殺すことはなかった。
僕は排泄をしなくなり、体の中身もどうなっているのか分からない。だが、調べようがないのだ。調べる人や魔導具も、触れればすべてが結晶化してしまうのだから。
することがない僕は、毎日ぼんやりと庭を眺めて過ごす。庭を行き交う人と目が合うこともあるけれど、たいてい気まずそうに視線を逸らされてしまう。
気持ちは分かる。隔離されるような病にかかった当主の息子を、どう扱って良いのか判断に困るのだろう。
それでも、自分に仕えてくれていた者たちは、毎日ではないが心配そうな表情を浮かべながらも顔を見せてくれる。窓ガラス越しに会話をし、僕の心を慰めてくれた。それだけが僕の楽しみだった。
そんなある日、庭に彼女が姿を見せた。柔らかく波打つ髪が風に舞う。幻だと思ったけれど本物だ。
「私、婚約破棄について納得しておりません」
「でも僕は……キミを幸せにしたいと心から思っているけれど、触れることもできないんだよ」
自分の手でキミに手紙を書くことすらできない、と告げれば彼女の瞳から涙がこぼれた。瞳に溜まった涙は頬を流れ落ちていく。
「やっとあなたと一緒に過ごせると思っていたのに」
僕は、すまない、と声を絞り出した。僕だってキミと過ごす日々を、本当に楽しみにしていたんだ。
一緒にしたかったことを胸の内であげていく。終わりなく出てくるそれを止めることなんてできなかった。僕たちの未来がようやく重なるはずだったのに。なんてこの世は残酷なんだろう。
「さぁ、もう行って」
彼女のことをいつまでも見ていたかったけれど、これからの彼女を思って僕は背を向けた。
彼女の幸せを心から祈っている。僕のすべてをかけて幸せにしたかった人だから。
「また来るわ」
その言葉に、もう来ないでくれ、と言いたかったけれど、呟きは喉の奥で消えた。みっともなく縋ってしまいそうになるのを堪えるだけで精一杯だった。
彼女の幸せを祈っているのに、僕の心は弱い。彼女の言葉一つで喜んでしまうし、彼女にまた会えるというだけで心が少しだけ軽くなるような気がした。
それから、僕は毎日彼女がやってくるのを心待ちにしていた。結晶になってしまった平たく柔らかさのないベッドで何度夜を数えただろう。他にすることもないし、触れたものが結晶となり毎日増えるだけ。
早く来てほしい、あの笑顔を見ることができるだけで、と僕は自分から婚約破棄をしたというのに彼女を心から追い出すことはできなかった。どうやったって僕が彼女を幸せにすることなんてできないのに。
彼女に背を向けてからニヶ月経つ頃、僕はようやく彼女を待つことをやめた。希望なんて持つだけ無駄だと、さっさと僕も結晶になってしまえばいいのにと思う。
全身が結晶化するまでの時間は人それぞれで、特に決まっていないというのが通説だ。病にかかったと分かった翌日に全身が結晶化した人もいるし、十年以上平和に過ごしている人もいる。
僕は死ぬこともできず、いつまで一人で過ごせばいいのだろう。分かっていたことだけれど、今はもう絶望しかない。せめて、他人を結晶化させるものでなかったら良かったのに。
「このまま何もできないのなら、すぐさま砕けてしまえばいいのにな」
形など残らず、粉々に砕けてしまえば僕がいた痕跡も、結晶だらけのこの部屋で混ざり合って消えてしまう。それでいいと僕は思う。しかし、それと同時に忘れてほしくない自分がいて、胸が苦しくなる。
僕が結晶化できないものは自分自身だけ。服だって薄い結晶になってしまっていて、砕けないか心配だ。不透明な色の結晶だったことだけが救いだ。本当にそれ以外は何もかも、僕が食べることのできる糧となる。
「食べるものが無限にあってもね」
そんなにお腹は減らないんだ。でも、結晶の摂取量が増えれば早く僕も結晶化するんじゃないか。そんな仮説を立てたけれど、比較対象がいないんだから分からない。
日を追うごとに鬱々とし、窓の外を見るのもやめてしまった。人の声も聞きたくなくて、意識の外に押し出すようにぼんやりとしながら時間をつぶしていた。
そんなある晩のこと、芝を踏む軽い足音と窓を叩く音ともに、とても懐かしく愛おしい声が聞こえた。
「ごめんなさい、時間がないの。中に入れてちょうだい」
「こんな時間にどうやってここまで……それに中になんて入れたら」
「早く! 見つかってしまうわ。そうしたら二度とあなたと話せなくなる」
切羽詰まった声に、僕は慌てて窓を開けてなるべく遠くに避ける。すると、普段は淑女の鑑のような彼女が、窓枠を飛び越え室内に飛び込んできた。窓を閉めた瞬間、いくつもの光と人の声が聞こえてきて、僕は彼女に指示されるがままにベッドへ横たわる。窓からのぞき込んで見える場所にあるのがそれなのだ。いつ、結晶化してしまうか分からないから、外から見える位置にあると安心なのだろう。窓の下に隠れた彼女を見つけられないまま、部屋をのぞき込んだ者は去っていく。肩で息をしていた彼女だったけれど、ホッとしたように小さな息を吐いた。
「いったい何があったんだ」
「軟禁されていたの。それでずっと来ることができなくて。ごめんなさい」
「いや、良いんだ。でも、軟禁なんて……」
月明かりの下、彼女の様子を観察してみると、最後に見たときより肌や髪にも艶がなくやつれている。柔らかく美しいピンク色の髪が少しくすんで見えた。
「……僕のせいだね」
彼女と一緒に未来を掴むことができなかった僕のせいだ。僕がどんなに彼女の幸せを願っても、僕がいるだけで難しいのだろう。彼女の未来もくすんでしまった。
「違うの。すぐに他の人に嫁ぐように言われて、私が抵抗したら反省しろって閉じ込められたのよ」
やはり僕のせいではないか。事情があるとはいえ婚約破棄をしてしまったから、彼女の両親は焦ったのだろう。
「私はあなた以外と結婚したくないのよ。ずっと一緒にいたいの。それが無理ならあなたに食べられたい」
僕は言葉を失った。
「手にするものがすべて結晶になってしまうけれど、病にかかった人の話では、一番美味しいのは結晶化した人間だそうよ。私はあなたに美味しく食べられたい。そうしたら、ずっとあなたと一緒だわ」
「何を……」
甘い甘い誘惑。愛おしい彼女が、甘い毒を僕に渡す。
「だって、あなた以外いらないんだもの。私ね、あなたがいない場所に未練なんてないの」
じゃあ君を食べてこの世界に残された僕は、と喉元まで出た言葉を飲み込む。僕だって君のいない世界なんてどうだっていい。
「私ね、あなたに食べてもらうためにきたの」
そう言って笑う彼女の表情は、今までで一番きれいで可愛らしかった。顔周りでふわりと揺れる髪の毛も、形の良い唇も、少し潤んだ大きな瞳も僕の大好きな君だった。
「あなたのことがなによりも大好きよ。あなたに私をぜんぶあげる! 愛してるわ」
僕に駆け寄ってくる彼女から身を引こうとしたけれど、壁を背にした僕の逃げ場はない。
彼女の左手が僕を抱きしめ、もう片方の手を僕と繋いで。まるでワルツを踊るように優雅な微笑みを湛えて僕を見つめる。
彼女は繋いだ手から結晶化していき、最後まで笑みを絶やすことはなかった。僕を上目遣いで見つめたまま、幸せそうに微笑むピンク色の結晶になってしまった。
なんて彼女らしい。
思い切りが良くて、信念を持って動く彼女が大好きだった。絶対に手放したくなかった。
僕は声を上げて泣いた。僕のなによりも大切な人。まだ彼女にはうっすらと体温が残っているような気がする。繋いだ手を離すことができない。
愛おしい彼女の想いと思い出が、そこから溢れ出て来るようだった。
やがて僕の泣き声に気付き人がやってくるが、窓から覗いて中を確認すると夜中だというのに大騒ぎになる。玄関を開けて怒鳴られても、僕にはどうすることもできない。もう彼女は結晶化してしまったのだから。
お前のせいだ、お前が触れたから、という彼女の両親の声が聞こえるが、僕から触れたわけじゃないし軟禁なんてして彼女を追い詰めたのはそちらではないか。
「その子を返して!」
「……僕に触れる覚悟があるならばどうぞ」
彼女はわざと指を絡ませ手を繋いだのか。引き離そうとすると欠損が生じてしまうように、彼女は僕に触れたのだ。最後まで誰も引き離せないように、彼女の願いを僕が誰にも邪魔されず遂げられるように。
「なんてこと……!」
「悪魔だ、お前は」
その言葉を聞いた僕の両親はさすがに黙っていられなくなったのか、彼女の両親に激しく抗議している。こんな誰からも嫌われる病にかかった僕を見捨てないでくれてありがとう。あなたたちの子どもでよかったと思う。幸せだった。
僕は繋いだ彼女の指にキスを落とす。
その時、ふわりと強烈に食欲を刺激する香りがした。彼女の付けていた香水とは違う。もう一度嗅いでみるが、スイーツのような甘い香りがした。甘いものが好きだという僕の好みを再現したような香りに、たまらない気持ちになる。これも彼女の企みの一つだとしたら、僕は何度彼女を好きになればいいんだろう。
気付くといつの間にか玄関の扉は閉められ、僕は彼女だった結晶とともに部屋に残された。
僕はもう一度彼女の姿を目に焼き付ける。そして、覚悟を決めて僕は彼女の指先を食んだ。
サクリとしたパイ生地のような歯触りで、ほんのりと甘い。中にジャムのような食感の違うものがあり、それも美味しい。
彼女は僕が今まで食べた中で一番美味しい甘美なスイーツだった。
少しずつ、僕はゆっくりと彼女を味わう。
彼女との日々を思い出しながら、僕は彼女を口に運ぶ。泣きながら食べていたから、ほんのちょっぴり塩味がして、それは勿体無いから涙を拭いた。
大好きな彼女を僕の中に閉じ込め一体となる。なんて脳が痺れるような出来事だろう。甘い毒を僕にくれた彼女は、甘いスイーツとなって僕の中に戻ってきた。
最後の最後に残したのは、彼女の心臓。
僕にぜんぶくれると言った彼女のすべてを僕の中に。
あぁ、もう僕は彼女以外いらない。僕はもう壊れてしまったのだと思う。彼女のことしか考えられない。
彼女の光のような笑顔を思い出す。
心地よい声や、柔らかな体、楽しい思い出。
彼女の想いと思い出も、僕がぜんぶ噛みしめて、彼女は僕と同一の存在になるんだ。もう誰も僕たちを離せない。
彼女の心臓を最後まで飲み込んだとき、僕の心臓から割れるような音がした。そこから一気に僕の体が結晶化していく。僕はそのことに歓喜した。
これで僕と彼女は本当に混ざり合って一つの塊になった、と。
二人の刻は止まり、誰にも邪魔されることはない。僕たちは永遠に二人きりで、同じ時を歩んでいく。
僕たちの幸せはここから始まるんだ。




