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隙あらば「婚約破棄するか?」と繰り返し提案してくる王太子に、「では、こちらに署名を」と返してみた

「君の態度は、王太子妃として不適格だ」


 エドリック殿下のその声が、今日もまた私の耳を通り過ぎていく。

 最初こそ胸に刺さったものだけれど、もう慣れてしまった。三年も聞いていれば、痛みさえ感じなくなる。


「まあ、今さら別の相手を探すのも面倒だからやむを得ないが」


 私は黙って頷く。

 言葉を返したところで、どうせまた不適格だなんだと言われるだけだから。


 殿下は私を見下ろしながら、いつものように唇の端を歪めた。


「いっそ、婚約破棄してほしいか? お前みたいな無能に王太子妃は荷が重いだろう。俺は別に構わないぞ」


 婚約破棄。またその言葉だ。数えきれないほど聞いた。

 最初の頃は、本当にそうなるのかと震え上がった。でも今は何も感じない。

 これは殿下が、私を支配するための脅し文句。だから私は答える。


「……困ります。私を捨てないでください」


 静かに、けど縋るように言う。それが殿下の望む答えだから。


 殿下は満足そうに鼻を鳴らした。


「そうだろうな。君のような身分で、この婚約を手放すなど愚の骨頂だ」


 私は頷いてみせた。心の中で何を思っていても、表に出すことはない。もう学んだから。感情を見せれば、それを武器に使われることを。


「カリナ」


 名前を呼ばれて、私は顔を上げる。殿下はまるで愛しい恋人にでも語りかけるような口調で言った。


「君は従順だな。そこだけは評価してやろう」


 従順。私は本当に従順なのだろうか。


「で、今日の音楽会の件だが」


 殿下は当然のように話を続ける。


「君の演奏は、正直言って退屈だった。もう少し情熱的に弾けないものか」


 私は心の中で苦笑した。

 情熱を込めれば「品がない」と言われ、控えめに弾けば「退屈」と言われる。一体どうすれば満足してもらえるのだろう。


 いや、もうわかっている。殿下は私を貶めることで、自分の優位性を確認したいだけ。だからたとえ、どれだけ質の高い演奏をしたところで、褒めてはもらえない。


「申し訳ございません」


 殿下は鼻で笑った。


「まあ、君なりに努力していることは認めよう。だが、それでは不十分だ」


 不十分。いつも不十分。何をしても、どれだけ努力しても、私は殿下にとって不十分なのだろう。


「君が不満なら、いつでも婚約破棄の話を持ち出してくれて構わない」


 また出た。殿下の常套句。

 私を脅し、支配するための魔法の言葉。


 私は殿下を見上げる。相変わらず傲慢で、尊大で、私を見下している。その瞳に、私への愛情など微塵も見えない。あるのは所有欲だけ。私を「自分のもの」として支配する満足感だけ。


「……はい」


 私はいつものように答える。

 でも、心の奥で何かが変わり始めていることに、私自身も気づいていなかった。





 数週間後。


 私は相変わらず殿下の言葉に「はい」と答え、頭を下げ、謝罪を繰り返している。表面上は何も変わっていない。


 でも、何かが決定的に違っていた。


 鏡に映る自分の顔を見ると、それがよくわかる。目に光がない。笑顔を作っても、それは口元だけの作り物。心から笑うことを、いつの間にか忘れてしまった。


「カリナ、もっと愛想良くできないのか」


 殿下の声で我に返る。

 今日もまた、いつものように不満を述べられる時間が始まった。


「申し訳ございません」


「君の返事はいつも同じだな。もう少し変化をつけることはできないのか」


 変化……。

 殿下は私に変化を求める。でも、変化を見せれば今度は「生意気だ」と言われるのだろう。結局、私は何をしても殿下にとっては間違いなのだ。


「本当に、どこまでも薄気味悪い女だ」


 薄気味悪い。


 確かに、私は薄気味悪い女なのだろう。感情を表に出さず、いつも同じ調子で返事をして、殿下の機嫌を損ねないよう細心の注意を払っている。


 でも、それを作り上げたのは誰? 


 私がこうなったのは、誰のせい? 


 私はもう、感情豊かだった頃の自分には戻れない。


「明日のパーティーでは、もう少しましな振る舞いをしてくれ。君の暗い顔を見ていると、こちらまで気分が悪くなる」


 私の顔は暗いのだろうか。鏡で見る限り、無表情なだけだと思っていたけど。


「はい」


 また機械的な返事。でも、もうそれでいい。殿下が求めているのは、ただの服従だけなのだから。


「それにしても」


 殿下は窓の外を見ながら呟く。


「君のような女は珍しい。他の女たちのように、感情的に騒ぎ立てることがない」


 私にも、かつてはそんな時代があった。

 殿下の言葉に傷つき、涙を流し、時には抗議したこともあった。


 でも、それは全て無駄だった。感情を見せれば見せるほど、殿下は私を侮辱した。

 だから私は学んだのだ。感情を殺すことを。


 私は、もう何も期待していない。


 何も望んでいない。


 何も感じていない。


 ただ、心の奥で、何かがゆっくりと形を変えていくことだけは感じていた。


 それが何なのか、まだわからなかったけれど。






 決意が固まったのは、意外にもあっけない瞬間だった。

 晩餐会の席で、殿下がいつものように私を貶めている時のことだった。


「カリナの音楽の才能については、正直なところ疑問を抱いている」


 周囲の貴族たちが、気まずそうに視線を逸らす。

 でも誰も殿下を止めない。相手は王太子だ。止められるはずもない。


「先日の演奏会でも、感情の込められていない、まるで機械のような演奏だった」


 機械のような。その通りだと思う。だって私はもう機械だから。


「もう少し情熱的に、女性らしく演奏できないものか」


 女性らしく。殿下の言う「女性らしさ」とは何だろう。従順で、感情的にならず、でも情熱的で、でも品があって、でも刺激的で——。


 矛盾だらけの要求に、私はもううんざりしていた。


「少しは努力をして欲しいものだ」


 努力。三年間、私がどれだけ努力してきたか、殿下は知らない。知ろうともしない。私の苦痛も、絶望も、諦めも、全て「努力不足」の一言で片付けられる。


 その時だった。


 心の奥で凍りついていた何かが、パキリと音を立てて割れた。


 それは諦めでも絶望でもなく、もっと静かで、もっと冷たい何かだった。


 覚悟、と呼ぶべきものかもしれない。


「己の無能さを恥じて、そろそろ婚約破棄を申し出てくれても構わないんだがなあ」


 殿下がいつものように言う。周囲の貴族たちは、またかというような顔をしている。もう日常の風景だ。


 でも今夜は違う。


 私は静かに立ち上がった。


 会場がざわめく。

 私がこのような場で勝手に席を立ったことなど、一度もなかったから。


 私は無言で深く礼をして、会場を後にした。

 殿下が大きな声で何か言っていたが、私の耳には届かなかった。




 その後、私は父の書斎に向かった。


「カリナ、本当にいいのか?」


 父は心配そうに私を見る。でも、その瞳の奥に安堵の色がある。


「はい、父上。もう決めました」


「殿下は必ず怒り狂うだろう。ディディアナ家に報復があるかもしれない」


「ええ。でも、私はあの方の所有物ではありません」


 父は黙って頷いた。そして、私の決意を支持してくれた。





 翌日。

 私は鏡の前に立っていた。映っているのは、三年前の私によく似た女性だった。目に光があり、頬に血色があり、背筋がまっすぐに伸びている。


 生きている、という感じがする。


 ドレスは深い青。

 殿下が「地味すぎる」と言った色だが、私は気に入っている。私らしい色だから。


 胸元には小さなペンダント。母の形見だ。

 殿下は「古臭い」と言ったが、今夜は必要だった。勇気をくれるから。


 そして、私の手には一通の文書がある。

 正式な婚約破棄の申請書。法的に有効で、一度署名されれば取り消しのきかない、決定的な書類。


 私は深く息を吸う。


 晩餐会場に入ると、いつものように殿下が私を見下ろした。


「遅いではないか、カリナ」


「申し訳ございません」


 私はいつものように頭を下げる。でも、それも今夜で最後だ。


 食事の間、殿下はいつものように私を貶める。


 私の服装について、立ち居振る舞いについて、存在そのものについて。


 それを私は静かに聞いた。もう慣れているから。そして、もうすぐ終わるから。


 デザートが運ばれてきた頃、私は立ち上がった。


「エドリック殿下」


「何だ、勝手に立ち上がって」


 私は胸元から文書を取り出す。


「こちらをご覧ください」


 私は文書を殿下の前に置く。殿下は怪訝そうにそれを見た。


「何だ、これは」


「婚約破棄の申請書です。法務官に確認を取り、王宮の政務局に提出可能な正式文書として整えてあります。殿下が署名されれば、法的効力を持ちます」


 会場が静まり返る。

 水滴が落ちる音さえ聞こえそうなほどの静寂。


 殿下は文書を見つめたまま、動かなかった。理解が追いついていないのだろう。


「殿下が何度もおっしゃっていたことです。正式な婚約破棄の文書をご用意いたしました」


 私の声は驚くほど落ち着いている。


「ご署名ください。私のような無能な女には王太子妃は務まりません」


 殿下がようやく顔を上げる。その瞳には、困惑と怒りが混じっている。


「おい、何を言い出すんだ。カリナ。くだらない真似は——」


「くだらない真似ではございません」


 会場がどよめく。

 殿下の言葉を遮ったのは、これが初めてだった。


「殿下は口癖のように婚約破棄と仰っていたではありませんか」


 殿下の顔が青ざめる。


「私は殿下のお言葉に従い、婚約破棄を申し出ます」


 私は深く礼をする。


「この三年間、殿下のご期待に応えられず、申し訳ございませんでした」


 私は顔を上げ、最後に殿下を見つめる。


「どうか、次は『満足できる従者』をお探しくださいませ」


 そして私は踵を返し、会場を後にした。


 殿下の怒鳴り声が背中に響いたが、もう関係ない。


 今この瞬間、私は自由になったのだから。






 殿下に婚約破棄を突きつけてから、三日が経った。


 私は実家の自室で、久しぶりに本を読んでいる。昔好きだった詩人の作品。殿下は「くだらない」と言っていたが、私は好きだった。今でも好きだ。


 使用人が入ってくる。


「お嬢様、エドリック殿下がお見えになっています」


「お断りしてください」


「しかし、殿下は——」


「お断りしてください」


 私は静かに、しかしはっきりと言う。

 使用人は困惑しながらも、頭を下げて去っていく。


 しばらくすると、外で怒鳴り声が聞こえる。殿下の声だ。門前で何かを叫んでいるようだが、もう私には関係ない。




 翌日も、その翌日も、殿下は来た。


 でも私は一度も会わなかった。手紙も、全て開封せずに返した。


 父が心配そうに私を見る。


「カリナ、いいのか? 殿下はかなり取り乱しているようだが」


「構いません」


 私は刺繍をしながら答える。母から教わった刺繍。殿下は「時代遅れ」と言ったが、私の心を落ち着かせてくれる大切な時間だ。


「私はもう、あの方とは関係ありません」


 父はそれ以上何も言わずに部屋を出て行った。


 私は刺繍に集中する。小さな花の模様。一針一針、丁寧に。急ぐ必要はない。誰かに急かされることもない。


 自分のペースで、自分の好きなように。


 これが自由ということなのだろうか。




 一週間が過ぎた頃、メイドが興味深い話を持ってきた。


「お嬢様、街の噂なのですが」


 私は本から顔を上げる。


「殿下が、かなりお変わりになったそうです」


 変わった? 


「どのように?」


「食事も喉を通らず、政務にも身が入らず、毎日のようにお嬢様のお名前を呟いていらっしゃるとか」


 私は静かに本を閉じる。


「そうですか」


「お嬢様は、お気にならないのですか?」


 メイドが恐る恐る尋ねる。


「もう関係のないことですから」


 殿下がどうなろうと、私には何も関係ない。




 それから数ヶ月が過ぎた。


 私は徐々に社交界に復帰していた。もちろん、殿下の元婚約者として好奇の目で見られることもあったが、さほど気にならなかった。私はもう、他人の評価で自分を測ることをやめたのだ。


 その日は、久しぶりに音楽会に出席した。


 私はピアノの前に座る。久しぶりに、人前で演奏する。


 最初は手が震えた。でも、鍵盤に触れた瞬間、全てが戻ってきた。


 音楽への愛。表現することの喜び。自分の感情を音に込めることの幸せ。


 私は演奏する。自分のために。自分の心のために。


 曲が終わった時、会場は静まり返っていた。


 そして、拍手が起こる。温かい拍手だった。


 私は深く礼をする。久しぶりに、心から嬉しかった。




 それから更に五年が過ぎた。


 私はカリナ・ディディアナから、カリナ・ノストワード夫人となっていた。夫は音楽家で、私の演奏を「魂がこもっている」と評してくれた人だった。


 結婚式の日、遠くから馬車が一台、式場を見つめているのが見えた。その馬車の紋章を見た時、私は一瞬だけ眉間にしわを寄せた。


 でも、それも一瞬のことだった。

 私には新しい人生があり、愛する人がいる。過去を振り返る必要はない。


 私は自由で、幸せな生活を掴み取ったのだ──。






 一方。王宮では、エドリックが今夜も一人、玉座に座っていた。

 五年の間に、エドリックは正式に王位を継承した。幾度か縁談の話は持ち上がったが、エドリックはすべて断っていた。理由を語ることはなく、ただ“その必要はない”とだけ答えた。


 臣下たちは皆帰り、静寂に包まれた謁見の間。

 月光が差し込む中、彼はただ一人で過去を反芻していた。


『私は殿下のお言葉に従い、婚約破棄を申し出ます』


 あの日のカリナの声が、今でも耳に残っている。


『どうか、次は満足できる従者をお探しくださいませ』


 彼女が求めていたのは愛だった。でもエドリックが与えたのは支配だった。


 彼女が与えてくれたのは忠誠だった。でもエドリックが返したのは侮辱だった。


 今になって、全てがわかる。手遅れになってから、全てが見える。


 一人きりの玉座は、あまりにも広すぎた。


 あまりにも冷たすぎた。


 あまりにも空虚すぎた。


 エドリックは目を閉じる。

 今日も夢を見るのだろう。冷たい目で文書を差し出すカリナの夢を。


 そして朝が来れば、また一人で目を覚ますのだ。


 夜の玉座でひとり過ごす王のもとに、時折、風が吹き抜ける。

 それは誰もいないはずの謁見の間に、微かな気配を残していく。


 ──まるで、かつてそこにいた“彼女”の面影が通り過ぎていったかのように。


 けれど、それは幻だ。


 二度と戻らないもの。取り戻せないもの。


 そしてエドリックは、今日もまた気づかされる。


「失ったものが“愛”であった」と。


 これを理解することほど、残酷なことはない。

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この愚物が王か 滅びそうだなこの国
お父さんが理解があって良かったです。3年も我慢してるから親が婚約破棄を許さないような人なのかと思ったら、家に何かされるかもしれないのに娘の望みどおりにさせてくれるなんて、よい父親でした。
王子様、それが愛であった事を知るだけの知力があったのだと最後の一文にビックリしたよ 頭が悪いからまた新しい奴隷を見繕うのかと思ってた。自分を正当化して
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