第三章~トラウマ~
トラウマというのは多かれ少なかれ誰しもが持っている重しのはずだ。
そして、その重しを、僕も持っている。虐めだけじゃなくて。
小学校三年生の時、当時「一対一の方が僕には向いている」という母親の考えで、稲問解という個人塾に通っていた。
中学受験は二パターンあり、二教科型(算数・国語)と四教科型(算数・国語・理科・社会)がある。
ほとんどの中学受験が、後者の四教科型を取っている。
僕も四教科型で受ける。そして、稲問解に入って、早稲田大学教育学部を出た40過ぎの加藤宏明先生に算数と社会と理科を。加藤先生の奥さんに当たる、東京大学文科二類を出た加藤晶子先生に、国語を教わっていた。
ほぼ毎日であった。そして日曜は朝から晩まで休みは一時間しかない。
まぁ、此処までは問題がなかったのだが、加藤宏明先生の本性が剥き出しになったとき僕は全てが嫌になった。
僕は、稲問解で2トップの位置にいた。同着一位が北山浩介だった。
僕は、完全に彼を意識した。彼の目指している、御三家と呼ばれる「麻布中学校」に合格しようと出逢った瞬間に決めたと想う。
それからというものの、成績の優劣にかかわらず、算数の時間になると、解けないものは解けないのであって仕方がない。
そのはずなのに、(たとえ1時間考えてわからない問題であろうとも)机を叩かれ、罵声を浴びた。
物凄い怖くて逃げ出そうと思ったけど、逃げるのも怖かった。
逃げたら、行き場所が無くなる。行き場所が無くなったら、麻布中学への進学なんて当然不可能。
僕と北山は、お互いアイコンタクトで励まし合い、切磋琢磨していった。
小規模の模擬試験では、常にトップ10 僕が7位で銀メダルを初めて貰ったときは嬉しかった。
北山は悔しそうな顔をしていたが、「すげぇな。おめでとう。」と、素直に喜んでくれた。
しかし、北山と僕は同じ時期に「日曜恐怖症」になった。
朝から学校に行き、帰りは親の車で稲問解に行き、罵声を浴びて震え上がり、帰宅したらまた勉強。
入浴晩ご飯を済ませた後も、(汚い話ではあるが)トイレが大の時は、(夜は母親が居るので)「かあさん、頼むよ! 」
と、歴史の参考書を渡し、トイレのドア越しで、一問一答していた。
トイレの壁中、公式、暗記物、ことわざ、漢字、植物の名前、など、受験に必要な知識ばかりが張り巡らされていた。
というか僕が頼んで、母親と共同作業で完成させたものなのだが。
そして、話を戻すと、結局、そんな毎日を月曜から土曜(私立小学校は土曜も学校がある)までぶっ通しでやっていると、休みたくもなるし、例え勉強しようとしても、わからなければ怒鳴られるのでは、奮起するどころか、萎縮してしまってますます出来なくなる一方で、僕は小学五年になる直前、稲問解を辞めた。そして、今、小学五年の僕は、大手日能研に通うことを決意した。日能研で骨を埋める覚悟で。
一方、母親たちの会話の中では、「堀内君なんて、7位っていうけど、所詮井の中の蛙よ。」「そうそう。日能研とか大手に行ったら着いて来れないって。ハハハハハハハ! 」
と、母親も相当バカにされていたらしく、僕に何か日能研での成果をあげて欲しいんだなと言うのは小学校五年でも直ぐにわかった。
だから、僕は頑張るし、今から待ち受ける未来へ向かい、稲問解での残酷な過去を消し去る。
『決意』という言葉の意味をはじめて知ったのだと想う。