同病
──自転車……そうだ、確か来る時にも。
ひらりと背後の自転車に道を譲りながら、俺はまた記憶を振り返る。
確か、羽佐間に殺人にまつわる話を打ち切られた直後だ。
このことも考慮すると────。
「どうしたの、急に黙って」
去っていく自転車を目で追いながら、俺は沈黙した。
今この瞬間に思いついたそれを、詳しく吟味していたが故に。
この様子は流石に奇異に見えたのか、羽佐間はきょとんとした顔で問いかけてくる。
それに対する返答は、我ながらぼんやりとしたものだった。
「ああ、いや。自分から話を振っておいてアレだけど、何だか解決しちゃったみたいだから……」
「え、解決?分かったってこと?」
「ああ、あそこに生卵のパックが捨てられてあった理由……割と妥当な奴がさ」
実のところ、明確な物証がある推理という訳でもない。
究極的には、俺があーだこーだ言っているだけの妄想なのだ。
しかしそれでも、今思いついたこの推理は自分としては一番納得できるものだった。
こんな小さい話でも推理って成り立つんだなあ、と俺は心の中で変な感心をする。
その心情が、周囲に漏れていたのだろうか。
不思議そうな顔をしながらも、羽佐間は「じゃあ、聞かせて?」と軽く要請してきた。
無論、俺としても断る理由はないので即座に頷く。
この小さな謎に巻き込んだ側として、説明責任があるだろう。
だから俺は、ゆらりと一本、指を立てた。
気分としては、それこそ推理小説における探偵になった気分で。
扱っている謎の規模が違い過ぎるが、雰囲気くらいは真似ても罰が当たらないだろう。
ちょっと気取った感じで、俺は探偵っぽい始まりの言葉を口にした。
「さて────」
「さっき、買い物に行っている自転車を見て思いついたんだけど……この時間帯、そういう人が多いよな。合唱コンクール会場の近くで、特に見るというか」
羽佐間にも分かりやすいよう、俺は推理の流れを最初の部分から説明していった。
手間ではあるが、こうも丁寧に言わないと分かりにくいだろう。
「今すれ違った人もそうだし、会場に行く時もそうだ。会場に行く途中で、買い物姿の自転車に轢かれかけたくらいだし」
「そう言えば、そんなこともあったけど……でも、それが何なの?」
生卵と関係ないじゃない、と言いたげな羽佐間の顔。
まあそう思うよな、と頷きながら話を続ける。
「ちょっと推理としては遠回りになるが、そういう人が何故この辺りに多いかを考えてみる。そうすると、あのゴミ箱のことも分かるから」
「よく分からないけど……自転車が多いのは、単純に夕暮れだからだと思う。夕食の買い出しのために、自転車でスーパーにでも買い出しに行く人が多いってだけじゃない?」
「ああ、多分そうだろう。では、何故自転車が使われているのか?歩きではない理由は?」
「何故って……歩いて行ける範囲に、良いスーパーが無いから?」
それがどうしたの、という風に羽佐間の目が細められる。
不満の色が強くなった表情から目をそらしつつ、俺は「そこだ、そこが重要になる」と告げた。
「受付の人も言っていたけど、この辺りってあの会場を除けば大した店も施設もなくて、普通の民家ばっかりなんだ。だからこそ、昼になると車で外食に行くって言ってたんだし」
元々俺たちの住む東京都映玖市は、首都の一画にあるとは思えない程地味な街だが、合唱コンクール会場付近は更に地味である。
飲食店もお洒落な店もなく、コンビニすら数が少ないように見える。
そのことは、学校から三十分もかけてここに歩いてきた俺たちが直に確かめたことだった。
こういう街並みだからこそ、買い物に行きたい人は自転車を持ち出すのである。
近場に丁度いい店がないので、自転車で買い出しに行くのが便利なのだろう。
「で、ここから俺の想像なんだけど……何日か前、この近くに住む人の中に、その買い出しの一環で生卵をパックで買った人がいたんじゃないかと思う。何を作る予定だったのかは知らないけど、まあ普通に十個パックを買ったんだ。これは良いか?」
「良いかも何も、よくある買い物だと思うけど。それが?」
「その状況でもう一つ、よくあることが起きたと仮定する……生卵を買った時って、とりわけ注意しないといけないことがあるだろう?特にママチャリの籠みたいな、揺れるところに置いてしまった場合は」
ここまで言うと、羽佐間にも俺の言いたいことが分かってきたらしい。
話の全貌はともかく、次の言葉は読めたのか。
さらりと彼女はそれに言及した。
「生卵を割っちゃったってこと?籠が揺れて飛び出したとか、どこかにぶつけたとか……そういう風に、パックごと叩きつけて」
その通り、と俺は頷く。
頻発する出来事という程でもないが、それでも偶にあることだった。
生卵を買ったのに、持ち帰るまでに割れると言うのは。
多いのは車で買い物に行った時だろう。
後部座席に置いていた買い物袋を家に着いてから確認したら、気が付かぬ間に揺れに負けていて、卵が中で割れてて悲惨なことに……なんてのは珍しくもない話。
プラスチックの卵パックというのは、防御力と言うのが大して無いのである。
そして当然、これは自転車で買い物に行った時も同様に起きうることである。
羽佐間が言うように、籠から買い物袋が飛び出して地面に中身がぶちまかれ、その衝撃で破損したというのが一番有り得るだろうか。
最近の通行人の中に、そういう人がいたと考えてみる。
「当たり前のことを言うけど、生卵っていうのは割れると対処に困る。食べられなくなるのは勿論、べたべたするし、服とかには染みが残るし。他の買い物に生卵が付着するのもアレだから、この人も割れた卵はさっさと処理したかったはずだ」
「まあ、そうだろうけど……つまりその人は、どこかで早く水洗いでもしようと思ったってこと?」
「ああ。ではこの人物は、どこでそれを洗うか?」
普通なら、手近なコンビニや公園の水道でも頼りたいことである。
しかしこの付近は、先述したように店が少ない。
コンビニも公園も無い、というのはこれまた受付のおばさんが言っていたことだ。
付近の民家に飛び込んでみるという手段は取れなくもないが、気分的にこれはやりにくいだろう。
生卵が割れてぶちまけられたというのは、悲惨な状態だが命に関わる緊急事態という程でもない。
この程度のことで見ず知らずの人間に迷惑をかけるのも、と考えても不思議ではない。
そうなると、残った利用できそうな場所は────。
「合唱コンクール会場しかない、か……その人は会場のトイレを、いえ正確には水道を借りたのね?」
「そうだと思う。この付近で唯一の公共施設だし、トイレを借りるくらいなら誰でも使える。適当に自転車を停めて、グジャグジャの生卵パックを抱えたまま手洗い場で洗ったんだろう」
トイレのゴミ箱で生卵パックを見つけるという絵面が強すぎたせいか、今までの俺たちの思考は極端になってしまっていた。
トイレ内で生卵を食べるのが趣味の人でもいるのか、なんてことも考えたが……。
真相は実のところ、こんなくだらないことだったんじゃないだろうか。
「トイレの水道に辿り着いたその人まず、自分の手や服を洗う。ついでに、他の買い物とかも洗ったのかもしれない。で、問題の卵パックもダーッと水で洗い流す。殻に関しては、多分粉々になってたからそのまま流れていっちゃったんだろう。もしくは、一々殻を選り分けるのも面倒で自ら砕いたか」
「それで、洗い終わった卵パックをトイレのゴミ場に捨てたってこと?」
「多分そうだ。言ってみればゴミの持ち込みだから、マナーの良い行為ではないけど……」
それでも本人としては、そこで空の卵パックをもう一度持ち帰るのも面倒だったのだろう。
工作教室の下りで少し話したが、空の卵パックを再利用する方法はまず無い。
ゴミを一々持ち帰るくらいなら、目の前にあるゴミ箱へ────その心境、分かる気もした。
「まあ、全貌としてはこんなところだと思う。要は買ってきた卵を割ったうっかりさんが、トイレを借りて洗って捨てたってだけの話。それが全部終わってから俺が来たから、トイレで生卵を食べた奴がいたかのように見えたんだ」
「……一連の過程を知らない松原君が結果だけを見たから、謎に思えただけってこと?」
「そうなるな……いや、ゴメン。わざわざ相談までしておいて、オチがこれで」
何となく悪いことをしている気分になった俺は、そこで羽佐間に謝っておく。
別に真相がショボかったこと自体は、俺のせいでもない気がしたが──リアルに発生するミステリの真相なんて、所詮こんなものだ──それでも彼女を巻き込む程の話でも無かった。
少なくとも、二人して延々考える程の重大事項では無かっただろう。
「別に、オチがどうこうって言うのは良いんだけど……それよりも」
「それよりも?」
「いや、松原君が考えた推理について、まだ気になることがあって」
そう言いながら、彼女はいきなり動いた。
意外にも機敏な動きで、羽佐間はしゅるりと俺の手元に自らの手を伸ばす。
あっと思った瞬間には、手に持ったままだったデジカメが彼女の手に渡った。
「さっきの写真、これだよね?今の推理が正しいとすると、ちょっと気になることがあるんだけど……」
──あ、写真が見たかったのか……いや、言えよ。
当たり前のように会話を続ける羽佐間を見ながら、俺は内心でちょっとツッコむ。
写真が見たいだけなら、俺に一言言ってくれればその場で提示したのに。
どうして彼女は、こんなスリみたいなことをしているのか。
内心かなり驚いたが、しかし怒るほどの事でもない。
変に真剣な顔で画面を見つめる彼女に釣られて、俺は追加された質問に答えていった。
「この写真で見る限り、卵パックはそんなに濡れてない。これは松原君の推理的には、どう説明がつくの?」
「普通に、捨てられてから時間が経ったからだと思う。利用者も少ないトイレのゴミ掃除が毎日されているとは限らない。多分昨日くらいに卵パックは捨てられて、そのまま回収されていないんだろう。それで自然乾燥したんだ」
「じゃあもう一つ、紙はどうしたの?この卵パックを洗う中で、その人自身も手が濡れたはず。だから普通、紙で手を拭くと思うんだけど、ゴミ箱には卵パックしかないでしょう?」
「あのトイレ、俺は使わなかったけどエアータオルもあるんだよ。だからその人は、そっちで手を乾かしたんだと思う。だからこそ、ゴミ箱にはパックだけが捨てられたんだ」
「後は……具体的に、犯人がどういう人かは分からないまま?」
「そうだな、そこは調べようがない。男子トイレに捨ててあったんだから、犯人は男性だとは思うけど。ああでも、強いて言えば受付の人に聞けば分かるかもな。最近利用者が少なくて、トイレを借りに来る人くらいしか訪れないみたいなことを言ってたし。ひょっとするとそのトイレを借りに来た人こそ、あの卵パックを捨てた人の可能性があるから」
羽佐間がポンポンと挙げていく質問に、俺は応じられる範囲で受け答えしていく。
すると彼女としても疑問は消えたのか、むうと唸りながら何も言わなくなった。
その横顔を見ながら、俺は言い訳のようなことを付け足しておく。
「……所詮は証拠も何もない想像だから、ツッコもうと思えばいくらでもツッコミどころががあるとは思う。極端な話、生卵をトイレで十個一気食いする人だって絶対に存在していないとは限らない。あくまでこれは、俺的に一番納得できるのはこういう状況っていうイメージで……言ってみれば、理屈っぽい妄想みたいなものだ」
「理屈っぽい妄想か……ふーん」
少し面白そうに。
同時に、どこか物憂げに。
何とも言えない表情を浮かべたまま、羽佐間はくるりとこちらを振り向く。
「最後に一つ、聞きたいんだけど」
「何を?」
「松原君……いつもこんなことをしてるの?」
「こんなことって?」
「今日みたいに日常から変なことを見つけて、その度に一番納得する解釈を見つけることをしてるのかってこと」
「んー、まあ、そうなるかな……これが、俺の趣味みたいなものだから」
ミステリ好きが高じてか、俺には昔から、気になったことについては推理染みたことをする癖があった。
他の人が気にすること──友達関係や世間の流行──にはさっぱり興味を持たないくせに、こういうことは何故か納得するまで考えてしまうのである。
こういう無意味な考察こそ、読書、カメラに続く俺の第三の生き甲斐なのかもしれない。
そういうことを、俺は羽佐間の視線に促されるまま説明する。
無表情でそれを聞き遂げた彼女は、俺の話そのものには口を挟まず、しかし最後にこう呟いた。
「松原君って……」
「何だ?」
「やっぱり、変わってる」
「……」
──初対面で「殺人をするならどんなやり方を選ぶ?」って聞いてくる子に、変わってるって言われちゃったよ……。
何となくシュールな心境になって、俺は微妙な表情をする。
そこで気が付いたのだが、羽佐間も同じような表情をしているようだった。