真意
松原夏美は、スマートフォンを複数所有している。
プライベートで使用しているものが一台。
それとは別にもう一台、仕事用に購入した物があるのだ。
と言っても、これくらいの使い分けをする人は、社会人ならそこそこいるだろう。
別段、夏美が特別変わった人間という訳でもない。
特に彼女は芸能関係の仕事に就いている都合上、仕事用のスマートフォンでやりとりした情報を絶対に外部に漏らせなかった。
それが分かり切っていたために、ボヌールに入社した瞬間、仕事用のスマートフォンを新しく買ったのである。
しかし再三言っているように、ボヌールの仕事はかなりハードだ。
大きなイベントを企画している時だと、何日か家に戻らないこともざらにある。
必然的にと言うべきか、彼女は段々とプライベート用のスマートフォンには触らなくなっていった。
それこそ、紫苑と飲み会のやり取りをするのが精々の用途だろうか。
他の時間は大体仕事をしているので、弄る機会が少ないのである。
結果として、家族からプライベートな連絡があっても、平気で数日は無視するような状況になってしまっていた。
いくら仕事が忙しいにしても、これではいざと言う時に困ってしまう。
弟である玲に万が一のこと──交通事故に遭うだとか──があった時、すぐに応答できないのは問題だろう。
その辺りを考慮した上で、彼女はつい先日、三台目のスマートフォンを購入していた。
三台目のスマートフォンの用途は、ずばり緊急用である。
身内の不幸や、一分一秒を争うような異常事態の発生。
その手の急ぎの連絡を夏美相手に行いたい時は、この三台目のスマートフォンに連絡してくれ、と家族や親戚に頼んだのだ(プライベート用をもっとこまめに確認するという発想は、面倒臭いので既に捨てている)。
プライベート用のスマホは鞄の中で死蔵されているが、緊急用はスーツの中に常備するようになっている。
それなりの出費ではあったが、これの登場によって初めて、親族から夏美への緊急連絡は可能となったのだった。
勿論、あくまでエマージェンシーコールであるので、そんなに頻繁に鳴るものではない。
悪戯で鳴らそうものなら本気でシメる、と事前に従兄弟や弟には警告もしてある。
だからこそ、この緊急用スマホは購入以来、一度も鳴ったことが無かったのだが────。
この日。
玲の合唱コンクールが終わり、振替休日となっていた日。
夜更かしをして日記を書いたせいで昼まで寝ていた彼とは対照的に、夏美が普通に出勤していた日。
そんな日の午後。
緊急用のスマートフォンが、初めて鳴った。
相川葉によって、エマージェンシーが発令された。
「羽佐間灰音、か……」
職場のパソコンを苛立たし気に操作しながら、夏美は人差し指で何度も机を叩く。
自らの焦りや恐怖を、別の場所に逃がそうとしているかのように。
彼女の視線の先には、自分のアカウントに届いていた玲の日記があった。
先程夏美に届いた、葉からのエマージェンシーコール。
その電話で、葉は端的に指示を出していた。
ついさっき、自分は玲から送られた日記を読んだ、恐らく夏美さんにも届いていると思う、何も聞かずにそれを読んでくれないか────。
──普通の奴なら、悪戯電話で済ませたんだがな。
そんなことを思いながらも、夏美は指示通りに玲の記録を開き、重要そうなところを読み続けた。
自らの弟が初めての彼女と出会うまでの経過、奇妙な告白、不思議なデート、そして突然の別れ。
既に聞いていたことも振り返りつつ、夏美はこの一ヶ月で玲に何が起こったのかを把握していく。
そして、最後の最後まで来たところで。
夏美は思わず、天を仰いだ。
葉がどうして緊急事態だと言っていたのか、ここで察したのだ。
──詳細を電話口で言わなかったのは、私にもまっさらな状態で推理してもらいたかったからか……確かに、ダブルチェックの方が確実だが。
葉は日常探偵研究会の部員たちの力を借りたそうだが、それでもこの真相を信じ切れないところがあったのだろう。
いくら何でも、まさかと。
だからこそ、夏美にこの記録を全て読ませたのだ。
「相変わらず勘が良いな……正解の手法だ」
そう呟きながら、夏美はふっと表情を消した。
普段はバラエティ豊かな感情を見せる彼女だが、極限まで集中した時は話が別だ。
今まさに、夏美はその状態になっていた。
「最初に茶木刑事辺りに頼んで……特定中も動いた方が良いな。黙っててくれそうな刑事に声をかけた方が良いか。そうなると第一に……」
ブツブツと自分で自分の行動を指示しながら、彼女は滅多に使わないはずのプライベート用のスマートフォンを弄り始める。
最初に、旧知の茶木刑事にとあることを指示。
その次に、親友たる氷川紫苑に電話した。
ついこの間、一緒に飲んだ上に殺人未遂事件に遭遇したばかりなのだが、随分と早い再会となってしまった。
不運なことだ、と他人事のように同情しながら、夏美はコールを聞き続ける。
「もしもし……私だ。すまない、何も聞かずにすぐに仕事を早退して、私と同行して欲しい。事情は車内で話す」
電話してすぐに夏美がそう告げると、スマートフォンの向こうで随分と慌てた声が響いた。
具体的には「どうしたんですか急に」とか、「今も仕事中なんですけど」とか言った、極めて常識的な批判を紫苑が訴えているのである。
その全てが正論だと思いながら、夏美はもう一度懇願した。
「頼む……氷川刑事ではなく、氷川紫苑として頼みたい仕事があるんだ。お前にしか頼めない!」
しばし、沈黙。
やがて小さなため息と共に、どこに行けば良いのかと質問がなされる。
それに返事をする前に、夏美は上司に向かって声を張り上げた。
「鳳プロデューサー!申し訳ありませんが、昨日に引き続いて有給を取りたいと思います!」
「え?……あ、いや、うん?」
「良いですか!」
「別に良いけど……どうしてまた?」
弟さんの合唱コンクールは昨日で終わったんだろう、と不思議そうな顔をする上司。
彼の前で、夏美はさらりと理由を述べた。
いいえ、未だに何一つ終わっていないんですと。
普段は電車を使う通勤ルートを、学生以来の全力ダッシュで帰宅して。
必要な物を用意した上で、車庫から出した車を爆走させること数分。
あっという間に、夏美は映玖署近くの待ち合わせ場所にまで到達していた。
「……で、何が起きたんです?」
既に待ってくれていた紫苑は、スピーディに助手席に乗り込むと同時に、真剣な表情でハンドルを握る夏美に問いを投げかける。
彼女とて分かっているのだ。
よっぽどの緊急事態が起きているらしい、ということには。
加えて夏美は電話口で、「刑事としてではなく、個人として協力してほしい」という旨の言葉を述べている。
正直これだけでも、きな臭い流れは感じ取ることができた。
だってそれは、これから何が起きようと警察沙汰にしないと言っているようなものなのだから。
「流石に、夏美さんが完全に反社会的なことをやろうとしているのなら、協力はできませんけど」
「まさか……今からしようとしていることは、その逆だ。人命救助だよ」
間に合えば、の話だけどな。
そう言いながら、夏美は話の準備をするように唇をペロリと舐めた。
日が落ちるのが早くなったのと、夏美が記録を読み終えるまでに時間がかかったため、既に時刻は夕暮れに近い。
夏美たちの横顔を、眩しすぎる程の夕暮れが付き刺した。
今にも消えそうなその光に急き立てられるように、夏美はいつもの符牒を呟く。
「さて────」
最初に、夏美は読破した弟の日記の内容を一気に述べていく。
全てを解説するほどの時間は無いので、重要な点を搔い摘みながら。
言わば総集編を提供した上で、夏美は紫苑に問いかけた。
「ここまで、玲と初彼女の出来事を網羅した訳だが……どうだ、氷川。この羽佐間灰音という少女について、何か思うことは無いか?特に、その家庭環境について」
相手の理解度を試すための質問。
夏美としては分かりきっていることを敢えて問いかけると、紫苑は言いづらそうな顔をしながら答え始めた。
「家庭環境ですか……それは、その」
「遠慮はやめろ、時間が惜しい」
「その……玲君が想像している以上に、貧乏な家庭なのではないかと。話を聞く分にはそう思いました」
ここは読めたか、と夏美は僅かに気を緩めて感心する。
玲が見抜けなかったことを、この友人は見抜いたのかと。
これはやはり、刑事としての社会経験がなしえたことだろうか。
「正直、かなり私の偏見が入るんですけど……カラオケボックスでのことが……その」
「ああ、言いたいことは分かる。羽佐間灰音の行動が迅速過ぎる、と言いたいんだろう?いくら彼女に推理力があったとは言え、一日足らずで下着売買にまつわる証拠を全て集めて、警察が動くだけの告発をするなんてのは」
……なまじ、玲に推理力があったのが悪かったのだろう。
この不思議さに対して、玲の日記では好意的な解釈がなされていた。
自分の知らないところで灰音は証拠集めをして、警察に独自に言いに行ったのだと考察されている。
玲自身はそういう方法しか使わないため、勘違いをしたのだ。
きっと、自分の彼女も同じ方法を使ったのだと。
そう思い込んだからこそ、何て危険なことをしたんだと心配までしていた。
しかし夏美たちが考えるに、玲が行ったこの推理は間違いだ。
恐らく羽佐間灰音は、そんな地道な方法で警察に告発をしたのではない。
そもそも──玲自身も言っていたが──こんなあやふやな証言だけでは、警察は動いてくれない。
だからきっと、彼女は。
もっと、犯人が言い逃れできないような証拠を持って行ったのだ。
SNSで犯人が買い手を探している様子のスクリーンショットや、実際の入金記録と言った、明確な物証を。
「そう、なりますよね……玲君たちの初デートが終わったのはお昼前で、その日の夕方には警察がカラオケボックスに向かっています。つまり灰音さんは、たったの数時間で警察が急行するほどの『何か』をした訳で……」
「どんな名探偵でも、そんな証拠を短時間では揃えられない。私でも無理だろう……最初から持っていない限りはな」
そう前置いてから、夏美ははっきりと述べた。
中学生の身に起きていたことだと考えると、中々に口にしにくい真相を。
「恐らく、羽佐間灰音は前々から自分の下着を売っていたんだ。例のカラオケボックスで……いや何なら、それ以外の場所でも頻繁にな。だからこそ、この手の犯罪に詳しかったし、犯人を即座に追い詰められる程の物証も持っていた。何せ、自分自身が証拠の塊なんだからな」
「警察には……自分の名前は出していませんよね?それなら、灰音さんにも警察の捜査が行われたはず」
「ああ。自分のアカウント名だけは匿名化したか、或いは自分が関与しないことを条件に告発するような、何らかの取引をしたか……細かい事情は分からない。だが何にせよ、彼女が下着売買に関わっていたのは間違いないと思う。少なくとも、捕まった店員のことは前から知っていたはずだ」
玲と灰音のやり取りに、こんな部分がある。
玲が彼女を心配したことで、それを「告発を恐れた犯人に襲われる危険性があったから」だと解釈され、灰音が言い訳を述べている場面だ。
彼女はそこで、「襲撃されるとしたら確実に私だから」と口にした。
玲が、はっきりと記録している。
こんな細かいことまで文章中に再現している玲の記憶力は大したものだが、夏美は彼以上にこの言い回しに注目していた。
どうして、犯人に襲撃される対象が確実に自分だと言えるのか?
犯人であるカラオケボックス店員とは、その日初めて出会ったはずで、玲や灰音の個人情報は知られていないはずなのに。
灰音が前々から下着売買に関与していた────つまり、その店員と顔見知りだったと考えれば辻褄は合う。
売買のシステム上、彼女は既に店員に顔や身元を知られていた。
だからこそ、店員が誰かを襲撃するのなら、素性を知られている自分がまず襲われると考えた────これなら、彼女の発言に納得がいく。
「下着売買に中学生が手を出す理由は、色々と考えられるが……」
「遊ぶ金欲しさ、とはちょっと思えません。そもそも、金遣いが荒い様子も無いですし。スリルや興味本位とも考えにくいでしょう。事実、最終的にはその犯人の悪事を告発しているんですから」
「そうだ。だから消去法で考えると、やはり貧しさ故だろう」
詰まるところ。
羽佐間灰音は、違法な下着売買に軽く関わるような馬鹿ではなく、あぶく銭を求める考え無しでもなく。
純粋に、そうでもしないと生きていけないレベルの貧困の中にいたのだ。
玲は、灰音がデートに制服で来た理由を推理する際、「まさか私服を一着も持っていないなんてことは無いはず」と述べた。
しかしこの推理は、残酷なまでに外れてしまっている。
彼女はきっと、本当に────私服を一着も持っていなかったのだ。
だからこそ、ずっと制服姿だった。
例えデート中であっても。




