愛称
「今回私たちが気にしている謎は、ダイイングメッセージがどうして漢字で書かれているのかという一点だけだ。これを解くために、もう少し手前のところから考えたい」
夏美の推理はいつも淡々と始まる。
この状態の彼女は理性の鬼と化しているので、話には殆ど感情が差し込まれない。
その様子はある種非人間的でもあったが、同時にノイズが少なくて聞きやすくもあった。
「事の始まりは、四谷慎吾の浮気性だ。二度も離婚をしたことから分かる通り、彼はちょっと病的に女の尻を追い回すところがあった」
「今回も、懲りずに別の女性や夏美さんを口説こうとしていましたもんね」
「ああ。だが流石に彼だって脳細胞が死滅している訳じゃない。いくら何でも、浮気がバレて痛い目を見るたびに何かしら学習していったんじゃないだろうか……そんな仮定をしてみる」
──えっとつまり……四谷慎吾は昔に比べて、浮気を隠すのが上手くなっているのではないかということですね。
テンポの速い夏美の話についていくべく。紫苑は脳内で推理をリアルタイムにまとめていく。
正直着地点が分からないというか、この話がどうダイイングメッセージに繋がるのかは読めなかったが仕方がない。
夏美の話はいつも、こんな感じなのだから。
「勿論一番の学習は、もう浮気をしないことだが……今日の様子を見る限り、そんな殊勝なことはしなかったんだろう」
「じゃあ、何をしたんです?密会場所を凝るようになったとか、そういうことですか?」
「それもあったかもしれないが……二度目の離婚をした時の経験を生かしたんじゃないかと思う。飲む前に言わなかったか?彼が二人目の妻と離婚した切っ掛け」
──切っ掛けって、確か……。
言われて、紫苑は数時間前の記憶を思い出していく。
彼自身の浮気が切っ掛けで、二度目の離婚を迎えたという四谷慎吾。
その浮気が発覚した経緯と言えば────。
「自分の妻を浮気相手の名前で呼んでしまって……その混同が切っ掛けとなって離婚した、でしたっけ」
「そうだ。実際、浮気男にはよくあるミスらしいけどな。本妻を愛人の名前で呼ぶ、或いは愛人を妻の名前で呼んでしまうというのは」
別に意図して酷い扱いをしている訳ではないのだろうが、うっかり発生してしまうミス。
だからこそ、浮気発覚の一因になってしまう。
「それで痛い目を見た四谷慎吾は、きっとこう考えたんだ。妻のことを別の女性の名前で呼んだからこそ浮気がバレた……ならば、同じ名前で呼んでしまえばいいんじゃないかって」
「同じ名前……?」
「簡単に言えば、全ての交際女性の呼び名を統一するってことだ。極端な話、妻のことも愛人のことも全て『ハニー』と呼んでしまえば、少なくとも呼びかけでミスすることはないだろう?」
まあ、今時相手のことを「ハニー」と呼ぶ奴がいるかどうかはさておき。
流石に例えに無理があると思ったのか、言い訳めいた補足がついてくる。
「……現在付き合っている女性全てを、全く同じあだ名で呼ぶようにしていたってことですか?確かにそうすれば間違えませんし、本人としても覚えやすいでしょうけど……」
一度は頷いてから、紫苑は首を傾げる。
一理ある意見だとは思ったが、同時に無理があるとも思ったのだ。
「でもそれ、現実的には難しくありません?一人目の彼女はその子のあだ名で呼べばいいでしょうけど、二人目、三人目の彼女は明らかに本人の名前からかけ離れたあだ名で呼ぶことになります。例えば一人目の彼女が『幸子さん』で、その人のことを『さっちゃん』と読んでいたら……」
「二人目の彼女が『美紀さん』とかの名前でも、『さっちゃん』呼びになるな」
「でしょう?その場合、二人目以降の彼女には『君のことはさっちゃんと呼んで良いか?』と聞かないといけない訳で……勘の良い人なら、それだけでも浮気を疑いますよ」
紫苑の個人的な意見だが、彼氏から明らかに別の女性を連想させるあだ名で呼ばれることを了承する女性というのはそういないと思う。
幸運にも浮気を疑われなかったにしても、「この人には実は忘れられない元カノがいて、その人と自分を重ね合わせているんじゃないか、だから呼び名を変えているんじゃないか」なんて思われてもおかしくない。
「だから正直、今の夏美さんの推理は無理があると思いますけど」
「そこに関しては私も同意する。いくら何でも、名前の違う複数の女性を同じ呼び名でやっていくのは難しい。だからこそ、四谷慎吾はこう考えたんじゃないだろうか」
そこで一度、夏美は言葉を切る。
そして、心底呆れた様子で推理の核を述べた。
「同姓同名の女性とだけ交際すれば、同じあだ名で全ての女性を呼称しても不自然じゃないんじゃないかってな」
夏美の推理を聞いた瞬間、紫苑はフリーズする。
質実剛健に生きてきた彼女の人生には全く無い発想だったので、処理しきれなかったのだ。
自然、彼女はおそるおそる続きを尋ねることになった。
「つ、つまり……四谷慎吾は浮気がバレないために、全く同じ名前の女性だけを探して浮気していたってことですか?同姓同名なら、本名をもじったあだ名も自然と同じようなものになる。それを利用して呼称を統一し、呼び間違いをする可能性をゼロにしようと……」
理屈的には、夏美が紫苑のことを「氷川」と呼び始めた理由の裏である。
響きが同じ呼称というのは、取り違えの原因となる。
逆に言えば、響きさえ全く同じであれば、仮に呼び間違いをしてもミスとは思われない。
「そういうことだ。無論、流石に多少は妥協していただろうがな。一文字違いくらいならOKとしていたんだろう」
「いや、でも……そもそもどんな名前の女性を集めていたんですか、それ」
「そこは簡単に分かるだろう。私がしつこく口説かれていたんだから」
言われて、紫苑ははっとなる。
今の推理通りなら、四谷慎吾はほぼ同姓同名の女性にばかり声をかけていたはず。
そのターゲットに夏美が含まれていたということは────。
「響きが『マツバラナツミ』である女性、もしくはそれにかなり近い名前の人だけを彼女にしていたってことですか?『マツクラナツコ』とか、『マツバラナツナ』とか……」
「そうだと思う。多分、二人目の妻と別れてから最初に付き合った彼女がそういう名前だったんだろう。だからそれ以降の浮気相手は、その彼女と近い響きの名前を持つ人に限定していたんだ。そうすれば、呼び間違いでミスをすることだけはもうなくなる」
「……可能なんですか、それ。呼び名が似ていて、なおかつ四谷慎吾のタイプの人なんて、そんな何人もいない気がしますけど。仕事の都合上、芸能関係者ばかりに声をかけることになりかねませんし」
「大量にはいなかっただろうな。しかし芸能界も広いし、『マツバラ』も『ナツミ』もそんなに珍しい名前じゃない。本気で探せばそこそこいたはずだ……特に芸能人相手の場合、芸名でも良いんだしな」
──本名が「マツバラナツミ」とは全く違っていても、芸名の響きが「ナツミ」に近ければターゲットになったってことですね。交際相手のことを芸名で呼ぶのも何だか不思議な気がしますけど……。
それでも、ただただ浮気をするために呼称を統一し続けたのだろう。
芸名まで含めれば、単純に名前の候補は倍になる。
条件さえ揃えば、同じあだ名の人とだけ浮気するというのは不可能ではないのかもしれなかった。
「でもこれ、何だか変な話ですね。浮気をするために呼び名を一緒にするというレベルを超えて、呼び名を一緒にするために浮気しているような……本末転倒じゃありません?」
「私もそう思う。恐らく四谷慎吾は、気になった相手と関係を持つというより、浮気という行為自体を楽しむタイプだったんだろう。背徳感とスリルを楽しんでいたというか」
「バレたくはないけど、浮気のスリルは体験し続けたいってことですか?だから、夏美さんのことも口説こうとした……名前さえ似ていれば、相手は誰でも良かったから」
夏美自身、不思議がっていたことだ。
他にもアイドルはいたのに、どうして他事務所の社員をわざわざ見初めたのか。
今の推理が正しければ、この点については説明がつく。
単純に、音の響きが現在交際中の女性と似ていたからだ。
この人相手ならバレにくい浮気を楽しめるぞ、と思って口説き始めたことになる。
「ただぶっちゃけ、この推理に証拠は無いんだけどな。でも、その内証拠は出てくると思う。警察は今、夜更けの街で証言集めに奔走しているとか言っていたが……その内、彼の交友関係を洗うようになるだろう?」
「まあ、そうですね。喫茶店で誰かに会っていたのは間違いないんですから。関係の深い相手に事情聴取をしに行くのは当然です。交際中の人や、言い寄っていた人は一人ずつ確かめるでしょう」
「なら、その捜査の中で浮かび上がってくる名前はきっとどれも似たり寄ったりのはずだ。そのリストアップができた時、私の推理が正しかったことが確認できる」
要するにそれは四谷慎吾の浮気リストなんだからな、と言いながら夏美はコーヒーを一口。
証拠は無いと言いながらも、自分の推理の正しさを確信している様子である。
「でも夏美さん、仮に四谷慎吾が同姓同名の人とだけ浮気するようにしていたにしても、それが今回のダイイングメッセージとどう繋がるんです?」
「何だ、まだ分からないか?最初に私たちは何を不思議がっていた?」
言われて、紫苑はずれ過ぎていた思考回路を慌てて元に戻す。
色々と突飛な推理を聞いていたために忘れかけていたが、自分たちは本来たった一つの謎を調べていたはずだ。
瀕死の状態で書かれたはずのダイイングメッセージが、何故だか画数の多い漢字で書かれているという謎を────。
「あっ……なるほど、そういうことですね!四谷慎吾がひらがなやカタカナでダイイングメッセージを書かなかったのは……イニシャルすら残さなかったのは」
「単純に、漢字を使わないと誰が誰だか分からないからだ。『マツバラナツミ』とか『N.M』とだけ書いても、四谷慎吾に限ってはその候補者が多いんだからな」
ようやく分かったか、と言いたげに夏美が軽く笑う。
そのまま、彼女は一息に四谷慎吾の動向を語っていった。
「事件の経緯自体は、最初の方に推測したもので間違いないと思う。四谷慎吾は今日も『マツバラナツミ』風の名前の女性とデートをしていた。その女性が何番目の女かは知らないがな」
「しかし、デート中に何かしらトラブルが起きた。それは私を口説いたことかもしれないし、或いは別の切っ掛けで浮気がバレたからかもしれない。呼び名を間違えなくても、浮気がバレることは普通にあるだろうしな」
「人目を避けるためにあんな路地で言い争いをしていたが、やがてヒートアップした彼女は近くのあったレンガで四谷慎吾を殴打。彼は血を流して倒れ、恐怖を覚えた女性は逃走した」
「しかし、意外と傷が浅かった四谷慎吾は残った力でダイイングメッセージを残す」
「だがここで問題が生じた。『マツバラナツミ』とだけひらがなやカタカナで書くと、候補者が複数いるんだ」
「さっき氷川が言っていたように、傷害事件や殺人事件が起きれば警察は被害者の交友関係を漁る。被害者自身が浮気性だったなら、愛人全てに話を聞きに行くだろう。重要な容疑者だからな」
「つまり四谷慎吾が死ぬか、そこまでいかずとも意識不明になれば、警察は数多の『マツバラナツミ』たちに話を聞きに行く訳だ。それは四谷慎吾自身にも分かっていた。何せ、浮気している張本人なんだからな」
「つまりその書き方だと、今日会った『マツバラナツミ』をピンポイントで告発できないんだ」
「もっと言えば、告発できないどころか冤罪のリスクすらあった。例えば犯人が『松原奈津子』という名前で、四谷慎吾が『マツバラナツ』とまで書いた時点で力尽きたとする。そして別の彼女に丁度『松原菜津』という人がいたら……まるで、そっちを告発しているみたいになっちゃうだろう?」
「だから名前の響きを書き残すだけでは、自分を発見する者たちに有用な証拠を残したとは言えない。かといって『三番目の彼女』とか、『映画の披露試写会で会った人』とか書き残すのも変だしな」
「実際には傷は浅かったからそこまで心配しなくてもいいんだが、本人的にはそこまで分かっていなかっただろう。別人を告発するダイイングメッセージしか残せなかったなら、無念のあまり死ぬに死ねない」
「だからこそ、執念で漢字で書いたんだ。体勢的にかなり無理をして書いたから、大分不格好な文字になったが……ちゃんと読めたのは奇跡だな」
「残された文字が『梛』だったのは、単純に犯人の名前が『松原梛津実』さんとかだったからだろう。一番特徴的で、個人を特定しやすい部分を書いたんだ。多分、他の文字は別の彼女の名前とダブっていたんだろう」
「もっとも、その一文字目が画数の多いものだったから、それだけ書いたところで気力が尽きて、気絶してしまったんだが」
「結果、頭を殴られて必死にダイイングメッセージを書いた割に、複雑な漢字を用いているという状況になった。それを見て、私たちは『意外と余裕あるな!?』と驚いていたんだ」
「……ああ、発見後に証言を翻した理由?それは簡単だ。状況が変わったってだけ」
「あのダイイングメッセージを書いている時は、本人的にはもう死を覚悟していた。だから浮気相手を告発することも、その余波で世間に恋愛トラブルが発覚するだろうということも気にしなかった」
「何せ、もう死ぬ気だったんだからな。死んだ後にいくら炎上しようが、あの世にいる本人は痛くも痒くもない」
「ところが、彼は助かった。ならば当然、あの世ではなくこの世で仕事がある」
「こうなると当然、ダイイングメッセージがきちんと解読され、自分の浮気癖や傷害事件に至るほどのトラブルがあったことが世間にバレるのは、彼の俳優人生にとって大きなマイナスだ。生き延びて仕事を続けたいのならな」
「だからこそ、急にしらばっくれるようなになったんだ。浮気相手に殴られたとするよりも、通り魔にやられたとでもしておいた方が都合がいいからな……その程度の小細工で警察を騙せると信じているとすれば、相当な馬鹿だが」
「そう考えると、あのダイイングメッセージは今の彼となっては有害ですらあるな。本人がもう浮気関係のことは全部隠そうとしているのに、なまじ努力して書いたものだから、はっきりと『梛』の字は残ってしまった」
「次に目が覚めたら、あのダイイングメッセージのことも否定するかもしれないぞ」
「それこそ、『本当にダイイングメッセージを書くならひらがなやカタカナで書きますよ、漢字で書いている時点で偽物です』とか言い出すんじゃないか?」




