親友
その日、松原夏美はご機嫌だった。
元より仕事の早い彼女だが、普段の三倍速で仕事を片付けて定時帰社する程度にはテンションが高かった。
面倒を見ているアイドルたちの都合上、残念ながら彼女の仕事が減ってしまっているという事情もあったのだが、それ以上の高揚を感じさせる帰宅姿。
上司であるプロデューサーに驚かれ、部下であるマネージャーには窘められたと言えば、その機嫌の良さが伝わるだろうか。
どうして機嫌が良いかと言えば、これはよくある話。
この日の夕方、彼女は旧友との会食を企画していた。
平たく言えば、親友と今から飲みに行くのである。
「氷川と飲みに行くのも半年ぶりくらいだな……グラジオラスのデビューに大わらわで、ここのところは一緒にご飯に行く余裕もなかった」
一度家に帰って私服に着替えながら、夏美は鼻歌交じりに回想する。
お互いに社会人となってからも、夏美は氷川紫苑というその親友と定期的に会っていた。
そうやって縁を途切れさせないくらい、互いに大切に思っている友人なのである。
元より顔の広い夏美は学生時代から知人が多いタイプだったが、それでも紫苑との交流は別格だった。
小中高と全て同じところに通っていたために、下手すると家族よりも長い時間を一緒に過ごしている。
半年も会わなかっただけで寂しがる程には、彼女たちの関係は深かった。
「特に高校生の頃は、殆どずっと一緒にいたなあ……二人で馬鹿をやって」
鏡に映った私服姿を確認しながら、夏美はしみじみと一言。
より正確に言えば、昔から好奇心旺盛だった夏美が押しの弱いところのあった紫苑を振り回していたというのが実情に近いのだが、記憶を上手い具合に美化する彼女である。
仮にこの場に弟がいれば、「姉さんって本当にそういうところある」とでも零したことだろう。
「そろそろ時間……行くか」
友人相手ということで、化粧の方はかなり手を抜いておく。
その上で時計を確認してから、彼女は家を出た。
目指すべきは予約してあるレストラン────ではなく。
警察署である。
と言っても、別に自首をしに行く訳ではない。
件の親友を迎えに行くだけだ。
一介の少女だった松原夏美が、今では芸能事務所のプロデューサー補佐として活躍しているように。
彼女の親友である氷川紫苑は、現在東京都の映玖署で働く刑事になっているのだから。
「……夏美さんが警察署の前でウロウロしていると、何だか不穏なものを感じますね」
警察署から出てきた親友は、開口一番ため息交じりにそんなことを言う。
口調こそ昔ながらの敬語──紫苑は誰に対しても敬語で話す──だが、内容は中々に辛辣だ。
「いきなり挨拶だな、氷川」
「仕方がないじゃないですか。茶木刑事が不安がってましたよ?あの人が来ると平穏無事に終わったことがないって」
たまらず唇を尖らせてみると、これまた懐かしい刑事の名前も話題に登った。
茶木というのは、夏美や紫苑が高校生の頃によく会っていた刑事である。
大人になってもつるむ相手は変わらない物だなあ、と夏美は内心でどうでも良いことを考える。
「……で、どうします?確かレストランの予約時間まで、まだちょっと会ったと思いますけど」
「まあな。飲み会だから車も持ってきてないし……喫茶店でも入って時間を潰すか?それともそっちは一度着替えるか?」
紫苑の格好を見ながら、夏美はそんな提案をする。
職場から出てきたばかりということもあって、紫苑はカッチリしたスーツ姿だった。
ベリーショートの髪型とスラリとした体躯に、すっぴんに近いさっぱりした顔立ちも加わっているため、彼女の姿はこれから飲み会に向かうそれではなく、未だ仕事中なのではないかと思わせる。
「着替えたいなら、そっちの家に寄ろうか?スーツ姿のお前といると、まるで刑事の張りこみに付き合っているような気分になるし」
「何ですか、その印象……着替えなくて大丈夫ですよ、別に。高いスーツでも無いですし、元より着替えるような私服も大して持っていませんし」
だから喫茶店に行く方で、と紫苑は素早く決断。
こういうところもまた変わっていない、と夏美は苦笑する。
昔から彼女は、服や化粧に拘る暇があったら庭で摸造刀片手に素振りをしているような少女だった。
何にせよ、方針が決まれば後は歩くだけ。
二人して手近な喫茶店を探してブラつき始めたところで、紫苑はふと心配そうな顔を浮かべた。
「ところで、夏美さんって今日は予定大丈夫なんですか?いつも忙しそうですし、途中で誰かに呼び出されるようなことは……」
「それは心配しなくていい。丁度仕事が空いている時期というか、やることの少ない時期だからな。寧ろそっちはどうなんだ?何だか警察署全体が忙しそうだったが」
不意に、夏美は紫苑の様子を気に掛ける。
と言うのも警察署の前で紫苑のことを待っていた際、夏美は何人かの刑事らしき男性が焦り気味に警察署を出入りしているのを目撃していた。
だからこそまた何か事件でも起きたのでは、と気を揉んでいたのである。
「ああ……それは多分少年課の人たちですね。裏バイトの件で色々揉めているらしくて。私が呼ばれることはまあ無いと思いますけど」
「裏バイト?」
「はい。ここだけの話なんですけど」
周囲を気にしつつ、紫苑は夏美の耳元に口を寄せる。
親友相手にすら敬語で話すほどに丁寧な性格をしている紫苑だが、こうやって警察の情報を夏美相手に零すことも稀なことではなかった。
親しさ故の情報漏洩と見るか、夏美の推理力を活かすための必要悪と取るかは人に寄るだろうか。
「数年前から、闇金業者が都内の中高生に対して密かにバイトを持ちかけることがあるみたいなんです。そこそこのお金を積んで……」
「闇金業者が頼むバイトって……何だ、運び屋でもさせるのか?」
「もっと性質が悪いですよ。中高生を利用して、その業者からお金を借りている人たちの調査をさせているんです。夜逃げしていないかとか、隠し財産が無いかとか」
「それはまた……妙なことに関わらせてるな」
本来なら闇金業者本人がやるべき仕事なような気もするが、彼らもコスパを求め始めたのだろうか。
確かに「闇」金である以上、普通にバイト募集をすることもできない業種ではあるだろうが。
「要するに幾つかの業者が、中高生に金をちらつかせて下っ端として使っているんだな?それで金の借り手を追っている」
「そうです。普通に闇金業者がうろつくと、いくら何でも相手に警戒されてしまう。だからこそ、普通の中高生を債務者に張りつかせるんだとか」
「そうすることで借り手の夜逃げなんかを防ぐ訳か……考えたな。中高生をこっそり雇うだけなら、いくら弾んでも所詮は大した額ではない。手下を新しく用意するよりも簡単に、しかも闇金業者本人は隠れて金の取り立てができるという訳か」
「勿論、中高生をそんなことに使う時点でアウトです。でも時給が良いこともあって、この裏バイトに参加してしまう子が多いらしくて……」
だからこそ、少年課が忙しくしていたらしい。
そういった裏社会のバイトに関わっていく内に、少年少女がそちら側に染まってしまうのを防ごうとしているのか。
「夏美さん本人がそのバイトに誘われることはまあ無いでしょうけど……弟さんには本当に気を付けて欲しくて」
「弟って、玲が?」
「はい。長いこと会えてませんけど、確か丁度中学生ですよね、玲君」
そう言えばその二人が会う機会は最近なかったな、と夏美は今更のように思い出す。
かつては夏美の弟と夏美の親友が一緒に遊ぶことも珍しくは無かったのだが、やはり社会人になるとそう言う交流は難しくなっている。
紫苑がこの話を教えたのは、このところ会えていない玲のことを心配したせいのようだった。
「まあでも、流石に玲は大丈夫だろう。いくら何でも、そんな怪しい誘いに食いつくほど馬鹿じゃない」
「確かにそうでしょうけど、一応ご一報をと思って。バイトに興味を持ち出す年齢でしょうから」
「バイトか……何か興味あるのかな、アイツは。高校になったらそういうことも増えそうだが」
段々と話は犯罪から離れて行き、近況を雑談するような雰囲気になる。
そんなこんなで、現役刑事と芸能プロデューサー補佐は喫茶店まで歩いて行った。
「……そう言えば、昔から聞きたかったことがあるんですけど」
「突然どうした、氷川」
のんびりとした雰囲気で近くの喫茶店に飛び込み、まったりとコーヒーを飲むこと数分。
唐突に疑問を呈してきた紫苑に、夏美は目を丸くする。
「今のもそうですけど、夏美さんって私のことを『氷川』って呼びますよね。確か、高校生の時くらいから」
「ああ、そう言えばそうだが」
「でもその前は……中学生くらいまでは、『紫苑』って呼んでくれていましたよね?何で唐突に呼び方を名字に変えたんです?別にそれで何か困る訳でもないので、何となく放置してましたけど」
普通は逆ですよね、と言いながら紫苑はパンケーキにフォークを刺す。
彼女の不思議そうな顔を見ながら、そう言えば理由を言っていなかったかと夏美は少し驚いていた。
今まで聞かれなかったものだから、てっきり理由を説明したものだと思っていた。
「別に大した理由じゃない。当時、私は他の中学や高校から面白そうな奴を集めてよく遊んでただろう?その中に『詩音』という名前の子がいたんだ」
「ああ、読みが同じ子が……それで、混同するのを防ぐために名字呼びに?」
「そういうことだ。私はお前とよくつるんでいたから、その『詩音』ともどこかで鉢合わすと思っていたからな……いやまあ、結果から言えばそういう機会はほぼ無くて、ただただお前を名字で呼ぶだけになったが」
「うーん……十年越しに聞いた割にはつまらない理由だったような」
まあそんなものですかね、と言いながら紫苑は苦笑する。
「じゃあ別に、今は下の名前呼びで良いのでは?」
「それはそうなんだが、何だか私も『氷川』って呼ぶのに慣れたからなあ……下の名前で呼んで欲しいか?」
「いえ、そこまででも無いですけど」
今更ですしねえ、と言いながら紫苑もコーヒーを啜った。
雑な対応と言えばそうだが、ある意味では二人の仲の良さを象徴するエピソードでもある。
呼び名がどう変わろうが、別にどうでも良いくらいには仲が良いのだから。
「それに今時、下の名前で呼ぶのが親愛の証って訳でもないだろうしな。さっき話に出ていた玲なんか、自分の彼女のことを普通に名字で呼んでいたぞ」
「へえ……って、玲君彼女ができたんですか?」
「ああ、あれには私も驚いた」
話している内に、自然と夏美の弟のことが話題に上った。
普通なら自分たちのことを話すのだろうが、互いの職業の都合上、近況を話そうにもこのような個室も無い店では話せない内容が多い。
自然、二人にとって共通の知り合いかつ一般人である夏美の弟のことで、話が盛り上がるのである。
「最近玲がまた面白いことを始めていてな、私も興味を持って観察しているんだが……」
ニヤリと笑いながら、夏美は嬉々として弟のことを話そうとする。
しかし、その瞬間。
「あれ、夏美さんじゃないですか?」
夏美と紫苑の会話に割り込む存在があった。
反射的に二人は振り返り、そして夏美が一方的に顔をしかめる。
紫苑はきょとんとした顔のままだったが、これは仕方がないだろう。
夏美のみが知る相手だったのだから。
「やっぱり、夏美さんだ。奇遇ですね。こんな偶然、あるんだ」
「……確かに奇遇だ、四谷さん」
げんなりとした表情で、夏美は相手を見た。
帽子と伊達眼鏡で顔を隠した、背の高い男性の姿が視界に収まる。
夏美としては大して興味もない相手なのだが、向こうはそうではないらしく、隠れていない鼻から下が一気に喜色満面となった。
「どうしたんですか、こんな早くに。いつも忙しい忙しいと仰っているのに……」
「まあ、ちょっと私用があったもので」
「そうですかあ……でもこれは良いことを聞いたな。夏美さんでも時間のある時って、あるんだ。どうです今度……」
「いえ、今日以外は忙しいので」
バッサリと会話を切り捨てると、夏美は紫苑を見つめてアイコンタクトする。
流石は親友と言うべきか、即座に意図を汲んだ紫苑は伝票を掴んだ。
「すいません、マスター。支払いを」
紫苑が席を立つと、あからさまに四谷と呼ばれた男性が嫌そうな顔をする。
しかし初対面の紫苑相手に文句を言う度胸は無かったのか、何も言わずに店の奥へと引っ込んだ。
スタスタと歩いた彼は、既に一人の女性客が座っていた座席に腰を下ろす。
彼の方もここであの女性と待ち合わせをしていたんですね、と紫苑は判断する。
そう考えている内に、今度は夏美の方が紫苑に耳打ちをした。
「……ありがとう、氷川。ちょっとしつこい相手だから」
「別にいいですけど……何なんです、あの人」
「平たく言えば、他社に所属している俳優だ。多分、帽子と眼鏡を取れば氷川も知っている名前だと思うぞ」
そこまで言ってから、夏美は一つため息。
「最近、アレに口説かれていてな……面倒臭いんだ、本当に」
「……それはまた」
紫苑の声色は、どうしても同情的なそれになってしまった。
弟が彼女を作っているのとは対照的に、姉の方は望まぬ苦労をしているらしい。




