無知
推理小説を読む中で、偶に「え?」という展開に出くわすことがある。
ざっくり言うと、次のような展開だ。
舞台は現代、殺人事件か何かが起きて、市民は恐怖のどん底に落ちている。
警察は当てにならず、主人公の少年探偵とかが事件に単身挑んでいる状況。
そんな作品の大詰め────現代ミステリの最終章だ。
この段階にまで物語が進むと、大抵全ての証拠は読者に開示されている。
犯人は複雑なトリックを使ったことが分かっていて、具体的にどんなことをやったかだけは分かっていない。
だがしかし、神の如き推理力によっていよいよ少年探偵が真相に気が付く瞬間がやってくる。
丁度、こんな感じに。
「犯人の使ったトリックが分かりました……きっとあの人は××という薬品と△△という薬品を現場で混ぜたんです。以前本で読んだのですが、これを使うと、酸化還元反応がどうたらこうたらして、光刺激がうんたらかんたらで(中略)素人目には血のように見えます!このトリックを使って、彼は死体を偽装したんだ!警部さん、皆さんを大広間に集めてください!」
少年探偵が叫ぶと、それを信じた警察は関係者を呼んで推理ショーを開催する。
かくして、この難事件は解決した……。
こういう展開を見ると、面倒臭い俺は思うのである。
主人公の探偵よ────君、何でそんな複雑な科学知識あるの?
事件に関わってから知ったのならともかく、「以前本で読んだ」って?
主人公が大学教授だとか、少年だけど発明をいくつもやっている天才だとかいう設定ならまだ良い。
探偵本人がその事象に関する専門家であったのなら、別に作中設定は破綻しないし、何なら作品のウリにすらなる。
しかし、主人公が「特に取り柄のない平凡な学生。ある日、突発的に事件に巻き込まれる」なんて設定だったのに、唐突に上記のような推理が真相として提示されると、違和感を抱いてしまうのだ。
普通、人間は興味がないものには詳しくない。
自分の仕事や趣味としていることについては詳しくても、それ以外についてはサッパリな人は多いだろう。
多くの人は、使いもしない知識を蓄えることも、関心の無いジャンルに手を伸ばすこともしないのだ。
しかし推理小説の探偵というのは、何故かあらゆるジャンルの雑学に詳しいように描写されることがある。
電車が舞台の事件では時刻表を暗誦し、暗号文が残っていれば様々な暗号の解法を列挙し、マジシャンと競えば手品の種をすらすらと述べる。
これで設定上は「平凡な学生」とか「浮気調査しかしていない私立探偵」とかなのだから、違和感が凄まじい。
ここまで雑学に詳しいのであれば、私立探偵なんてやめてクイズ番組とかに出場した方がよっぽど稼げるのではないか。
そうツッコミたくなるくらい、彼らは博識だ。
長く続いた作品とかだと、もうこの世全ての雑学を言い終えたんじゃないだろうかってレベルで主人公は物知りになっていく。
何故こういうことになるのかは、一応理解している。
平たく言えば、メタ的な問題だ。
推理作家からすると、探偵と言うのは雑学に詳しくないと困るのである。
当たり前だが、推理小説には何らかのトリックが出てくる。
トリックの種類によっては、雑学や豆知識を利用したものも多数ある。
そういう知識がないとそもそも解けない、という作品が出てくるわけだ。
だから、その謎を最終的に解く探偵の知識量が少ないのは困るのである。
それではいつまで経っても、謎を解いてくれない。
しかもこういう場合、推理作家は読者に対してその雑学を事前に提示することが多い。
いくら何でも、推理シーンで突然「実はこの世にはこういう現象があって」と述べるのでは唐突過ぎるからだ。
真相に繋がる伏線提示のために、どこかで登場人物たちに雑学を確認させる必要がある。
こういう時、主人公が最初からその雑学を知っていたことにすると話が早い。
一言、「昔、何かで見たことがあるんだけど……」とか言わせて、相棒相手に語らせればすぐに描写できる。
流石にそれだけだと伏線としてあからさま過ぎるので、もうちょっと自然な流れで提示できるように努力されるだろうが。
仮に主人公にその手の知識がないと、推理シーンに行くまでに「主人公たちが専門家に話を聞きに行く」とか、「情報屋から必要な情報を得る」みたいなシーンを挿入する必要が出てくる。
これは話が長くなるし、小説としてのテンポも悪い。
主人公は雑学に詳しいとしておいた方が、作家にとっては色んな意味で好都合なのだ。
故に、主人公の雑学は作家の努力に応じて無制限に増えていく。
作家が音階を利用した暗号を思いつけば、主人公は音楽に造詣が深いことになり。
作家が植物の毒性を利用した殺人トリックを思いつけば、主人公は毒物について前々から異様に詳しかったことになる。
凄いのになると、銃殺された死体を見た瞬間に主人公の少年(無趣味、成績が良くないという設定アリ)が「恐らく弾丸はこれで、口径はこのくらいだろう。凶器はライフルではなくピストルで、頭は逸れやすいから胸を狙ったはずだ……」なんて解説し始める。
この平和な日本でお前はどうしてそんなに銃に詳しいんだ、という疑問は暗黙の了解でスルー。
銃を活用したトリックに繋げるためには、どうしても必要なシーンなのである。
……ぐだぐだと推理小説の浅いアンチみたいなことを述べたが、こういう疑問点を繋げると、探偵に共通するある特徴が見えてくる。
正確には、推理という行為の特徴か。
端的に言えば────いかに探偵と言えど、知らないことに関しては推理できないという事実。
これが浮かび上がってくるのだ。
推理という行為は、既に知っている情報を整理することで行われる。
どれだけ頑張ったところで、無を有にすることはない。
あくまで、探偵の知っている範囲内で理屈の組み立てをするのだ。
イメージとしてはジグソーパズルが近いだろうか。
組み立てる側の人間がやるのは、ピースを持ってくるのと、それらを組み合わせて全体像を確認することのみ。
虚空からピースを生み出すことは不可能だし、許されない。
このルールがあるからこそ、探偵が元から博識だという設定になっていく。
博識であればあるほど、利用できるピースが増える。
手持ちのピースが多い探偵ほど、パズルを組み立てやすい。
探偵でも何でもないただの中学生ですら、この例外ではない。
俺もまた、無を有にはできない。
俺が推理可能なことと言えば、一般的な中学生でも知っていることだけで。
どれだけ推理を頑張ろうが、知らないことについては推理できないのだ────。
「お、これか……分量凄いな、葉兄ちゃん」
羽佐間灰音と奇妙な経緯で付き合ってから、初めての土曜日。
予定がないことを良いことに朝寝坊した俺は、朝食を食べることもなくパソコンを弄っていた。
「どれだけ送ってきてるんだ、これ。ただの日記のはずなのに」
ブツブツ言いながら、俺は読み込みの遅いダウンロード画面を見つめる。
すると不意に、背後から寝ぼけた声をかけられた。
「……何やってるんだ、玲」
「ん、ああ、姉さん」
振り返ろうとした瞬間、頭から背中にかけて生暖かい感触が広がる。
視界の端に入り込むのは、姉さんのパジャマの生地だ。
姉さんがふざけて後ろからのしかかっているのだ、と理解するのに数秒かかった。
「土曜の朝からガチャガチャと……朝飯、食べたか?」
「いや、今食べるとお昼が入らなくなりそうだから、食べてないけど」
「んー、それもそうだな……私も抜くか。時間的に微妙だ」
自分で言いながら納得したのか、姉さんは俺にしがみつくようにしてずるずると座り込む。
口調から察するに、まだ半分寝ているらしい。
久しぶりの休日だから仕方がないが──多忙な姉さんは、休日出勤も平然といつもやっている──彼女にしては珍しい様子だった。
「で、お前は何やってるんだ?何かブツブツ言ってたが……」
「ああいや、今日、葉兄ちゃんから長い文章が送られてくる予定になってて。それを見ようと思ったから」
「文章……葉から?」
何だそりゃ、と言いながら姉さんは俺の肩越しにパソコンの画面を覗き込む。
必然、俺は姉さんに背後から抱きしめられるような体勢になった。
こういうことを平気で行う辺り、俺たち姉弟は何だかんだ言いつつ仲が良いのかもしれない。
「『探偵など要らない学園生活』……何だこれ、ネット小説か?」
「いや、葉兄ちゃんの日記らしい」
「……葉は自分の日記に、こういう題名をつけているのか?そういう感じのタイプではなかったような」
訳が分からん、と言いたそうに姉さんが首を傾げる。
葉兄ちゃんと姉さんはそこまで親しくはないはずなのだが、それでも彼が日記に凝るようなタイプではないはず、という認識はあったらしい。
まあ意外だよな、と思いながら俺は解説を入れる。
「一応、理由があってさ……ほら、この前姉さんにも言っただろ?葉兄ちゃんに彼女ができたって話」
「ああ、お前が夜に叫んでた奴な」
「あの話、凄く経緯が面白いらしくて。葉兄ちゃんに馴れ初めについて問い詰めたんだけど……」
羽佐間と付き合った日の晩、彼に相談をしていた時の話である。
途中で葉兄ちゃんの彼女について聞いた俺は、本来の相談事も放り出して話を聞いた。
それこそ、次の日に寝坊しかけるくらいには夜遅くまで長電話をした記憶がある。
しかし彼の話は、実を言うとそこまで時間をかけても尚終わっていなかった。
彼と恋人の馴れ初めは高校に入学した時期にまで遡るらしく、純粋に話が長くて時間が足らなかったのである。
あの日の晩は結局、話を途中で打ち切って互いに寝る羽目になった。
『この後の話も長いんだよな……そうだ、玲。毎晩電話するのもアレだから、今度俺の日記をそっちに送るよ。どうしても馴れ初めを知りたいのなら、それを読んでくれ』
電話を切る際、葉兄ちゃんが残した言葉がこれである。
多分、彼としても過去の記憶を振り返って話をするのが面倒になったのだろう。
或いは彼女ができたばかりのこの時期、恋人以外の人間と長電話をするのはあらぬ誤解を招くと「勘」が告げたのかもしれない。
何にせよ、葉兄ちゃんは約束通りにテキストデータを送ってきた。
この前の夏休みくらいから、葉兄ちゃんが諸事情あって書いたという日記である。
本人曰く、書いている内に興に乗って小説っぽくなってしまった代物らしいが、一応この日記を読めば葉兄ちゃんと彼女さんについて分かるらしい。
「……じゃあ、これがその日記なのか?葉とその彼女の馴れ初めが書いてある?」
「らしい」
「しかし、見た感じテキストだけなのにかなりの量があるぞ、これ」
軽く呆れた感じで話す姉さんの隣で、俺は確かにと頷く。
所詮は半年分の日記だと侮っていたのだが、実際に送られてきたテキストデータは普通の日記帳のレベルでは無かった。
文字数で言えば、八十万文字は超えている。
「一応、葉兄ちゃんもあまりにも人に見られたくない部分とかは消したそうだけど」
「それでもこの量か……どれだけの波乱万丈があったんだ、この半年間のあいつには」
やっぱり相川の一族は訳が分からんな、とだけ言って姉さんはそっと離れる。
二度寝に行くのか、それとも前言を翻して朝食をとるのか。
どっちでも良いか、と思いながら俺は送信されたデータの読み込みを再開する。
正直な話、俺も葉兄ちゃんがここまで大量のデータを送ってきたことには内心引いていた。
これなら、葉兄ちゃんが適当にまとめて話をしてくれた方が遥かに時間を短縮できる。
手間という点では、俺がこの日記を読むのは甚だ非効率だ。
しかし同時に、俺はこのことを好機だとも感じていた。
ある意味助かったと。
というのも、先日羽佐間から掛けられた言葉が引っ掛かっていたのである。
──松原君の推理は当たっていることが多いんだろうけど……だからと言って、人の心の全てが読み解けるわけでもない。
──今回は多分、そういう話だった。
前回の一件で、彼女が俺に対して行った評価。
簡潔に言えば、「松原玲は理屈っぽすぎて、人の心が分かっていない」と言われたのである。
だからこそ、恋愛関係の推理で羽佐間に負けたのだと。
別に、自分の推理力を過信していた訳ではない。
自分は何でも分かると奢っていたつもりもない。
しかしそれでも、あそこまで自分の足らない点を明示されると、やはり気にしないではいられなかった。
「だからこういう、他人の恋愛沙汰のこととかを読めば……少しは分かってくるのか?」
読み込み中、とだけ表示されるパソコンの前で、俺はポツリと呟く。
葉兄ちゃんに直に聞くのは、ちょっと恥ずかしさも残る。
故に、こういうテキストから人の心を学ぶのは俺にとっては良いような……。
これはこれで、何だかずれたことをやっている気はした。
それでもやっぱり、俺の頼れる相手はこういう人たちだけなのである。
目元を揉み解しながら、俺は「探偵など要らない学園生活」の読み込みを待ち続けた。