隧道の声
夏休みと言われて思い浮かぶものとは、なんだろう。
少し考えるだけでも、花火、海、祭り……と楽しいイベントが山ほど思いつく。
外からは少し開いた窓からセミの鳴き声が聞こえる。
「セミが俺を遊びに誘っている……」
それは現実逃避した意識から放たれた独り言だった。
本来ならば誰の耳に入ることもなく消える筈だったが、対面で立っている男の耳に入った。
「……安心しろ。セミはお前の成績の悪さに溜め息をついただけだ」
「聞こえてましたか、すみません。では俺は喧嘩を売ってきたセミを捕まえに行かねばならないのでこれで」
そう言っておもむろに席を立ち、扉へ二歩進んだところで肩を掴まれる。
「セミと喧嘩をしている時点で私から見れば五十歩百歩だよ。せめて人間レベルに成長してくれたまえ」
「先生、日本語は正しく使うべきです。この場合は喧嘩を『しようとしている』であって、まだ『している』ではありません」
「……ほう、国語教師に日本語の説教とは偉くなったな。出世祝いに課題を倍にしてやろう」
「げっ、職権乱用反対……」
「権力者に刃向かうとどうなるか、よくわかったろう? 懲りたら補習中に余計な口を開かないことだ」
したり顔の先生は、夏空のように爽やかな笑みを浮かべていた。
倍に増えた課題を片付けて、解放されたのは時計が頂点を指す頃だった。
最初は心地よかった窓からの風も、すっかり熱っぽくなっていた。
玄関まで戻ると、丁度友人と出会った。
「よう。お前も補習だったのか?」
「あ~……歴史がちょっとな……」
「歴史? あの先生、厳しいので有名じゃねぇか。よくそんなもの着けていったな」
俺が指を指す先には、黒いピアスがある。左の耳たぶに二つ、正面から見ると「8」の形に見える位置についている。
「すっかり忘れててよ……説教からの課題二倍になっちまった」
「奇遇だな、俺もセミと喧嘩しに行こうとしたら倍になった」
「何してんだよそれ……」
昇降口で話をしていると、友人の腹が鳴る。
「どうする? どこかで昼飯でも食うか?」
「いや、今日は夜に一大イベントを企画した。後で呼ぶからとりあえず解散だ」
コイツはよくイベントと名を付けて、ろくでもない事に誘ってくる。思い付きでヒッチハイクをしようとした時は流石に止めたが。
「今度は日帰りで済むんだろうな?」
「もちろんだ。楽しみにしとけって……じゃあな」
そう言うとさっさと帰ってしまった。
俺も腹が減った。早々に帰ろう。
セミが一斉に鳴きたつ様子を、蝉時雨と言うらしい。今日知った。
右からも左からも喚くセミの声は暑さを思い出させる。
日陰を求めて辺りを見渡すと、廃道があった。
鬱蒼とした木々が木陰を作り、涼しげな暗がりが手招いている。
通行止めの柵を避けて通ると、屋外では感じることが無いほどの冷涼な風が汗ばんだ肌を撫でる。
今まで大通りで日に当たりながら帰っていたのがバカバカしく思える程、快適な道だ。
やや背の高い草が目線を遮る道をかき分けて進むと、目の前にトンネルが現れた。
街灯は無く、中の様子はよく分からないが、反対側に心当たりはあった。
家の近くにこれとよく似た雰囲気のトンネルがあったのだ。
近道も出来て涼しい、正に一石二鳥の帰り道。
そう思い、トンネルに足を踏み入れた。
……ちなみに、一石二鳥も今日勉強した。
トンネルは壁面が赤レンガで出来ており、一目で見て分かる年代物だ。
横幅は車が一台と半分程だろうか。
どこからか漏れた水が断続的に音を響かせ、自然と背筋が伸びる。
一本道の先には光が見える。距離感は掴みにくいものの、十分歩いて行ける距離だ。
……全体の半分ほど歩いた頃だろうか。
トンネルに慣れてきた耳は、雨垂れ以外の音を捉え始める。
溜まった水がどこかへ流れているのだろう、流水の音が耳元で囁く。
女性の声にも聞こえたそれに驚き振り向くが、当然ながらそこに人の姿は無い。
ただただ、暗がりが嘲笑うように眺めていた。
気にするだけ無駄だと歩きだすが、何度も聞こえる人の声にその都度足止めされる事になった。
レンガ壁には年代を証明するような蛇のようなうねりを持った染みや汚れが一面に広がり、見れば見るほど狂気を模した絵画と幻視される。
見て息が止まったのも一度二度では無い。
引き返そうにも既に入り口は出口よりも離れ、入った時は眩いばかりであった光も今はもう遠い。
……後、二割も無いだろうか。
出口は一歩ずつ近づいている。
いつの間にか、囁き声は虫の羽音のように常に一定の音量を流すようになった。
電話の電波が悪い時のような、耳を覆いたくなるようなそれは出口まで後一歩という所で大きく変化した。
まるで初めから何もなかったかのようにぴたりと止んだのだ。
消えた音声を補う耳鳴りが変わりにやってきて、鼓膜を塞ぐ不快感がする。
閉塞感を打ち払うべく、暗闇から離脱した――。
トンネルの外に顔を出すと、あんなに晴れていた空の姿は消え、暗雲が覆っていた。
暗いながらもどこからか届く日の光が建物を不気味に照らし、独特の明かりを作り上げる。
電柱には尋常ならざる数の鳥が鳴き声一つあげることなく佇んでいる。
夕日をその瞳に反射させ、観測者の動向を伺っているように見える。
途中に夕立があったのか、地面は湿り、車が水を跳ね飛ばして走っている。
思ったよりも時間が掛かっていたのかも知れない。
早足で家へと向かった。
家はがらんとしており、誰もいなかった。沈黙を水道から滴る音が破るその空間は、トンネルでの事を思い起こさせる。
蛇口をひねり、水をなみなみと注ぐ。
外の暑さに見合わず、冷えた水だった。
コップの縁に口をつけ、啜って飲む。
空いたグラスに今度はさっきより少し少なめに水を入れる。
嵩が少し減った水を慎重に部屋まで運び、電気を付ける。
部屋は殺風景で、過剰に物の空いた床面を茶色く照らす。
外では雷雲の撤退を太鼓の音が伝えていた。
気が付くと、時計は十一時を回っていた。
眠気はほとんど無い。昼間と全く変わらないようにも思える。
エアコンも暑さに音を上げたのか、蒸し器のなかに入っているような暑さは変化の欠片も感じられない。
試しに窓を開けるが、風が凪いでいるのか、熱気を外に運び出してくれる気配が無い。
外には相変わらず湿気た空気が残っているものの、水溜りは澱んだ曇り空を写し続けている。
体が煙を上げて溶け出しそうな灼熱に耐えるべく、最終手段を取ることにした。
未だに暗いままの居間に儀式的にコンビニに行くことを伝える。
返事は無い。誰もいないようだ。
構わず家を出る。
外はやはり無風で、ただ自分の進む力によって起こる風のみが頬に触れる。
辛気臭いようなべったりとした空気に眉を寄せていると、ポツンと一人、公園のベンチに座る人影があった。
こんな時間であることを除けばなんてことは無い、近所の学校の服を来た女子高生なのだが、その顔は面を貼り付けたような無表情だった。
制服はヨレ一つない綺麗なままで、表情も相まって人形が着ているかのようだ。
どうしてこんな時間にいるのだろうか……?
困惑に目を瞬いていると、いつの間にか姿を消していた。
突然跡形も無く消えてしまった事に驚き、周囲を見渡す。
曇天の覆う暗い夜道ではあるものの、目の前にいた人間を見失う程では無いはずなのに。
視点を正面に戻すと、さっきまでと同じ位置に女子高生が全く同じ姿勢で座っていた。
見間違いであったのだろうか。
髪の合間から見える左耳には二カ所、かつてピアスを着けていたであろう跡がある。
どこかで見たようなそんな事無いような、居心地悪い既視感が心の底を撫でる。
驚き、後ずさりすると女子高生も俺の事に気が付いたようで、顔をまじまじと眺めてきた。
「…………あれ、まさか君――?」
やがて表情を驚きに変え、連動して口元が動く。
しかしそれ彼女の中の疑惑は自己解決へと舵を取ったようで、再度口を閉じる。
そうして改めて開かれた口から発せられたのは、嫌悪や叱責を滲ませた声だった。
「なんで、君がここにいるの」
「えっと……アイス、買おうと思って」
「ふざけないで」
「…………?」
何に怒っているのか分からず閉口していると、女子高生は思いついたように口を開いた。
「分からないの?」
「うん、なにかした……?」
「…………」
彼女は何も言わないが、ある一定程度は何かを理解したらしい。
「ついてきて」
そう言ってそのまま振り返る事もなく進んでいく。
このままここに立っていればこの奇妙な女子高生と別れられるだろうか。
そんな心の内を悟ったか、おもむろに振り返った。
「早く、時間が無いの」
有無を言わせない声に選択肢は一つしか無いことを理解した。
二人で歩く、暗い夜道。
場所や所が違えばデートからの帰り道にも見えるが、お互いの間に甘い空気は無く、一切の会話も無い。
そもそも縦一列に歩く二人は外から見ても行き先の同じ通行人AとBが良いところだろう。
彼女は沈黙を保ったまま足を進め、行き先を変えようとしない。
住宅街を抜け、運動公園を横目に過ぎる。
段々と街灯がまばらになり、今が月の見えない闇夜であることを改めて実感させる。
ほの暗い、ともすれば懐中電灯が欲しくなるような黒の中を、勝手知ったるように彼女は歩く。
きっと見失ったら俺は帰り道すら分からなくなるだろう。
そう思い、振り返らずに進む仄かな明かりをずっと追い続けた。
やがて彼女は足を止めた。合わせて足を止める。
目の前には古い赤煉瓦。
――昼間に抜けた、廃トンネルだ。
「このトンネル、俺が昼間に通ったやつだ……」
「そう、そしたらもう一回くぐり抜けて。この向こうで待ってる人がいるから」
「待ってる? ……誰が?」
「…………」
彼女は少し寂しい顔をして俯いた。言いたくない、とも言えないともとれる顔だった。
だがそれも一瞬で、すぐに毅然とした表情になった。
「いい? 中に入ったら何が起ころうと振り返らずにまっすぐ向こうまで行くこと」
「でも」
「良いから、鐘が鳴る前に早く行って……!」
有無を言わさぬその声に、慌ててトンネルへと足を向ける。彼女はついてくる気配が無い。
「あの……」
「私はここまで。……それじゃ」
そう言って数歩進んだ所で二の足を踏む。まるで限界を見定めるように慎重だ。
「…………」
聞きたいことが山ほどある。名前も、目的も、理由も、一切の説明を受けずにここまで来てしまった。
聞くべき声も、考えた言葉も、一切は夜の闇に溶けて消える。
なにも言えず、沈黙の別れを告げてトンネルの中へ入った。
蒸しながらも一定の気温があった外と違い、中は冷蔵庫の冷気を浴びたような冷ややかさがあった。思わず背筋が震える。
水が岩を叩く音が反響するが、行きの時にあった声のような水音はすっかり止んでいた。
変わりにと言うべきか、巨人が鼻息を鳴らしたような反響音が響き渡り、身が竦む。
二歩、三歩と進むごとに針を落とすような足音がする。
どこからか動物と思われる鳴き声がする。
ちり、ちりと鳴くそれはまるで人の血を啜る怪物の声のようだ。
緊張が高まり誰かに頭を抑えつけられているような圧迫感を受ける。
世界は時計周りを始め、前後の感覚が薄くなる。
恐怖に足が竦み、鉛を履いたように動かない。
進んだのはまだ四分の一程度だ。
かつて通ったときの何倍にも長くなったような気がする。
それでも、一歩を進めようとした時だ。
トンネルの壁を破らんばかりの勢いで、音が鳴った。
よく聞けば重厚な金属音のようにも聞こえるそれは壁という壁に反響し、音の形を保てるギリギリの大きさで俺の全身を殴りつけて後方へ去っていった。
何となく、一線を越えてしまったという感覚があった。
「ダ……ガ……」
何かいるらしい、声のようなものがする。明らかにネズミや昆虫といった小動物とは異なる。
「クグ…タ……」
それはさっきの音に負けない程の重い声。
姿も何も見えないそれは、自分の正面から呼び掛けているようだ。
「イキ…イ……カ……?」
声は自らの大きさに重ねられて原型を留めておらず、その声が発する意味を理解する事が出来なかった。
――しかし、この一言だけは、不思議と焼き付くようにはっきりと耳に残った。
「ソノ、生キタ魂ヲクレ」
ゆったりと、しかし一歩ずつこちらへ足を踏み出しているのを全身で理解する。
全身の肌が反り返り、同時に汗が滝のように流れた。
ダメだ。ここを通るのは不可能だ。
後で笑われても良い。怒られても構わない。遠回りでも引き返して別の道から行こう。
もう彼女の言葉は残っていない。ただこの場を逃げ出すことしか、頭に無かった。
一歩後ろにさがると、途端に異音が消えた。
異質な空気が薄まり、呼吸が楽になる。それに応じて段々と体が軽くなっていく。思考が水にぼかしたように薄まるが、それは大きな雲に乗り込んだように快感を伴って伝わる。
まるで風になったようだ。自由でどこにでも行ける、空を舞う存在。
誘う心と共に、俺は出口を越えた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
一文でも構いませんので、感想を頂けると幸いです。
余談ですが、タイトルの「隧道(ずいどう、すいどう)」はトンネルの事です。
戦後を境に「トンネル」が広まっていったそうです。
豆知識にどうぞ。