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「読んで、あんた、どう思った?」


「不思議な気分になりました。老人が振返る人生の中で、彼は職場の同僚だった平凡で内気な女と結婚するんです」


「ほぉ」


「その出会いも、夫婦生活の描写も、私と夫が現実に体験したものと良く似ていました。そして、物語の最後で……」


 急に澄子は口ごもった。


 やたらと打たれ弱い主婦を急かす気になれず、店主が醒めかけた紅茶をなめる内、


「主人公は、平凡な女との未来を捨てるんです」


 絞り出した声は一層か細い。


「元の喫茶店で目覚めた後、そこの美しい女店員と衝動的に駆落ちしてしまう。いつか平凡な女と出会う、月並みで穏やかな未来を全て失うと承知の上で」


「……成る程ね。それを読んでいる内にあんた、現実の記憶と物語の世界が混ざり合い、自身が捨てられる様な錯覚へ落ち込んじまった訳か」


 澄子は小さく頷いた。

 

「で、その後の決定稿で結末が変わり、主人公が平凡な妻を選ぶ結末を描いているかも、と思ったんだな?」


「……変ですよね。あの人が大学生の頃に書いたシナリオだとしたら、私とはまだ出会ってもいないのに」


「超能力者じゃあるまいし、普通は単なる偶然と思うわな」


「馬鹿な真似してるの、十分自覚してますけど」


「なぁ、あんたさぁ、そんなの、もう気にしなくて良いんじゃないか? どうせ旦那はとっくに死んで」


 と言いかけた所で暗い澄子の視線を感じ、店主は慌てて言い直す。


「……死にかけている所なんだろ。何にせよ、いずれ思い出になっちまうんだから」


「思い出だからこそ、私、どうしても認めたくないんです」


 俯いていた顔を上げ、言い返す澄子の目尻が心なしか潤んでいる。


「私と過ごした長い年月、夫の心の中に、いつもこの人がいたとしたら」


 澄子は栗原芽衣の写真を手に取り、店主の前にかざした。


「手術の恐怖に耐える間も、すぐ側にいる妻より、この人の面影が支えになっていたのなら、私、あまりに惨めじゃないですか!」


 身を乗り出した弾みで、澄子の前のティーカップが床に落ち、砕けた。


 赤い液体が通路の床を流れ、咄嗟にティッシュで拭いだす。

 

「良いよ、気にしなくて」


 店主に言われ、手先の動きを止めた澄子は、前以上に暗く、思い詰めた眼差しをこちらへ向けた。


「……それに何故、机の引出しの鍵が病室にあったか、私、気になるんです」


「あんたに見つからないよう、手元へ置いたんじゃないか?」


「万一の時は私が病室を片づけると、あの人も判っていた筈です。むしろ見つけるよう、仕向けていた気もして」


「何の為に、そんな?」


「……それを私も知りたいの」


 澄子は通路に残った紅茶の汚れを、また丹念に拭き始める。その沈黙が却って心痛を如実に伝え、店主は重い溜息をついた。


「あんた、やっぱり気にしなくて良い」


「あの……床の汚れなら、もう綺麗になりましたけど」


「いや、旦那が書いたシナリオの話さ」


 店主は二枚の写真を手に取って、表面を撫でた。


「実は俺も、この中に写ってるんだよ。年を食って見た目も随分と変わっちまったから、判らないだろうがね」


「……あなた、夫と一緒に映画を作っていたんですか!?」


 無精髭の中心で唇が懐かしげに微笑む。


「凄かったんだぜぇ、あんたの旦那。映画作家の登竜門、オリジナル動画のコンクールで続けざまに賞をとった。目敏い映画会社からすぐプロ入りの声が掛かり、このシナリオを書いたんだ」


「完成した映画もあるんですか?」


「言ったろ、ボツになるのは星の数」


「挫折したんですね……彼」


「商業映画にゃ色々しがらみがある。例えば奴はいつもの仲間で撮りたがったが、会社が認めたのはスタッフ数名、女優を一人使う事だけ」


「それが、芽衣さん?」


「ああ」


「二人は付き合ってたの?」


 恐る恐る訊ねる澄子へ、店主は肩を竦めて見せた。


「何にせよ、シナリオを練る間も散々揉めてさ。やっとこさ決定稿を仕上げた所でプロデューサーと喧嘩別れ。企画も潰れた」


「それじゃ……やっぱり決定稿はあるんだ」


「四か月前、あんたの旦那はその決定稿を含め、手元に残っていた昔の資料や原稿を、全部ここへ売りに来たんだよ」


 澄子は息を呑んだ。


 四か月前と言うと、猛が会社の仕事に一応の区切りをつけ、脳の手術の為に入院する直前の事だ。

 

「奴は事情を明かさなかったが、病気の事をあんたから聞いた御蔭で、原稿を処分した理由が腑に落ちた。ヤバい手術の前に、自分の中でけじめをつけたかったんだろう」


「で、その決定稿、今は?」


「何処かの物好きが買って行き、ここにはもう無い」


「そんな……」


「だから、これ以上、気にするのは止めろってんだよ!」


 消沈する澄子を黒縁眼鏡の奥から見つめ、店主は語調を強めた。


「あいつ、検討稿のシナリオを一冊手元に残し、芽衣の写真と一緒に机の引き出しへ隠しておいたんだろ。要するに、昔の未練を拭いきれない証じゃないか」


 未練という単語を、店主は意識してゆっくり発音してみせる。

 

「栗原芽衣って女はなぁ、映画の企画が潰れた直後に失踪し、行方不明になった。杉野猛が映画界から足を洗ったきっかけの一つが、それさ」


「えっ!?」


「死んだって噂もある」


 澄子は瞬時に表情を硬くこわばらせた。


「男ってのは往々にして昔の女をやたらと美化し、心の奥の神棚にず~っと飾っとくド阿呆な生き物だ」


 反射的に肯いてはいても、澄子の耳に店主の言葉は殆ど届いていなかった。


「何時まで経っても、未練たらしく引きずりやがって、割り切らねぇ。まして相手が消えたとなりゃ、思い出は美化し放題。勝ち目ないぜ、今の奥さんにゃ」


「……はい」


「あんた、もっと怒って良い!」


「……はぁ?」


「もっと素直にブチ切れちまえってんだよ! 怒って、怒って、てっとり早くアホな旦那を忘れるのが一番なんじゃないかと、俺ぁ……」


 店主が言い終える前に澄子は立ち上がり、シナリオの紙袋やショルダーバッグを置いたまま、店を出て行った。


 呼び止める店主の声がしたけれど、そんなの、もう今の澄子にはどうでも良い。


 もう、何もかもどうでも良い。


読んで頂き、ありがとうございます。

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