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「訳ありなんだろ、あんた? 見た感じ、切羽詰まってるぜ」
髭塗れの口元が歯を剥き出し、ニヤニヤ歪んだ笑みを形どって、帽子屋がチェシャ猫に変わったみたい、と澄子は思った。
「丁度、俺も暇を持て余していた所だ。何なら相談にのってやっても良いが」
確かにこのままじゃ先が見えない。
腹を決め、澄子はショルダーバッグから先程の紙袋を取出す。
「お、そりゃウチの、だね?」
「はい、私の夫は前にここへ伺った事があるみたいなんです。で、探しているのは、これの続きで……」
紙袋の中身は古いシナリオだ。
表紙に記されたタイトルは「未来への追憶」。左下に「検討稿」と赤字のゴム印が押されている。店主は一瞬、目を丸くし、シナリオを片手に取って凝視した。
「見覚え、あります?」
「いや……特に」
店主は奥歯に物が挟まった様な言い方をし、
「それにしても、続きを探すってのは、どういう意味だい?」
と元の藪睨みで、澄子を見た。
「まがりなりにも冊子になってンだ。プリプロダクション用の検討稿ったってさ、ちゃんと結末は書いてあるだろ?」
「それはそうですけど、何と言うか……検討用の原稿なら、直しを入れて、書き直した次の稿がある筈ですよね」
店主はシナリオのページを大雑把にペラペラめくって見せる。
「この分量だと映画用のホンとしてはやや短め。スタッフやキャストは一部を除いてブランク……未定のままか」
確かに監督の杉野猛、主演女優の栗原芽衣の他、殆ど名前が記載されていない。
「普通は企画会議で揉んで、検討稿の内容をプロデューサーやスタッフに諮った後、準備稿、決定稿と稿を重ねて、クランクインを目指す。でも、途中でボツになっちまえば話は別さ」
「ボツ、と言うと?」
「あんた、この世にどれだけ、オクラ入りする映画やドラマがあると思う?」
「……さぁ、見当も付きません」
「もう星の数よ。まして監督や主演が新人だとしたら、企画途中で立消えになる方が撮影へ漕ぎ着けるより余程自然ってもんだ」
「……つまり、この原稿の先なんて探すだけ無駄って事ですよね」
澄子の声が重く沈んだ。
がっくり肩を落とし、視線を落とした表情は、今にも床へ穴を掘り、自分を埋めてしまいそうな落ち込み様だ。
「……私、昔からいつも弱気で、臆病で、引っ込み思案の性分が直らなくて」
「はぁ?」
「子供の頃なんか、いつも教室の端に一人でいるから隅っこのスミコさん、なんて言われてたんです」
「あ、あんた、急に何、言い出すの!?」
「そんな弱虫が無理矢理やる気を出して何かしようとした所で、うまくいきっこ無いですよね?」
溜息をつく面持ちは、澄子の打たれ弱さをそっくり絵に描いた様だ。
店主が何も言えずにいると、彼女は夫のシナリオをそそくさ紙袋へしまい、顔を俯かせたまま、フラリと外へ出ていこうとする。
いきなりテンション急降下の客を放っておくのも気が引けるらしい。店主は咄嗟に後ろから片手を伸ばし、ショルダーバッグの革紐を掴んだ。
「待てよ、オイ……あんた、反応が極端だなぁ」
澄子は振返り、力なく店主を見る。
「とにかく事情を話してくれ。このまま返した日にゃ、俺の寝覚めが悪くならぁ」
澄子が俯くと、先程の女性店員が気を利かせ、盆に載せて紅茶を運んできた。
「どうぞ」
会釈し、澄子の前にティーカップを置く時、表情を隠す長い髪が左右に別れ、垣間見えた店員の顔立ちは、年を経、化粧っ気が無いにも関わらず艶やかに感じられる。
澄子より少し年上だろうか? 若い頃、さぞや美人だったに違いない。
「さぁ、飲むと落ち着くぜ。料理はイマイチだが、家内の紅茶は中々のモンだ」
やっぱりあの人、奥さんなんだ。
そう思いつつ一口飲んで、澄子は若干落ち着きを取り戻し、もう一度、シナリオを紙袋から出した。
「あの……実は二十六年前、これを書いたの、私の夫なんです」
躊躇いがちに語る声が、相変わらず客のいない古本屋の書架に響いた。
「へぇ、あんたの旦那、業界の人かい?」
「いえ、私と同じごく普通の……特に才能も、趣味への拘りも無い会社員……凡人だと思っていました。少なくとも、重い病気で昏睡状態になってしまうまでは」
「昏睡!?」
「……ええ、脳死に至ったと、お医者様には宣告されています」
ポツリポツリと漏らす声音に力が無い。ただ現実を直視したくない気持ちだけが伝わってくる。
客が抱え込んだ深刻な事情に店主が絶句すると、彼の妻は気を利かせたのか、そっと廊下の階段から二階へ上がっていく。
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