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よっこらしょ。
地下鉄・都営新宿線の改札口を出、岩波ホール手前の階段を上がりきって、杉野澄子は滲む額の汗を拭った。
膝とふくらはぎが少し痛い。
四か月前に夫が病で倒れて以来、病院詰めが続いたせいか、ちょっとした階段の上り下りでも弛んだ体が悲鳴をあげている。
あぁ、もう、まるでお婆ちゃんみたい。いやだわ、私、まだ四十五の誕生日が過ぎたばかりなのに……。
靖国通りと白山通りが交わる交差点手前に立ち止まり、軽く背筋を伸ばす。
見上げると頭上は薄曇りで、関東には珍しく濃い霧が立ち込めていた。季節は三月初め、腕時計を見ると午前十一時を過ぎている。陽射しの割に気温は高目だ。
澄子は布のショルダーバッグから本屋の包装用紙袋を取出し、印刷された住所とスマホのGPSマップを見比べた後、靖国通りを西へ歩き出した。
街路樹の花芽に春の息吹が感じられ、紺のシックなワンピースを風になびかせて歩く内、また汗がにじんでくる。
神田神保町を訪れたのは、もう何年ぶりになるだろう?
母校の女子大が一ツ橋にあり、学生時代は岩波ホールへ映画を観に来る事もあったが、社会に出てからトンとご無沙汰。結婚後、更に縁遠くなっている。
大体、この辺へ来る理由も無いのよね。岩波ホールにせよ、昨年の夏に閉館しちゃったそうだし。
隔世の感が身に沁み、浦島太郎にでもなった気分だ。それに元々、内気で出不精な性質が年を重ねるにつれて悪化し、すっかり億劫になってしまった自覚もある。
見渡すと、オフィスビルが立ち並ぶ今時の光景と昔ながらの古い街並みが未だ境目なく併存していて、妙なイメージに囚われた。
濃い霧の最中、不意に時の狭間へ迷い込む感覚……。
あのルイス・キャロルの物語で、アリスが不思議の国へ足を踏み入れた瞬間は、もしかしたら、こんな感じだったのかもしれない。
スマホのマップを参考に大通りを左へ折れて横路に入り、少し歩いてまた左折。再開発を逃れた一画の中でも、飛びきり古臭い路地へと至る。
今時珍しい木造モルタル造りの店舗が、細い十字路の角にあった。
かなり脱色の進んだ看板に「戯曲・脚本専門 幻灯屋」の文字が見える。
木製の書棚が店の外にも出されており、無造作に平積みされた映画雑誌など、立ち読みし放題と言う事らしい。
ガラスの引戸から中へ入ると、狭い店内には二つの通路があり、それぞれ両側にびっしり本の詰まった棚が見える。
その通路の奥から甘い匂いが漂ってきた。
店は所有者の住居を兼ねた造りで、廊下へ続く板間の張り出した箇所があり、胡坐をかいた店主がマグカップで何か飲んでいる。
ん~、香りからして紅茶かな?
先程の「アリス」の連想が抜け切れないまま、不思議の国の帽子屋さんみたい、と澄子は思った。但し、帽子の代りに長めの白髪交じりをバンダナで束ね、小柄で細見、年は五十才位だろうか。
昔、ジョン・レノンが愛用していたタイプの丸い黒縁眼鏡をかけ、揉み上げから顎までびっしり覆う無精髭をはやしている。
他の客は見当たらない。書架の埃を払う中年女が一人いるだけで、その店員もすぐ板間へ上がり、廊下の奥に引っ込んだ。
店主の妻かもしれないが、無用な勘ぐりは止め、澄子は通路の書架を調べ始める。
それからどれくらい、古本の迷宮を彷徨い続けた事だろうか?
小さい店とは言え、蔵書は膨大だ。
それに薄いシナリオの類は背表紙が読み難く、書架から一々取り出さないと中身をチェックする事ができない。
疲れが溜って溜息をつき、チラリ店主の方を伺うと、向うも挙動不審の客が気になっていたらしい。こちらを藪睨みする両眼とまともに視線がぶつかった。
「何かお探しかね、あんた?」
ひどく掠れた、耳障りな声だ。
「映画やドラマ関係の本? 戯曲? 悪いけど、他は置いてないぜ、ウチ」
「あの……古いシナリオを」
店主は改めて澄子の佇まいを頭から足の先まで眺めた。
「業界の人には見えねェけど」
「……私、専業主婦です」
「ま、仮にお探しの品がこの店にあったとして、あんたじゃまず見つけられないね」
「何故です?」
「買い取った本をアイウエオ順にきちんと整理してある訳じゃ無いンよ。特に古いシナリオなんか、何処に何があるやら?」
「御主人にも判らないんですか?」
「ま、もし探せる奴がいるとしたら、俺か、家内ぐらいだろうがねぇ」
店主は黒縁眼鏡の奥の、意外に切れ長な目を細める。
警察が登場しない日常生活に潜む謎をテーマとしたミステリーです。
このジャンルに挑戦したいとずっと思っておりまして、最初の一歩を精一杯丁寧に綴って参ります。