適性
天気予報が、そんなふうに匙を投げることがあるのだろうか?晴れることはないのだろうから、「全体的には豪雨となりそう。出歩かないで。気をつけて」でいいような気がした。薄黒く曇った天気を見ながら、私は実家から歩いて十分程度の場所にあるR駅で電車を待っていた。
「想像ができない」という天気になっているのは、この地域から南に二百キロの地点に強烈な低気圧が発生しているせいである。ずいぶんと離れていることもあり、今のところ雨はひどくなかった。しかし、ダイヤは大幅に乱れている様子で、駅員が「いつ電車が来るのか想像できない」と、テレビで見た天気予報と同じような事を言った。
私は、川奈津市という地方のとある都市の職員になる為の面接試験に、市内のB区という街に行かねばならなかった。昨日、夕方に関西から市内R区の実家に泊まり、今朝は早めに家を出ていたのである。多少の遅れは気にならなかったが、『遅れる』という事態について、言葉にするほどでないちょっとした苛立ちを覚えていた。
幸いにして、しばらくすると電車がすべるようにやってきた。駅を出て、郊外へ向けて走り始めると貨物列車が並んでいるエリアが見えてくる。雨に打たれながら整列している貨物をぼんやりと眺めた。私は、これから試験を受けに行くという心境になれず、どんよりとして重いものが鼻の上辺りを漂い、憂鬱な気持ちが周期的に沸き起こってくる。休日の割に電車は混んでいるのは、ダイヤが乱れているせいだろう。面接時の話題に、今日の天気と電車のダイヤ状況を振ろう、と思いついたりしたら少し落ち着いた気がした。
目的とする郊外の駅に到着したのは、予定した時刻より早かった。私は、時間潰しの為に、駅周辺探索でもしよう、と思いついた。ただ、雨に濡れたくもなかったので、駅に隣接されているショッピングモールへ入ることにした。ここは、以前に訪れた時には地元のスーパーが展開するショッピングセンターだったはずだが、全国規模の巨大チェーン店に買収されてしまったようだ。全国区で圧倒的な強さを誇るそのチェーン店は、中にいる人間を均質的にする力があるようだ。私が普段住む関西にある街の同じ系列のショッピングモールと同じ風景が広がっており、中で買い物を楽しむ人間の営みまで同じように見えた。
その圧倒的な同質さに感心と軽蔑の気持ちを感じながら、私は空いているベンチに腰を降ろした。自販売機が目の前にあったので、レモンティーを買い、グビグビと飲んだ。相変わらず寒々とした気分で、これから試験を受けるという心持ちと対極の果てにいるようだった。『対極に果て』とは何だろうか?ふと考えてみた。しかし、具体的なイメージや言葉は続けて浮かばず、私は一層暗い気分の底でふてくされているような空想を沸き起こしては消してみた。
落ち着いているはずなのに何か辛い。しかたがないので、試験会場へと足を向けた。駅に隣接するビルが試験会場になっている。ビルの名前は街の名前に『HOPE ビルジング』と大きく書かれている。その名前を見上げ、私は大きくため息をついた。
受付会場から入ると、ほぼ統一されたクールビズの人の陳列に、あぁ、またこういう時間が始まったのだなぁ、というあきらめのような覚悟が自分の中でうずまいた。
受付を済ませると、部屋に入って、席に着くよう係員から指示された。受験者が揃うと、試験官が入ってきて、今回の面接の手順を説明し始めたのだが、ふんわりとした声だった。鎮座している受験生にではなく、部屋のどこかに向かって話しかけているかのような様子だ。若年性の難聴を患っている私には、よく聞こえなかった。聞こえなかった部分を確認するべきか迷ったのだが、聞こえなくとも前のホワイトボードに書いてある説明を確認しているだけの様子に思えたので、まぁいいか、ということでその場をやり過ごしてした。
面接試験は順番に行うとのことで、ざっと勘案してみると四十五分も待たされることになりそうだった。私は、すでに帰りたかった。帰ってしまいそうな衝動をどうにか抑える為、尿意を全く感じないのにトイレに行き、気にもならないのに、窓際のブラインドの隙間から、空模様をじっくりと眺めたりした。その間、百人ほどいる周りの受験生は誰一人として席を立つ者はなく、室内は異様なほど静まり返っていた。
することもなくなり、私は自分の席に座った。ぼんやりと見るともなしに前方のホワイトボードに目を移した時、ふと暇つぶしに隣の人と多少なりとも言葉を交わせば、このやるせない気分を持ち直すことができるのではないかと思い至った。右隣を見れば、その容姿から三十代の男性のようである。前の受験番号のカテゴリから判断すると建設関連で受験する人のようだった。
今日の雨の酷さをネタに何か話しかけてみようと、私ははっきりとした視線をその男性に送ってみた。しかし、その男は岩のように動かず、ずしりとした体を微動だにせず、ぐっと前を見据えている。前を見ることが仕事のようにひたすら前を見ている。今日の面接は、クールビズという前提になっていたはずだが、この男はしっかりと背広を羽織っている。別にこの男に闘いを挑んでいるわけではないのだが、私にはどうも難攻不落という印象がして、話しかけるのはあきらめざる得ない気がした。
左隣は、大学卒業が間近の女性のようだった。こちらの方が話しかけやすいかもしれないと思った。しかし、意識してその女性を眺めると、話しかけるのにはいささか難しいことにすぐに気付いた。それは、この女性がしきりに面接マニュアルのようなものを読んでいるからだった。悲壮なほどの表情をしている。私は「大変だなぁ」という同情のような気持ちになってしまった。同じ面接を受けるという立場なのに、まるで他人事のように。すると、しばらくして細かな字が書かれたマニュアルを裏返して鉛筆で書かれた大きな字のマニュアルのようなものを読み始めた。私は、つい、盗み読みしてしまった。
そこには、『ありがとうございました。』、『礼』、『本日は、貴重なお時間をいただきありがとうございました』とはっきりと書かれている。私は笑いたくなった。おいおい、本当にそんなこと言うのですか?と、話しかけたくなりそうだ。女性は真剣そのもので、口をゴモゴモと動かしながら、暗記しようと必死の様子なのだ。これがまた実に滑稽な様子であった。
確かに、今日、ここに集まっている人達は川津奈市の職員採用の1次の筆記試験に合格させてもらっているのだから、ある意味で有難いことには違いない。しかし、そこまで卑屈になるべきだろうか?と思ってしまう。そもそも、ここの職員たちにとっては、本日の面接対応は間違いなく、数ある業務の中の一つの仕事に過ぎず、公務員なのだから間違いなく休日手当てがしっかりと付くだろうし、代休を取るだろう。それを考えると、彼らにとっては今日の面接対応で時間をつぶされてさほど困ることになるとは思えなかったりする。一方の受験生はひどいものだ。暇な学生を相手にしているという気安さがあるかもしれないが、無給でここまでやってきて、選抜させていただいているのだから。そこまでへりくだって、心にちっとも思ってもないような事を言うのは(いや、彼女は心底そう思っているのかもしれないが)、逆の意味で相手を馬鹿にしていないだろうか、と躊躇しないものではないものだろうか。私は思わず、心配になって声をかけたくなったが、その女性の表情があまりに真剣な為、自分の方が感謝の気持ちの欠片もない、どうしようもないクズのように思われてきた。結局、私は話かけるのを諦めてしまった。と、いうか、感謝の気持ちを持たないことを何か怒られてしまったような変な妄想が心の中で湧き立ち、相手にもされないだろうな、という気になってきたのだった。
そんな事を一人もんもんと考えているうちに、私の面接の順番が回ってきたようだ。面接室の前で待つように、という連絡があった。私は控室を出て歩いていき、面接室の前に置かれた椅子に腰掛けた。すると、別の面接グループで同じく面接の順番を待つ男性が、隣の部屋の扉の前の椅子で私と同じく座っていた。お互い同じ方向を向いていれば気にかけることもないのだが、どういう訳か、彼と私では座っている向きが反対方向で、いうなればお見合い状態にあった。面接前の人間同士がお互いを見つめ合う。この状況がたまらくまた滑稽で、同時に虚し過ぎる。にらめっこでもさせたいのだろうか。この壊滅的な状況を前に、目のやり場もない。苦肉の策として、私は疲れている振りをして、頭を前に倒し、ひたすら自分の順番が来るのを耐えるように待った。
そして、ついに面接の番が来た。面接補助員なる者がやって来て、「私が部屋に入ってから、しばらくしてノックして入り、試験区分、受験番号、名前を言ってください。」とトツトツと説明した。私に説明しているはずなのだが、その人の視線は、どういうわけか私の後方右斜め後ろを常に見ている。何か霊でも見えるのだろうか。説明を聞いているうちに、なるほど、こういう人たちばかりだったら、知らない受験生同士を真向かいに座らせても違和感を覚えないのだろう、という思い付きに至り、妙に晴れ晴れとした合点に至った。「理解できましたか?」と問われて、私は、にこやかな気持ちを込めてその補助員なる男性に返事をしたが、その男の視線は相変わらずどこか遠くへ浮かんでいた。
私は、面接が始まるこの時にまで、面接で何を聞かれるのか深く考えることを避けてきた。と、言うか、そもそも毎日の生活が私にとって大変な激務で、まだ受かるかどうかも決まっていない面接の事など真剣に考える気力がどうしても浮かばなかったのだ。しかも、現在の激務に耐えかねての転職活動なので、かなりネガティブな部分が多く、川津奈市の職員募集要項に書かれている「明るく、前向きな人材」とは明らかに逆ベクトルの思考を持っていた。そのことを単純に考えるなら、自分の事ながら、こんな人間では採用試験に受かるはずがないと思っていたところも、やる気が起きない原因の一つでもあった。しかし、我ながら妙に感じるのだが、面接日が近づくにつれて、私は全く逆の見解を希望的にも持つようにもなってきていた。このようなネガティブな心のありようが、つまり、どこにでもいそうな、取るに足らない一市民の心のありようが、もしかしたらこれからの川津奈市の市政におけるスパイスとして必要なのではないかという、明らかにこじ付けとしか思えないような妙な希望も抱いていたのである。親を大切に、家族を大切に、ついでに故郷を大切にしようという、その気持ちだけで何とかなるのではないか、という淡い期待がチラチラと気持ちとして沸き起こり、そのことだけを肯定的に考えるだけで十分じゃないかと思えてきて、面接対策の準備をしようという努力を萎えさせていたのである。
ノックをして中に入ると、三人の面接官が目に入った。1人が女性、男性が二人。私は、事前に指示された通りの文言をゆっくりと述べながら、この人達は部長なのだろうか?とぼんやりと対面にある顔を眺めていた。すると、右端に座っている女性から切り出してきた。
「神谷さんは、大阪から、この雨の中、大変でしたね。」
おやっ、と思った。てっきり志望動機からだと思っていたからだ。面接慣れしているようだ。まぁ、当然なのだが。
「前回の筆記試験の時も雨でしたし、今日は電車のダイヤが乱れていて大変でした。本当に帰りの新幹線が心配です。」
私が気安く切り返したところ、三人が少し驚いたような顔をした。私が面接慣れしていることをアピールしたことを意外に思ったわけではなく、「えっ、雨ってそんなに大変なの?」という表情だった。一方で、私は、彼らのその表情に違和感のような驚きを感じた。今更びっくりするようなことでもないだろう、天気予報は「想像できない」と言っているくらいだし、昨日からの大雨の影響で死者まで出ているのだし。いくら何でも知らないってことはないだろう。受験要綱に「車では来ることを禁止する」なんて文書で受験者に明確にきつく釘を刺しているわけだし、面接のお仕事そのものしかない方々が、車で来ているのかな?もし、電車のダイヤが大混乱していることを知らないのならば、ちょっと驚きものだ。
気まずい沈黙が少しあって、私が当惑している表情が読み取られたのだろうか、くだんの女性が私の現在の仕事内容について質問してきた。これまでに受けてきた転職面接でも幾度となく応答してきた内容を、改めて説明した。「説明は込み入っているのですが・・・、」と前置きして、私は現在の仕事について説明を始めた。
「端的に言えば、支店における支店長の雑用係です。資料作成から始まり、会議のセッテイング、議事録作成や宴会の手配と対応まで言われたら何でも対応しなければなりません。場合によっては、契約書のチェックや予算の調整まで対応します。幹部の方はお酒の席が多いので、スケジュールを合わせてお相手もいたします。大雑把に言えばですが、以上が仕事の概要です。」
「もちろん冗談なのですが、周りからは『支店長の舎弟』とか言われています」という言葉を継ぎ足すべきかな?と考えながら、それは笑ってもらえないだろう、という判断が働いて、口に出す勇気は湧かなかった。
女性面接官は一呼吸置いて、ゆっくりと吟味するように私の仕事内容をねぎらった。
「大変なお仕事ですね。その仕事を乗り越えていく為の秘訣は何ですか?」
乗り越えてなんなんか、いないんですが・・・、何を聞きたいのだろう、この人は?と、いう気分になってきた。そもそも乗り越えていたら、こんなところで面接など受けてはいないよ。グダグダした気持ちとは裏腹に、私は別の事をスラスラ述べ出した。
「そうですね・・・。簡単には答えられないのですが、一つには『腹を割って話すこと』です。相手の思いと自分の考え、その一番良いところをうまく合わせてやっていくことを常に探すことが重要なのだろうと思います。」
自分で言いながら、また嘘ばっかり言ってやがる、という自嘲気味な思いだがグラグラと沸き起こってきた。いつも人をだましてばかりで。まるでスパイのような毎日を送っているくせに。よくまぁそんなことが言えるものだな、と我ながら呆れるものだ。そういう毎日の自分の仕事のありように耐えられなくて、率直な感情を話したりする人を探しているのだが、自らの疑心暗鬼な気持ちからどうしても抜け出せられないくせに。
次第に尋問を受けているかのような気分になってきた。早く終わらないかな、という気持ちが少しずつ起こってきたのだが、今度は中央の男性が口を開いた。
「不思議に思うんですがね、言ってみれば、あなたは将来の幹部候補という位置付けではないですか?そういうポジションを捨てて、なぜ川津奈市に戻ろうと思うのですか?誰でもなれるわけではないポジションですよね?」
それは、そうなのだろうな。しかし、私はそんな画一的な思考の人間にはなれない。しかし、「簡単に言えば、本当に出世に興味がないんです」と言うのはここにいる人達には全く理解されないのだろう。そう言いたくなるのを何とかこらえ、慎重に言葉を選ぶ。
「私は、もともと技術屋志望でした。実際、そういうつもりで入社しましたし、約十年、専門の分野のことばかり考えて過ごしてきました。ところが、唐突に支店への異動を命じられ、業務上、会社全体の仕事を見渡すようになり、考え方も変り、地元に戻ることも含めて検討したらどうだろう、という気持ちになってきたのです。そのための転職活動の一つとして川津奈市に応募したということです。」
「地元はこちらなのですか?」
「はい。生まれ育ちはR区です。大学は記載の通り川津奈大学で、大学院ではより充実した研究環境を得るため、履歴書に記載の大学に移っています。」
「しかし、もったいないんじゃないですか?その役職を捨ててまで。よく考えてみたのですか?」
「実は、別に川津奈市の職員に拘っているわけではないのです。もともと色々な転職関連サイトなどに登録していて、川津奈市のUターン事業にも登録しています。すると、職員募集が送られてきたんですね。見ると、昔はなかったのに、今は社会人の経験者採用も行っている。家族が勧めたこともあり、それじゃ、受けてみるか、ということになったわけです。」
これもまぁ嘘と言えば嘘になる。しかし、気持ちの上だけの嘘で実際の経緯そのものは正しいから、まぁいいかとも思う。
「うーん、どうしてなのでしょう?いまいち分からないな・・・。いや、別に来ちゃダメだ、と言っているわけではないんですよ。でも、もったいないではないですか?いまいち本当のところがわからないのですが・・・。」
しつこいなぁ。『本当のところは、機会を見つけてまた別に個人的に大学に行こうか、とかと思っているんです』と言いたくなってくる。しかし、それは言えない。しかたない。もう少しリアリティーを出してみるか。
「まぁ、家族に関する事が、個人的な事とは言え、少し大きいのです。(ここで、沈黙を少しつくってから)また、実際の技術職から離れて、何というか、ビジネスに近い仕事は、どこかで人を嵌める、という側面があるように私には思えて、果たしてそういうのが自分に向いているのかな、という気持ちが拭いきれない面があるのです。そういうものを含めて、新しい事を広く見てみよう、というのが、正直な動機です。」
二人の男性は、私の答えに相変わらず不満そうな様子だった。しかし、この話を引き続けるのはあきらめたようだった。
中央の男性が立て続けに言う。
「あなたがもし川津奈市に入ってもらうということになると、おそらく環境局になるでしょう。極端に言えば、一から勉強してもらうことになる思といますが、大丈夫なのですか?」
そんなの、今だって毎日勉強しまくりなのに。
「その覚悟です。」
これはちと言い過ぎか。覚悟というか、「いつも勉強ばかりしているので大丈夫だと思います」と言った方が正しかっただろうかと思いながら、慎重に中央の男性を見た。引き続き、たしなめられるような言葉が続いてくる。
「そうですか・・。言っておきたいのですが、環境局には大きく分けて二つの仕事があります。一つは、検査に関するもの、もう一つは動向に合わせて規制などのルール作りをしていくものです。あなたは、どちらが向いているとお思いですか?」
私には、さっぱりわからなかった。正直、どちらでも良かったし、興味が持てるのかどうかも自信がなかった。ひたすら、良い応え方がないものかな?どうやって答えたら、嘘にならずに済むかな?と思考をめぐらせた。しかし、そんな答えなど見つからない。下手な嘘を言うより、ここは正直に言う方がスッキリしてうまく話せるのではないだろうか、という気がしてきた。
「率直に言って、よくわかりません。知識という面で理解不足があり、判断できません。ただ、仕事をするという中での流れや考え方は理解していると思います。色々な実務場面で私の経験が生かされると考えられるのですが、実際のところ、具体的にどのように何を分析をして、基準を設けて、機器をどのように使っていくのか、わかりにくいところがあるので、現在までの仕事がどのように結び付くのか率直に申し挙げるべきことはないように思います。そのよう意味で、経験者に求められる即戦力に値しないということ十分承知していますし、それも含めてご判断いただければと思っております。」
一気に私が話しをすると、そういうと、左端の男性が全く可笑しくもない様子なのに、ワハハと口先で笑い、口調を整えて「あまりにも正直ですねぇ。」と嫌味っぽく言った。続けて、
「それならば、あなたは、川津奈市に対して、あなたの能力を生かして何ができると思っているのですか?」と問うてきた。
この問いは、私が一番嫌いとするものである。逆に問い返してケンカをふっかけたくなるのだ。これから職務に入ってくる人間に対して何とでも言えるじゃないか。むくむくと怒りが込み上げてきた。
しかし、と思い直す。ここは、馬鹿に徹しよう。
「正直なところ、思い至りません。」
その言葉を発すると、左の男性は、勝ち誇ったように、私を征するように言った。
「何か川津奈市に対する思いが伝わって来ないんですよねぇ・・・」
そんなもの、あるわけないじゃないか。漠然とした『川津奈市への思い』など。川津奈市は一つの都市である。その中には、善と悪も人間の営みとしてあるし、そんなものどこで住もうが同じじゃないか。あなたは川津奈市を隈なく知り尽くして、何かよくわからぬが、『川津奈市への思い』とやらがあるのか?そんな妙な『思い』は場合によっては、無意識のうちに生活の弱き者を虐げることになりはしないのか?すごく危険な思想とも言えるのではないか?
よく、社内で『会社は、こう考えている』とか聞こえてくることがある。そのとき、人々の頭に浮かぶ像は、会社なのだろうか?だとしたら、会社に代表取締役はいらないのだろう。私たちは、具体的な像を描きながら仕事はしているのではない。
一方で、私の中で何か『川津奈市』いう生き物があるような錯覚がしてきた。その錯覚について、ぼんやり考え始めていると、前から鋭い言葉を浴びせられた。
「もっと川津奈市について勉強してほしいですな。」
ダメ押しのつもりの言葉だったのだろうか。その男は、それまで前のめりになっていた体を大きく反らした。私には、「どうだ、何か言って見ろ」という声が聞こえてきそうな気がした。再びむくむくと怒りが湧き起こりそうな気分がした。一方で、いやいや待て待て、と、どこか自制をかけているのが自分でもよくわかる。その一瞬に異様な気持ちがした。私は、それまで意識的に職員になりたいという希望を持っていなかった。寧ろ、自分自身というものは変えられそうにないから、公務員には向かない人間ではないだろうか、と思ってきたのだ。翻って逆説的に、そういう自分の性格の方が、組織のバランスとして、適当な気がするので、とか妙なことを思ってきのである。そして、自分の性格を、この試験を通じて確認するという作業にしようと思ったこともある。そういう意味では、自制する必要などないはずで、思ったまでを言うのが筋だし、変な挑発が来たら、態度を冷静に保ったまま反論してやろう、という密かな試みを自分の中に持っているつもりであったのだ。
ところが、明確な根拠を考えるまでもなく、自制をし始めている。前方にいる威張った態度の男が怖いのか、それとも組織が怖いのか、今勤めている会社が怖いのか、試験に落ちるというのが怖いのか、家族を養えなくなるのが怖いのか、このままでは鬱々として過ごすことになるのが怖いのか。後々になっても、その時の私の心情は、そのどれにも当てはまらないような気がした。ただ、公務員になるということは、こういうことかもしれない、という空虚感が一瞬よぎったことははっきりと自覚できた。
そして、私はしばらくしてから穏やかにただの一言でその男に応えていた。
「はい・・・。わかりました。」
同時に別の疑問も浮かんだ。『川奈津市を勉強する』とは何なのだろうか?わからない。何なのだ、この言葉は?説明してほしい。これはどういう意味なのか?さらに『勉強する』ということが何なのかもわからなくなっているような気がしてきた。
ぐるぐると反復するような疑問が沸き起こり、次の言葉が全く浮かばず、私はただ左の男性を見据えるだけであった。打ちのめされたような気持ちになり、また何故自分はそんなことを考えているのか?とぐるぐると回る疑問は誰に対するものかわからなくなってきた。
私が何も言わないのを察して、左の男は、私の左後ろに座っていた面接補助員に小さくうなずいた。
面接修了の合図である。
私は立ち上がり、深く礼をして、部屋を出た。ひどく汗をかいているのが自分でよくわかった。
『川津奈市を勉強する』このことを聞くために、関西から来たような気がして、私は何とも言えない、喪失感のようなものを体中に感じた。川津奈市が重くのしかかっているかのようだ。しかし、それは単なる架空の概念で、それゆえに実体も無く、なのに頭にはめ込まれているような気持ちになるのはどうしてだろう。脇に感じる汗を意識しながらため息をついた。何だかすごく恐ろしいことに思える。
その後、適性検査という試験が計画されていた。指示に従って、用紙に無秩序に書かれている数字をひたすら足し算をするものであった。受験生は、人間の機能を抹殺したような、異様に具体的な計算を、スピーカーから流れる無機質な言葉に従って続けさせられた。前方のスピーカーから「熱心に計算してください。」という声が機械的に流れてくる。その言葉が、録音された生身の女性の声であるにも関わらず、何の抑揚もない。それなのに、ひどく心に打ち込まれるように響いてきた。
公務員となることは、何と難しいことか。無機質な『熱心に計算してください』というスピーカーからの声を聞く度に思わずにいられない。 そして、繰り返し熱心に熱心に足し算を、ひたすら熱心に続けたのだった。
試験が終わると、受験生がぞろぞろとエレベーターに向かっていった。私は、逆方向に歩き、人の波を抜けるように非常階段へと向かった。
逃げるように『HOPE ビルジング』を出て、電車を待った。ダイヤの乱れは相変わらずである。揺れながら入ってきた電車に乗ると、私は隅の方で、専門書を開いた。ちょうDerkin反応についての記載があるところだった。
『熱心に』 『川津奈市を勉強する』ことより意義がどれくらいあるのかわからないが、ある意味で無機質なはずの有機化学反応の微細な機構に非常に心が和んだ。
そして、新幹線が発着する川津奈駅に着いた。関西で待つ家族に土産を買うとしても、発車の時間までまだ余裕がある。
時間があるので、帰省の度に寄るラーメン屋へと向かった。私の気に入ったチェーン店だ。いつも楽しみにしているラーメンを固麺で注文し、待ってました、という気分でじっくりと味わおうと思った。
しかし、食べてみると、何だかラーメンの味が変だ。チャーシューもパサパサしているようだ。タレは?スープは?何だか今まで好んできたはずなのに、どこかのネジが取れているかのようなもの足りなさを覚えた。
私は、自分がラーメンの熱さと辛さだけで汗をかいているわけでないことに思い至った。
替え玉も頼まず店を出た。雨はまだひどく降り続いている。恐らくこの大雨の犠牲者は増えていることだろう。そんな時に、こんな風に美味しいはずのラーメンを味わえない。ありがたく食べられない。自分が、何かつまらない人間になっているように感じた。そんなことをとりとめもなく考えながら、私は川津奈駅へと歩いていった。
自宅に戻ってから、何度となく面接でのやり取りを思い返した。考えてみればみるほど、合格することはありえないように思えてしかたなかった。
ところが、その後、とても不思議なことに、合格の通知が送られてきた。合格したものの、将来計画などをいろいろと考え込んでいるうちに、この職業がどうしても自分には向かないような気がしてきた。家族には、迷っていることを伝えながら、そして、考えているうちに、そのまま迷い込んで抜けられず、結局は、その後の川津奈市からの連絡の時に、断りを入れることにした。電話してきた担当者は、私の断りの言葉を聞いて驚き、沈黙し、「よく考えられたのですか?」と強い口調で、非難するように問いかけてきた。しかし、私には、それにうまく答える理由は見つからず、うやむやな返事をして、電話を切った。それ以降、連絡はなく、その後、何か通知書のようなものが送られてきていたが、ほとんど見ずに捨ててしまった。そして、今の会社で何とか仕事を続けている。家族は、とても不満そうだ。けれど、しかたがないないか。自分でも、どうすることもできないのだ。適正がなかった。ただそれだけ。ただそれだけだが、それが自分でわかっただけで十分じゃないか。






