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少女と人食い竜の話

作者: 朔日

 これは、まだ私が小娘だった時の話です。


 私の主人はひどい人でした。気に入らないことがあると、それだけで使用人である私たちに手を上げたり、酷い時には鞭打ちなんてざらにありました。


 ある日、主人の皿をうっかり割ってしまった私は、見つかる前にとこっそり屋敷から逃げ出すことにしたのです。

 まさかこちらへ行くとは思うまいと、私は人食い竜が住むという山へと足を踏み入れました。何十年も誰も見たことのない竜なんて、死んだか、あるいは端から存在していないものだと、あの時の私は考えていました。


 山に入ったのがもう日暮れの刻限だったこともあり、山頂に差し掛かるあたりで完全に日が落ちてしまいました。ここからの下山は危険と考えた私は野宿の場所を探していました。そして見つけた山嶺に大きく開いた洞窟。渡りに船と、この場所で夜を過ごそうと考えた私は奥の様子をうかがいました。その時です。声が聞こえたのは。


――迷い子かね。


 妖しい響きを持つその声は、私の足を自然と洞窟の奥へ向かわせました。そしてその最奥、声の主の姿はありました。洞窟を埋め尽くす巨体、ちろちろと燐光を放つ瞳に薄暗い中でもてらてらと光る鱗。竜です。噂に違わねば、人食いの。

 私は死を覚悟しました。折角逃げ出してきたのに嗚呼、こんな幕切れだなんて。そんな私をよそに、竜はこうい言いました。


――歌を聴かせておくれ。


 歌を?なぜ竜がそのようなことを言いだすのかは分かりませんでしたが、しめた、と私は思いました。歌には自信がありました。

 竜への恐ろしさを飲み込み、私は故郷の歌を歌いました。私の歌を聴き終えた竜はこういいました。


――歌はあまり上手くないようだが心地よい声だ。食わんでおいてやろう。行くが好い。


 やはり人食いだったのか。しかしその言葉にほっとした私の胸には小さな怒りが宿っていました。あまり上手くないとは何事だ。私には故郷では一番の歌い手だった自負がありました。奉公先でも同僚たちによく褒められていました。しかし下手に言い返せば気が変わってぱくり、なんてことだってあり得ます。私は小さく会釈をすると、そのまま踵を返して外へと向かいました。


 しかしここで困ったことに気が付きました。外には野犬かなにかが彷徨いているようです。やはり竜を恐れるのか、洞窟のあたりまではやって来ませんが、獲物を探す気配がそこかしこに感じられました。今にでも私を食べる気でいる野犬と、今はまだ私を食べる気がない竜。背に腹はかえられません。私は洞窟の入り口あたりで休むことにしました。


 気を張っていたつもりでしたがやはり疲れていたのでしょう。いつの間にか私は眠っていたようです。地面に伝わる振動で私は目を覚ましました。


――まだこんなところにいたのかい。


 目を開けるとそこにはあの竜がいました。動くのか。すっかり抜け落ちていた当たり前の事実に、私はパニックに陥りました。


――我を恐れぬとは、奇妙な娘よ。


 口を開いた竜は、私を食べるでもなくそのようなことを言いました。なんだかよくわかりませんが、どうやら好意的に解釈してくれたようでした。では私はこれで。私がそう逃げ出す前に、竜はさらにこう続けました。


――ならばもっと歌を聴かせておくれ。


 なんということでしょう。私は逃げる機会をすっかり失ってしまいました。野犬など恐れず昨夜のうちに下山してしまえばよかったという後悔が胸を過りました。ええい、ままよ。自棄になった私は、これはこの竜に私の歌を認めさせるチャンスだと思うことにしました。


 それ以後、私は竜と共に暮らすようになりました。逃げようと思えば逃げる機会などいくらでもあったように思えます。ですが私はそうしませんでした。竜に同情してしまったからかもしれません。

 私が歌うといつも竜は目を細めて聴いてくれました。そして歌い終えるとお礼にと様々な昔話をしてくれました。広大なる空に、かつて訪れた様々な秘境。そして、とある少女の話。


 話によると、以前、まだ竜が人を食べていた時、私の様にこの洞窟へ迷い込んできた少女がいたそうです。竜がその少女を食べようとしたとき、少女は自分の歌が気に入ったら食べないでくれとお願いしてきたそうです。竜はその通り少女を食べずに帰しました。時折竜の許へと現れ歌を聴かせてくれる少女は、老いて飛ぶことのできなくなった竜の慰めとなり、そしていつしか竜はその少女を愛すようになったそうです。しかしある時少女は流行病に倒れ……。竜はそれ以後人を食べていないと言いました。


――萎えてしまった翼では、生まれ変わった彼女を探しに行くことすらままならない。


 竜は悲しそうに言いました。


 ある日、私が川で夕にふたりで食べる魚を釣っていると、狩人と思しき青年が現れました。


――ここは人食い竜の住む山だ。君のような子が立ち入るべき場所ではない。


 そんなことは百も承知です。何せ、その竜と共に暮らしているのですから。しかしそんなことを露知らぬ青年は、恐るべき強引さで私を麓の村へと連れて行こうとします。撒こうとして見つかり、逃げようとして捕まり、どうしようかと考えを巡らしていたその時。あの声が聞こえました。


――人の子は人の世で生きるのが道理。引き留めてすまなかった。行くが好い。


 それは間違いなくあの竜の声でした。はっと顔を上げ、竜の住処へと駆け出そうとした私ですが、案の定青年に捕まり、魅入られてしまっているのだと逃げられないようにと気絶させられたようです。気が付いた時には朝になっていて、見知らぬ天井を見上げていました。村の長老らしき人に、よく無事であったと心配され、様々な質問をされ、地元に帰る途中であったと答えるとやっと解放されました。昨夜は竜のものらしき遠吠えが聞こえ、きっと私を探しているのだろうから絶対に山に入ってはいけないと念押しされ、そうして私は生まれ育った村へと送り届けられたのでした。


 その後私は新たな奉公先を見つけ、今度は良き主人の許で働き、やがて家庭を持ち今に至るというわけです。あれからあの竜の住処を訪ねようと思ったことは幾度となくありました。しかしいくら探しても、忘れもしないあの場所へたどり着くことは一度たりとてできませんでした。あの時私は本当に魅入られていたのでしょうか。あるいはすべてが幻だったのでしょうか。今となっては知り得る術はありません。ですが、きっといつか。叶うならもう一度。あの竜に会って、今度こそ私の歌を認めさせたい。そう思うのです。

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