私の愛はあなたの愛より深い
ヴィオラの身体の時を止めていた氷は愛の力で溶かされた。
まるでお伽噺のようなその一幕を知っているのはヴィンセント王太子だけであった。
「ああ、私の愛しいヴィオラ」
熱のこもった低い囁くような声とともに、そっと包み込むように抱きしめられてヴィオラの冷え切った身体はヴィンセントのあたたかな腕の中でゆっくりと感覚を取り戻していく。
ヴィオラは栗色の髪をなびかせて、その翡翠色の瞳を瞬かせた。
見渡せば此処は王城の一室で、ヴィオラの身体はガラスの棺の中に入っており、彼女の周りには溢れんばかりの白いアスター(エゾギク)の花が敷き詰められている。
(白いアスターの花言葉はたしか「私を信じてください」だったかしら)
ヴィオラはぼんやりとする頭で思い出そうとした。
(私は殺されたはず……)
「まだ意識がはっきりとしていないのだろう、君は長い間氷漬けになっていたのだから。こんなに身体が冷えてしまってすまないな」
ヴィオラは自らを抱きしめている人物の顔をまじまじと見た。
歳のころは三十代後半くらいだろうか。切れ長の瞳は深いブルートパーズの色をしており、くせのない髪は光を反射して煌めくプラチナブロンドの色をしている。
口元だけわずかにほころばせる特徴のある笑みは、彼女の想い人の面影をそのまま残していた。
「ヴィンセント様……?」
いまだ疑問文であったのは、彼女の記憶のなかの王太子ヴィンセントは二十そこそこの年齢であり、幼い印象が強かったためだ。目の前の酸いも甘いもかみ分けてきたような落ち着いた大人な男性ではなかった。
ヴィオラの言葉にヴィンセントはふっと笑みを浮かべた。包み込まれている腕に力が入る。その強い抱擁にヴィオラは戸惑いを隠せない。彼女の記憶の中のヴィンセントはこんなに情熱的な男性ではなかった。いつも俯瞰しているかのように淡々と生きているようなひとだったのに。
「失って初めて気づくということもあるのだな。これほどまでに君を切望していたとは、自分でも驚いている」
困惑するヴィオラを抱きしめながら王太子ヴィンセントは語った。彼女が知りえなかった十五年前の真実を。
…………
「ヴィオラ様、わたくしとヴィンセント様は想い合っていますの」
桃色の髪を恥じらいがちに指に巻きつけながら朱色の瞳の可愛らしい女性はヴィオラを上目遣いで見上げた。その両手には手紙の束を持っている。
「これがその証拠ですわ」
ヴィオラはためらいがちにその一つを手渡されて開いた。確かにヴィンセントの特徴的な角張った筆跡で愛の詩がしたためられている。
~君に贈るべきは紫のアスターだろうが、きっと受け取ってはもらえないだろうな、君は桃色が好きだから~
(紫のアスター(エゾギク)……花言葉は「私の愛はあなたの愛より深い」ね、確かにこれは愛の詩だわ)
「わたくしが桃色を好きなことを鑑みて贈る花の色まで心を配ってくれていますの」
目の前の女性の喜ぶ顔に、ヴィオラは足元が崩れ落ちるかのような心もちになった。ヴィオラは婚約者であるヴィンセントから花の一つももらったことはない。
「ヴィオラ様は未だに婚約状態であることを疑問に思わないのですか? 王太子様は周囲から世継ぎを切望されている方ですのにこの国の為を思って身を引いてください」
はっきりとした物言いにヴィオラは言葉を失った。ヴィオラも結婚適齢期どころか出産適齢期である。婚約を結んでからもうずいぶんと時が過ぎていた。
目の前の女性に目を向けると明らかにヴィオラよりも年下である。ヴィオラより七歳年下のヴィンセントのさらに二つ下くらいの年齢に見える。とてもつり合いが取れているように見える。
「ヴィンセント様はなんて……?」
震える声で尋ねると、相手の女性はしたり顔で口を開いた。
「こちらから婚約破棄を告げるといろいろと面倒ごとが増えるからヴィオラ様の方から切り出してほしいとおっしゃっていましたよ。ヴィオラ様がヴィンセント様を本当に愛しているのなら、愛した人の幸せを願えるものではないですか?」
その言葉はヴィオラの心をえぐった。
「ええ……そうね」
ヴィオラの脳裏には若かりし時の二人の思い出が駆け巡った。
王城の庭園で二人花冠をのせて笑い合った日々、湖畔のボートで遊覧しながらも国の未来を語り合った日々……。そんな日々はもう二度とこないのだ。
どうやって帰ったのか記憶がない。
気がついたら自室のベッドの上に服を着たまま仰向けになっていた。
国のためだと思ってひたすらに学んできた妃教育もすべて無駄になってしまった。
(本当に愛しているのならば、愛している人の幸せを……)
ヴィオラは決心した。明日にはヴィンセントに婚約破棄を切りだそう。彼が言い出せないためにずるずると十年も婚約を続けているのならば、この状態は二人にとっても国にとってもよくないはずなのだから。
そのとき自室の部屋の扉にノックの音が響く。
王城に部屋の一室をあてがわれているヴィオラには専属の侍女がいる。おそらくその侍女が入ってくるのだろうとなんの気もなしにヴィオラは入室を許した。
「どうぞ」
しかし、入ってきたのは覆面をした暗殺者だった。あまりの事態にヴィオラは大声を出そうと口を開くがすばやい動きで羽交い絞めにされ口もとを封じられる。
「ーーーー」
首元に当てられた刃は今にも掻き切ろうとする動きだった。彼女はせめてもの抵抗に口元の手にかみつこうとした。扉の向こうで騒ぎの声が聞こえる。
扉が開き、王太子ヴィンセントが飛び込んできた。そのときにはヴィオラはすでに床の上に伏しており、床には彼女の血で血だまりができていた。
部屋の窓は開け放たれており、揺れるカーテンは暗殺者の男がまんまと逃げおおせたのであることを示唆していた。
王太子ヴィンセントはすでに冷たくなってしまった婚約者の前で跪き、彼の氷魔術でヴィオラの亡骸を永遠にとどめた。
「ヴィンセント様……」
彼の後から部屋に入ってきた桃色の髪の女性は庇護欲をくすぐる仕草でおおげさに驚いてみせた。
「なんておいたわしい……」
後ろから抱き着くとヴィンセントの背中に身を寄せた。
王太子ヴィンセントは床に落ちていた短剣を拾い上げた。
刃の先には毒が塗られているのかてかりがあり、ヴィオラの血に濡れていた。
「……痕跡追跡」
ヴィンセントが低い声で呪文を唱えると、短剣(媒介)をもとに持ち主の位置情報が魔法で追跡される。逃亡者は庭園の西を突っ切っているようだ。
西門の警備兵に連絡するようにと近衛に伝える。
ヴィンセントがゆっくりと振り向くと、背中にしがみついていた女性はその朱色の瞳を恐怖に見開いた。
よほど恐ろしい顔でもしていたのだろう。
「なぜ、ここの部屋にまっすぐに入ってこれた?」
ヴィンセントの刺すような冷たい言葉に隣国の第六王女は言葉をつまらせてあとずさりをした。
「この部屋の扉には認識阻害の幻術をかけているはずだが?」
質問されている彼女は桃色の髪を振って蒼白な表情をしている。
「わ……わたくしは」
「ああ、君の魂胆はすでにわかっているよ。この国を内側から牛耳りたかったのだろう? 今訊いているのは理由じゃなくて方法だ。私の魔術は国一番だと思っていたのだが、どうして綻びが生じたのだろうか」
「ヴィ……ヴィオラ様に……婚約を破棄してもらえるように……」
途切れ途切れに紡がれる聞き取りづらい言葉の意味を理解してヴィンセントは後悔した。
愛と信頼を対価に術式を強化してきたその報いを受けたのだと思った。
愛とは無尽蔵にあるのだと思っていた。ヴィオラはもう、限界だったのだ。
ヴィオラの愛に紐づけられて構築された術式はヴィオラの心と共に砕けてしまったのだろう。
「そうか……」
ヴィオラの愛の上に胡坐をかいて過ごしていたことをヴィンセントは後悔した。
今のままで幸せだと思っていたのはヴィンセントだけだったのだろう。
言葉にしなくても伝わっていると感じていたのは彼だけだったのだろう。
「殿下、侵入者を捕まえたとのことです」
すっと膝を折り近衛が戻ってきて跪いた。
「ああ、ご苦労」
目の前の第六王女は蛇に睨まれた蛙のように動けないまま肩で息をしている。
「君には密偵の嫌疑がかけられている。同行願おうか」
王太子が目線で合図すると近衛が素早く動き隣国の第六王女を捕縛した。
ヴィンセントは連れていかれる罪人に目もくれずヴィオラに掛けた氷魔術を強化した。
(今の魔術の技術では蘇生まではなしうることができない。今できるのはせいぜい腐敗を止めることだけだ……ヴィオラ、待っていてくれ、私はかならず……)
ヴィオラの亡骸はガラスの棺に入れられた。ヴィンセントが火葬を拒むものだから臣下は一様に気の毒な視線を送ってきた。そして世継ぎの催促はぴたりとやんだ。
ヴィオラの棺には毎日新鮮なアスター(エゾギク)の花を敷き詰めた。幼い時にアスターの花畑でヴィオラが花冠を作っていたことを思い出せるからだ。ヴィンセントは最初のうちは桃色のアスターを入れていた。ヴィオラが好きな色だからだ。だが、次第にヴィンセントは自分への戒めのためにも白いアスターを入れる割合が多くなっていった。
(必ず生き返らせると誓った私の決心を揺るがせたくない)
白いアスターを目に入れるたび思い出そう。その花言葉を。
『私を信じてください』
君が信じるに足りる男に私はなろう。
ヴィオラを殺めた暗殺者は隣国の第六王女に依頼されたと罪を認め公開処刑となった。
断頭台で首を落とされる様子を城のバルコニーから見下ろしていたが虚しさが残るだけだった。
ヴィオラを生き返らせる術式はいまだかつて成し遂げられたことのない分野だった。
(時間を逆行させるべきか、いや、しかし)
ヴィオラの身体にかかる負担が大きすぎる。
「ヴィンセント殿下、隣国の王女を処罰するとなると戦争に発展してしまいます」
宰相が地下のヴィオラの棺の保管庫まで立ちいってきて眉を下げた。
月明かりも届かないこの地下では日光による劣化を極限まで抑えることができる。
「ああ、では戦争しようか」
ためらいなく言い放つヴィンセントの言葉に宰相は喉を詰まらせた。
「しかし……」
「仕掛けてきたのはあちらが先なのだから、何か問題でもあるだろうか」
ヴィンセントは日がな一日棺の前で懺悔をすることが多くなった。
彼は毎日魔術の研鑽に励んでいた。
蘇生という禁忌の術に片足つっこんでいたヴィンセントはすでに正気ではなかったのだ。
「私が出よう」
宣言通り先陣を切って戦場に躍り出たヴィンセントは王国でも指折りの魔法剣士だった。先を読む戦術に卓越した剣さばきと高い魔術の技量で隣国を圧倒した。
「この国で蘇生術に長けたものはいないか?」
隣国を植民地下に置いての第一声がそれだった。特に得るものもないと気づいたヴィンセントは興味をなくし、統治は宰相にまかせた。宰相は隣国の頭を据え置き、頭を裏で操る方向に舵をきって隣国の民衆の不満をやわらげた。
「やはり、蘇生は不可能なのか……?」
何度目かの春が過ぎ去り、ヴィンセントもすっかり年を取った。年上だったはずのヴィオラの亡骸は時が止まり、すっかりヴィンセントの方が一回りも年上になってしまった。
第六王女は処刑を免れたが、代わりに蘇生術の実験体として長年こき使われていた。その髪は伸び放題にあれ、肌の手入れもできない。
「やはり、配合を変えてみよう」
ヴィンセントは分厚い魔術の本を諸外国からかたっぱしに買い付けた。眉唾物の薬草を仕入れてはシャーマンの祈りに縋った。聖女と呼ばれる女性を招くことも多々あったがどれも偽物だった。
そして月日は流れた。
ヴィンセントはついに辿り着いた。人類の英知のその先。人道を踏みはずした禁忌の術。
「そうか、私はまだ完全に狂ってはいなかったのだろうな。こんな簡単なことに辿り着けなかったとは」
ヴィンセントは辿り着いた。とても人に言えるような、後世に書き残せるようなことではなかったが。……ヴィオラを生き返らせることに成功したのだ。
捕虜になっていた第六王女は死んだ。
…………
「君は私の愛が信じられなかったのだろう? 君が見せられた手紙はすべて君宛のものだよ。夜中にいきおい余ってしたためたものの恥ずかしくてお蔵入りしていた駄作だ。私の部屋を勝手に漁った泥棒はすべて処罰を下しておいた」
しっかりと抱きしめられてヴィオラは王太子ヴィンセントの言葉を聞いていた。
「私は君だけを愛している。これは昔も今も変わらないよ。もっと早くに伝えるべきだったね」
ヴィンセントの言葉にヴィオラの氷に凍てついていた心臓は脈打ちだした。
あたたかい血のめぐりが全身をまわっていく。
「私の愛はあなたの愛より深いんだ」
額にキスを贈るヴィンセントの唇からは十五年分の愛の言葉が紡がれたのだ。
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ヴィオラは恋の花
ヴィンセント王太子は十歳そこそこの年齢に似合わぬ冷めた子供だった。彼に氷属性の魔術の適性が出たのは、その内面の冷めた性質が関係しているといってもいい。さぞかし可愛げのない子供だったのであろう、大人は一歩引き、同年代の子供はそもそも王太子に近づく機会などなかった。彼は魔術も剣術も教えられる以上にできた。それはそもそも王家の血筋が魔術と武術に優秀な遺伝子を脈々と受け継いでいたからだ。彼はなんでもできたがただそれだけであって、ただの十歳の子供であることに変わりはなかった。だが周りの目はそれを許さない。王太子という肩書きが、自分たちとは違うと周囲に思わせ、彼の優秀さが王家の特別さを際立たせた。誰もが遠巻きに見つめ、彼にわざわざ近づこうとするものなどいなかったのだ。
「私の名前の由来はこのヴィオラ(すみれ)からきているのです」
だからこそ、婚約者として初めて出会ったこのヴィオラ公爵令嬢の奔放さは彼の胸を打った。初顔合わせののち「あとは若いお二人で」と二人きりにされ、何を声掛けしたらいいかわからず立ち尽くすヴィンセントの手を引いて、庭園に行きたがったヴィオラはその翡翠色の瞳を優しげに細めながら、ヴィンセントには雑草にしか見えないような小さな花を愛しげに見つめ、懇切丁寧に説明していた。彼女は年下のヴィンセントが動かないでいるのを緊張しているのだと思い歩き回れる庭園に誘導したのだった。
「ヴィオラの花言葉は『私のことを想ってください』っていうんですよ。こんなに小さい花が言っていると思うと可愛いですよね」
その横顔にヴィンセントは吸い込まれそうだった。そんな雑草にいちいち言葉がついていることにも、そんな実用性もなさそうな知識をいちいち大事そうに覚えているヴィオラのことも理解できなかった。彼はなんでも理解できていたというのに、はじめて自分に理解できない世界が存在しているということに気がついたのだ。
「あ、あちらにアスター(エゾギク)の綺麗な花畑がありますね。花冠作ったことありますか?」
ヴィオラは自分よりも幼いヴィンセントが黙っていても特に気にもとめていなかった。緊張しているであろう可愛い弟のような存在に少しでも楽しんでもらいたくて彼の手を引いて庭園をまわった。
ヴィオラは鼻歌を歌いながら、慣れた手つきで花冠を編んだ。彼女の白い細い指でアスターの花の茎は絡まり合い手品のように編まれていく。ヴィンセントはこんな平和なひとときがこの世に存在するのかと、編まれていく手先をぼんやりと見つめていた。彼の毎日はあまりにも灰色すぎた。この鮮やかな世界がまぶしすきで眩暈がしそうだった。
「ほら、できましたよ」
ぼんやりとしゃがみこんでいたヴィンセントの頭の上に、ふわりと小さな花冠がのった。見れば額につきそうな位置にヴィオラの笑顔がある。
「このピンクのアスターは私の一番好きな花で『甘い夢』っていう花言葉があるんです」
ヴィンセントは理解した。確かにこれは甘い夢なのだろうと。彼女はヴィンセントに足りないものを埋めてくれる。彼女の存在が彼の心を支えてくれるのだと。彼の世界は初めて色づいたのだ。
頭に手をやると瑞々しい植物の感触、見渡せば二人きりの空間に、むせかえるほどの花の香が彼の記憶に刻み込まれた。彼は彼女に恋をしたのだ。
「はじめまして隣国ダルートから参りました。サナリアですわ」
ヴィオラとヴィンセントの婚約から五年ほど経った時だった。ヴィンセントの年齢が結婚できる年齢になるまでヴィオラに待っていてもらっていたのだが、ここで転機が訪れてしまった。隣国の第六王女が留学の名目で王城に訪れたのだ。
ヴィンセントはサナリアに特に興味も示さなかったし、うっとうしくつきまとってくる彼女に辟易していたが無下に扱わなかったのは彼女の国が彼の国と緊張した関係にあり、何がきっかけで国際問題に発展するかわからないくらいだったからだ。彼女は両国のかけ橋だとも、隣国のスパイだともささやかれていた。
ヴィンセントは内々に王に呼ばれ、国のためにサナリアと一緒になってほしいと言われたがそれを断った。それは従順な彼が唯一反抗したことでもあった。彼の中ではすでにもうヴィオラが大きなよりどころとなっていたのだ。彼女の為ならきつい訓練も魔術の研鑽も乗り越えていけそうだった。
「隣国の王女が友好目的ではないと立証できたのならば認めよう」
長い口論の末、国王は折れた。ヴィンセントはサナリアの目的を探るために彼女に近づかなくてはならなくなった。ヴィオラにそんなこと言えるわけもない。「第六王女が友好であったら君とは結婚できないんだ」なんてどうして言えるだろうか。ヴィンセントは必死だった。婚約者であるヴィオラとは過ごす時間は減るがこれもすべて彼女を想うがゆえなのだ。
サナリアの周囲をかぎまわっていると彼女が何か裏の稼業とつながっている情報がいくつも出てきた。婚約者であるヴィオラの身を案じ、彼は王城の彼女の自室に目くらましの術をかけたのだ。彼の魔術は国一番であったが、自らの力を過信してはいなかった。最大限の出力を出すために対価を支払って術式を強化することに決めたのだ。
(どのみち私はしばらくヴィオラの傍にはいられない)
彼は対価を支払った。強力な魔術と引き換えに彼は制約を掛けられた。ヴィオラへの想いを障壁の一部に組み込み、彼女に贈られるはずだった愛の言葉はすべて彼女を守る障壁に変えられた。もはやこの術は完璧すぎてヴィンセント王太子にも見えなくなった。彼の目にはヴィオラは映らなかったのだ。
ヴィオラはこの後の五年間をヴィンセント王太子の無視のもと過ごすこととなる。彼女の心は摩耗し、ひび割れた隙間からは魔術の術式の綻びができた。やがて歪みは大きくなり、第六王女は彼女の存在を認知した。第六王女は彼女を蹴落としたら次期王太子妃になれるのだと思い込んでいた。なぜならば今もっともヴィンセント王太子と近いのは彼女だったのだから。
一方ヴィンセントは自分の最大限の術が解かれるはずもないと思って生活していたのだ。彼はもうこの問題が解決するまではヴィオラには近づかないと決めていた。第六王女が黒だったのなら真っ先に危険が及ぶのはヴィオラなのだ。第六王女のほうを先になんとかしなくてはならなかった。
そして悲劇は起きた。あともうすこしで証拠がそろうといったときだった。一番強固にしていたはずの扉の結界は破られ、その反動がヴィンセント王太子を襲ったとき、彼は悪夢を見ているのだと思った。
彼の最愛は、彼の不注意によって壊れてしまったのだ。
信じたくなかった。
この現実も。何より自分自身の不手際も。
でも目をそらしてはならないのだ。
彼は見つめた。自分の業を。自分の傲慢さが命を奪い、それが自分を苦しめているこの現実を。
(自分で自分を信じられなくてどうする)
彼女の棺に納めた白いアスターは自分への戒めだ。自分が信じられない自分を、奮い立たせるための鞭でもあった。
そして彼の悲願は達成された。彼は成し遂げたのだ。
………
「ヴィンセント様、……恥ずかしいです」
濡れた髪をタオルで拭かれながらヴィオラは顔を両手で覆った。ヴィンセントはお湯で温まった彼女の身体が湯冷えしないようにと丁寧にタオルで拭いていた。
「恥ずかしいことはないだろう、私たちは夫婦なのだから」
ヴィンセントは幸せだった。彼の手の中には最愛が戻ってきた。
「君の花言葉は『私のことを想ってください』というのだろう? 私は君のことをこれだけ想っているのだと毎日君にわからせてあげないといけないじゃあないか」
お読みいただきありがとうございました!