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拡散

 圭太が所属する事務所は中野にあった。小さな事務所で所属するそのほとんどが圭太と同じようにスタジオミュージシャンとして活動している。

 その日、圭太は久しぶりに事務所に顔を出すことにした。昨夜はあの少女とのセッションを思い出しながら、少々飲み過ぎて頭が痛い。だが、あの心地よさを誰かに話したい気分になったが、あいにくまだ一人暮らしで彼女も今はいない。

 朝飯を吉野家でかき込んでから事務所の扉を開けた。個人のマネージャーという気の利いた人はいない。事務所へ行って社長が自ら取ってきた仕事を確認し、自分でスケジュールなどの調整をしなければならない。

 扉を開けて事務所にいたのは社長の菊池と事務員の松本の2人だけだった。社長は40代半ばでかつては自分もベーシストとしてミュージシャンを目指したらしい。事務員の松本は30代、菊池の彼女だというもっぱらの噂だ。圭太がこの事務所に入った時にはすでに働いていたベテランだった。


「おはようございます」

 圭太が2人に挨拶をする。すると松本とスマホを見ていた社長が、

「おっ、きたきた。おいおい圭太、お前こんな隠し玉、いったいどこで見つけたんだよ」

と言いながら圭太に近寄ってきた。

「えっ、な、なんの。えっ、隠し玉? なんすか、それ」

「まったく何を隠してるんだよ。いったい誰だ、この子」

 そう言いながら、今度はスマホを圭太に向けた。誰が撮影したのかわからないが、そこに写っていたのは間違いなく昨日のあの子のセッションだ。

「これ、いつの間に……」

 戸惑いながら圭太が言うと、事務員の松本が、

「なんかね、昨日からちょっとバズってるんだよね、この動画。かっこいいコンビ発見だってさ。あんた知らないの?」

と言う。

「いや、全然。なんでこんなことになってんのか、さっぱり」

と圭太は思わぬ展開に、ごくりと唾を飲み込んだ。

「で、いつ連れてくるんだよ」

と社長が言う。

「いつ? 何を?」

「トボケるんじゃねえよ。こんな子見つけといて。まさかお前、うちの給料が安いからって、俺の知らない間にどこかの大手事務所に売り込んでるんじゃねえだろうな」

「ちょ、ちょっと待ってください社長。俺、そんなこと一回も考えたことないっすよ」

「じゃあ、なんで事務所に連れてこないんだよ」

「連れてくるも何も、俺、この子がどこの子か全然知らないんすけど」

「はあ? 知らない?」

 そう言うなり、社長がポカンと口を開けた。

「いや、昨日俺がちょっとストリートでギターを弾いてたら、突然飛び込んできたんですよ。そんで2〜3曲セッションをしただけで、どこの誰だか実は全然知らない子で」

「連絡先とか交換してないのか」

「まさか、まだガキンチョっすよ?」

「お前さ、少しはうちの事務所のこと考えてくれよ。ありえんだろ」

「そりゃ、びっくりするぐらい上手い子だったけど、それが?」

「バーカ。うちの事務所からデビューさせようとか、思わねえのか?」

「この子を、ですか?」

 なぜ、という顔をして圭太が菊池を見ると、

「お前、目は節穴か? 若いけどビジュアルも完璧、歌も抜群。こんな上玉滅多にいねえぞ?」

と呆れ顔で言った。

 そう言われて改めて社長が手に持ってるスマホの画像を見直した。ちょうど「のっぽのサリー」を歌い出すところだった。

 10代とは思えない強烈なシャウト。歌唱力に感銘を受けてあのときは気にもしなかったが、画像で見ると確かにその立ち姿さえもかっこいい。

「ああ、すごいかっこいいっすねえ」

「かっこいいっすねえ、じゃねえよ。俺も長いことこの世界にいるが、こんなのなかなかいねえよ。どっかの事務所に所属している子じゃなきゃ引っ張ってきたいよ。お前、本当に知らないのか? なあ、隠してんじゃないのか?」

「いやあ、俺、自分がギターで食べてくことにいっぱいいっぱいで、この子をデビューさせようとか、スカウトとか、まったく考えもしませんでした。そっかあ。そんな考えもあれば、SNSの交換ぐらいしとくんでしたね」

「まったくだ。呆れて物も言えないよ」

 社長はあからさまにがっかりとした様子だった。

 動画はロックアラウンドクロックが流れていた。圭太はしばらくその動画を眺めていたが、気持ちの中で何かが湧き出すのを感じていた。


 ——そんな未来。

 圭太は社長の菊池から言われて、初めて自分にもギターだけではなく、新しい才能の発掘やプロデュースという未来も選択肢にあることに想いを馳せながら、「ケイ」と名乗ったあの女の子と自分がコラボした動画を何度も何度も繰り返し見ていた。

 多分スマホのカメラで撮影したと思われるこの動画は、録画状態もさしてよくなく、マイクも通さず屋外で歌っているケイの声の何分の1も伝えきれてないが、ちょうどよい角度から撮影されていて、あの日、圭太がほとんど背中から見ていた彼女を正面から捉えている。

 まだ幼さの残る顔と、彼女が生まれていない時代のオールディーズとのギャップが逆にとても新鮮だ。しかも、まるで録音を何度も重ねて作り上げるメディアのように完璧な音程で、とても初めてのセッションでの歌唱とは誰も信じないかもしれない。

 動画を何度も繰り返すうちに、圭太は居ても立っても居られない気分になるなった。


 ——なんとかしてケイを探してみる方法は?

 思案しているうちに、圭太はスマホを手に動画サイトの投稿者へのダイレクトメールを出してみることを思いついた。投稿者があの街に住んでいるか働いている可能性がある。そうだとすれば、あの日あそこを通りがかった彼女の制服が、どこの高校あるいは中学のものか知っているかもしれない。


「初めまして。自分はあなたの投稿した動画でギターを弾いていた、プロのミュージシャンとして活動している者です。もしよければあなたと少しお話をしたいので、お返事をいただけませんか」


 ——送信、と。


 これまで知らない相手にこんなメールを送ったことはない。こんなメールに返事が来るかどうかはわからないが、一か八かだ。そう覚悟を決めた。

 メールを送ってまた動画を見ていると、ほんの数十秒後にスマホが「ヴヴッ」と震えた。


「すごく上手いデュオだなとは思いましたが、やっぱりプロの方だったんですね。だとしたら、やはり投稿しては不味かったですよね。すみません。削除させていただきますので、許してください」


 動画の投稿者からのメールだった。圭太は慌ててまたメールを送る。


「いや、動画はそのままでも構いません。というか、ぜひ消さないでください」


「ありがとうございます。あの日、2人がすごくかっこよかったのでつい動画を撮影してしまいました」


 メールのやり取りが始まった。


「謝る必要は何もありませんので気になさらずに。ところで少し聞きたいことがあるんですが」


「なんでしょう」


「ここで歌っている少女なんですが、あなたも知らない子ですよね?」


「はい、知りませんが。デュオとして活動しているんじゃないんですか」


「いえ、実はあの日が初めて会った子で。じゃあ、つかぬことを聞きますが、彼女が着ている制服はどこの学校かご存知ありませんか。あの辺の地元の高校ならあなたは知らないかなと思ってメールしました」


「私も長くあの近くの仕事場に通ってますが、あの制服は駅の近くでも見たことはありませんよ」


「そうですか。残念です。実はあの子を探しているんですが、無理そうですね」


「ああ、そうなんですか。でも、それならネットに聞けば一発ですよ、きっと。なんなら私が探してみましょうか」


「そんな方法があるなら、お願いできますか」


「ちょっと時間をください」


 いったい何をする気だろう。とにかく待つしかないと腹を括り、圭太は動画を見ながら返事を待った。

 30分ほど経過した頃、再びメールが入った。


「見つけました。横浜にある聖華国際学園という私立高校です」


「ありがとうございます。横浜ですか。制服だったので近くかと思っていました。でも、どうやってわかったんですか」


「ツブッターに乗せて、友達に拡散してもらいました。すみません、今度はツブッターでちょっとバズったようです。きっとすっかりお二人は有名人になってるかも知れませんw」


「私は一応プロなので、名前が売れるのはいいことだと思いたいです。色々ありがとうございました」


「こちらこそ。テレビとか出ることになったら、教えてください。応援しています」


「基本はスタジオミュージシャンなので、なかなかそういう機会はなさそうですが、努力します。その時はよろしくお願いします。では」


 そう言ってメールのやり取りは終わった。その時点で圭太はまだ気がついてなかったのだが、確かにツブッターではまた「超絶歌がうまい女子高生」の動画が順調に拡散されたことを圭太が知ったのは翌日の朝になってからだった。社長の菊池がどんな悔しい顔をしてその動画を眺めていたかは知らぬが花だ。


 圭太はすぐに行動を起こし、列車で横浜に向かった。席は空いてなかったが横浜なら立っていてもすぐだ。

 行く道すがら、動画の投稿者が言った聖華国際学園をネットで探す。ホームページがすぐに見つかった。正式には横浜聖華国際学園高等部。国際と名のつく通り、留学生なども積極的に受け入れる女子校らしい。煉瓦造りの校門が伝統を感じさせる。

 ——女子校か。ちょっと近寄り難いな。

 圭太に少しだけ不安がよぎるが、この際仕方ないと腹を括った。


 横浜駅で降りて、場所がわからないのでタクシーをつかまえた。この学校は遠いかとスマホを見せて聞くと、車で20分ぐらいと運転手が言う。横浜と言っても、東京ディズニーワールドが千葉にあるように、聖華国際学園も横浜中心街からは結構離れたところにあるようだ。そこへ行ってくれと伝え、あとは運転手に任せることにした。


 タクシーでしばらく走ると、ホームページで見たのと同じ荘厳な感じの煉瓦造りの正門前で降ろされた。

 だが、賑やかな女子校をイメージしていた圭太は、正門前があまりにも人影がないことに、いきなり肩透かしをくらった。

 ——確か今日は月曜日のはずだが。

 そう思いながら正門前にしばらく立っていると、ようやく何人かの生徒が校舎から出てくるのが見える。よく見るとそのうちのひとりは背にはギターと思しきものを背負っているようだ。音楽をするものなら、少しは話しやすそうな気がして圭太の心が軽くなる。


「ごめん、ちょっと聞きたいんだけど」

 圭太がギターを背にした女の子に向かって声をかけると、彼女と一緒にいた5人ほどのグループが足を止めた。だが、あからさまに不審者でも見るような目つきで、少し後退りながら、

「なんですか」

と怯えたような声でギターの子が返事をした。圭太はできるだけ柔かな顔を必死で作りながら、

「人を探してるんだけど、この子、この学校の子じゃないかな」

とスマホを掲げてギターの子に1歩近づくと、スマホは覗き込むのだが圭太が前に出た分だけ後ろに下がった。周りの子からは「こんなとこでナンパ?」「先生呼んでくる?」などとヒソヒソ声が聞こえるのだ。圭太的には心外であるが、ここは大人の対応を心がけることにする。

「この子、音楽をやってそうだから、ギターを弾く君たちなら知らないかなあと思って」

 そう言いながら、もう一度スマホを前に突き出すと、音楽という言葉につられたようにギターの子が少し前に出て、今度はちゃんとスマホの動画を覗き込んだ。

「ねえ、誰かこの子知ってる? うちの学校の子みたいだけど」

 そう言って周りの子に声をかけると、今度は一斉にスマホの前に集まってきて動画を見たが、だが誰も知らないと言う。

「歌もめっちゃ上手い子じゃん。誰、この子」

「あれ? 後ろでギター弾いてるのって、この人じゃん」

 口々に感想は述べるが、女の子のことは誰も知らないのだが、動画のギターが圭太だとやっと気がついてくれた。

「でも、ギターかっこいいなあ。私もあんな風に弾きたい。それにしてもおじさん、めっちゃギター上手くないですか? なんで?」

 突然ギターの子が圭太に聞くので、

「まあ、一応プロなんで」

とだけ答えると、一気にやかましくなる。

「うっそー、プロだって!」

「なんのプロ?」

「それはギターのプロに決まってんじゃん。ねえ、そうでしょ?」

 いったい誰と話せばいいのかわからないくらい賑やかになった。しかも最初足を止めたグループ以外の子も集まってきて収拾がつかなくなりそうだった。


「すみません、あなたどなた?」

 そこへ突然、圭太は後ろから声をかけられた。どうやら不審者情報の連絡が先生に入ったらしい。来たのは年配の女性だった。

「あー、もしかして先生ですか?」

「ええ、そうです。あなたは?」

「この学校の生徒らしい子を探してます。この子なんですが……」

 そう言って、例の動画を見せた。先生が動画を見ている最中、「先生、うちの生徒にいる?」「ねー、見たことないよね?」と口々に周りの生徒が先生に話しかけた。だが、その先生は生徒たちには何も答えずに、

「で、この子がいたら、あなたはどうするつもりです?」

と圭太に聞いた。いる、とか、いないも教えてくれない。

 圭太は、免許証を取り出して先生に見せながら、自分がプロのギタリストであること、この女の子の音楽の素養に感銘を受け、もう一度ちゃんと話をしたいことを伝えた。

「ああ、そういうことですか。でも、残念ですがこの子は今日はいませんよ」

と初めて女の子のことに触れた。周りの生徒が「やっぱりうちの子?」などという中、

「あの、今日はいないとは……」

と圭太が聞くと、

「入学式は明日ですから、まだ登校は始まってませんよ」

と言いながら先生は笑っていた。生徒が少ないとは思っていたが、そう言われてまだ春休みだということに圭太はやっと気がついたのだった。


「じゃあ、日を変えたら彼女にはここで会えますか?」

 圭太がそう言うと、先生はゆっくりと首を横に振った。

「ここは学校です。ご家族の方ならいいですが、お話を聞いてるとまったくの他人ということですよね? 生徒の安全に配慮するのは私たち教師の、というか学校の義務ですから。このままお引き取り願います。」

「理由は先ほど言いました。彼女にはすごい才能があると思ってる。このまま埋もれさせるのはもったいない。なんとか会わせてください。お願いします」

 深々と頭を下げる圭太に、先生はガンとして首を縦には振らないのだ。さらに追い討ちをかけるように、

「いいですか。もしこのまま立ち去らないようなら、警察を呼ぶことになります。諦めて帰ってください」

と、にべもない返事をするのだ。

 圭太ががっかりと打ちひしがれていると、

「ねえ西川先生、じゃあやっぱりこの子うちの学校にいるの?」

と、ちょっとタメ口の生徒がその先生に話しかけた。先生は西川という方らしい。

「ええ、今年から入るエフの子よ。仲良くしてあげてね」

と先生が言うと、そこにいた生徒たちが

「ああ、やっぱりい。だから英語上手いんだねえ」

「歌も超絶。スカイシーに勧誘しようかな」

「ああ、そうよね。ねえ、先生。うちの生徒ならスカイシーに入れてもいいよね?」

と先生に口々に話しかけた。

「もちろんエフの子もうちの生徒だから、全然構わないのよ」

と先生は柔かに返事をするのを横で聞いていた圭太が、

「あの……、ひとつ聞いていいですか? そのエフって」

と恐る恐る聞いた。

「エフはうちの学校の特色のひとつですよ。イングリッシュフレンド、縮めてEFをエフと発音するんです。うちは英語教育に力を入れてるんです。英語が堪能な英語圏の外国人を特待枠で入学させるんです。ほら、日本人って綺麗な英語を喋るのを少し照れて引っ込んじゃうでしょ? だから生徒たちと同じ年代の外国人を入学させ、いつも過ごす教室とか、授業以外で友達として英語を話す機会を作ってる、それがエフのシステムですね」

 そんなシステムが少し学校の自慢なのだろう、先生は嫌な顔をせずに説明してくれた。

「だからあんなに発音がよかったんですね」

と圭太が納得していると、校門前にあるバス停にバスが止まって、ひとりだけ私服の女の子がバスから降りてきた。あのとき「ケイ」と名乗った、まさしく圭太が探しにきた彼女がタイミングよく降りてきたのだ。

「あら、高橋さん、学校は明日の朝からよ。どうしたの」

と彼女に気がついた西川先生が話しかけた。すると彼女は小走りに近寄ってきて、

「明日、ちゃんとバスで来られるか不安になっちゃって、試しにバスに乗ってみたの」

と少したどたどしい日本語で照れたように答えた。どうやら彼女と先生はすでに面識があるらしい。

「ケイちゃん、俺を覚えてるかい」

 千載一遇、圭太は2人の会話に割り込むようにあえて名前を入れて話しかけた。この出会いが偶然だというなら、もう2度とこのチャンスを逃すべきじゃないと圭太は思ったのだ。

「ちょっと、あなた……」

 あわてて西川先生が圭太とケイの間に立ち塞がるように入り、圭太との接触を防ごうとした。だがそんな先生の気も知らず、

「あー!」

とケイが圭太の顔を見てうれしそうに大声をあげたのだ。どうやら覚えていてくれたらしい。圭太は右手を差し出して、

「もう一度君とセッションをしたいんだ。また歌ってくれないか」

というと、ケイはパチンと圭太の手に自分の手を合わせ、大きく頷いて、

「いいよ、どこでやるの?」

と今すぐにでも歌い出しそうな勢いだ。すると、

「このギター、使っていいですよ! プロの演奏聞いてみたい!」

とギターの子がいう。先生はあわてて、

「ダメです、こんなところでとんでもない」

と必死に止めるので、

「じゃあ、音楽室ならいいですか? ね、いいですよね。音楽室、借りまーす」

と圭太とケイの手を取って生徒たちが走り出したのだ。

「えっ? えっ? あっ!」

 先生は止める間もなくその場に呆然と立ちつくしたのだった。


「こらっ、待ちなさーい!」

 走り出した生徒たちと圭太の後を、西川先生が必死に追いかけてきたが、あからさまに年代の差が出た。先生が音楽室にたどり着いたときには着々と機材の準備が始められていたのだ。

「まったく。……新井さん。校長先生に……見つかったら……どうすんのよ。はあ……。先生、責任取れないよ」

 息をぜいぜいと切らしながら、先生がギターを抱えていた生徒に言っている。新井という名前らしい。

「でも、先生が言ったんじゃないですか。あの子をスカイシーに入れてもいいって。これは入部試験なんですよ。ねえ、いいでしょ、お願い、先生」

 先生の気苦労など知りもせず、その新井さんはしれっとして先生に両手を合わせた。

「い、1曲、1曲だけですからね。いいですね」

 どうやら先生も諦めたようだ。先生と新井さんのやりとりの間にも、着々と準備は整っていっている。マイクも用意され、マイクテストも着々と進む。

 圭太は借りたギターを首から掛けてギターの高さを調整すると、軽くチューニングを始めた。

「グリップのとこが細いなあ。やっぱり女の子用だね。まあ、なんとかなるか」

 そう言いながら、適当に音階を鳴らして調整をする。ただそれだけで、周りにはアマチュアとプロの違いがはっきりと伝わったようだ。集まってきた生徒たちの顔が期待する表情になっていた。


「よっしゃ、準備オッケー。軽くスタンド・バイ・ミーあたりでいいかい」

 圭太がプロとしての余裕を見せながら小声でケイに話しかけた。

「ジョン・レノンが好き」

 ケイは圭太を見ながら、「大丈夫でしょ?」という表情を見せた。圭太はニヤリと笑い、ダウンストロークから始まるジョン・レノンバージョンのスタンド・バイ・ミーが始まったのだ。


 まるで録音で聞いてるような、ケイの完璧なボーカルと圭太の軽快なギターのリズムに音楽室にいた生徒たちだけでなく、外にいた部活帰りの生徒たちまで集まってきた。

「これ、なんて曲?」

「知らないけど、いい曲!」

「歌ってるの誰? すごくいい声! 憧れるわ」

 気持ちよく目の前で繰り広げられるセッションを聴きながら、生徒たちのいろんな感想が飛び交っていた。


 曲が終わると「わあ」という歓声と拍手に被さるように、さらにケイのロング・トール・サリーが炸裂する。

 ——すっげえ……。

 実は圭太もさっきまでケイの実力を分かり兼ねていた部分があった。なぜなら初めてのセッションは、マイクも反響もない屋外だった。だが、今日は違う。この学校の音楽室はまるでホールのようであり、音響もすごくいいのだ。ケイのボーカルの凄さを、ケイの特異な才能をまざまざと感じるのだった。


 2曲終わるとケイが一息ついた。さらにものすごい拍手と歓声が上がる。

「もう一曲!」

 どこからかそういう声が聞こえる。声のする方を見ると、間違いなく西川先生だ。結局一番気持ちよく聞いてたようだ。

「先生のリクエストは?」

 圭太が聞く。

「ビートルズ以外ありえないでしょ」

 先生がそう言うのを聞き、ケイが圭太に近寄り耳打ちをした。意外な選曲に圭太は少し驚いたが、首を縦に振った。そして「イン・マイ・ライフ」の前奏の美しいメロディと共に、ケイが静かに歌い出した。先生は嬉しそうに目を閉じて聞き入っていた。

 美しいメロディが終わると、ケイに何も話しかけず、いきなり強烈なギターが響き出した。「ジョニー・ビー・グッド」の軽快なリズムに乗り、再びケイのシャウトが音楽室に響き渡った。圭太にはこの曲をケイが知らないはずがないという信頼が生まれていたようだった。

 2人のセッションは30分ほど続き、オールディーズを中心とした2人の見事な息のあったプレイにその場にいた皆が酔いしれた、入学式前日のサプライズであった。



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