セッション
東京にもいつの間にか春が来ていた。右手にギターケースを抱えた圭太は、霞のかかった薄青い空を見上げ、久しぶりに空気をいっぱい胸に吸い込んだ。こんなコンクリートだらけの都会にも、道路脇には数本の桜の木にはピンク色の花が咲いていた。
早瀬圭太は、ギタリストとして活動する、いわゆるスタジオミュージシャンである。大学を中退し、プロのミュージシャンを目指したが、ソロデビューまでには至っていない。ギターの腕には自信があるが、やはりこういった世界で「売れる」ことは、歌唱力なりビジュアルなり唯一無二の雰囲気なりの、他人とは違う才能が目に留まらないとデビューというのも難しいことを30歳を前に悟った。幸運なことに、ギターの腕を見込まれて小さな事務所に所属しながら、スタジオミュージシャンとして活動できている。
最近まで他のシンガーのためにスタジオにこもっていたので、久しぶりに自分のためにギターを弾きたくなり、圭太はアコースティックのギターケースを抱えて今日はぶらぶらと街を歩いていた。路上ライブというほどのたいしたものではないが、通りがかりに自分の歌を足を止めて聞いてくれる人がいればそれでよい。
日曜日ということもあり、今日は営業していないビルの玄関脇の階段に腰を下ろしてギターを取り出しチューニングをする。爪弾く度に通り過ぎる春の風が心地よい。今日は気持ちよく歌えそうだった。
「よし」
小さく気合を入れた圭太は最近の流行りの曲を数曲歌う。シンガーとしては思うようにデビューはできなかったが、歌うことは好きだった。
圭太が歌っている間、しばらく立ち止まって聴いてくれる人もいたが、急いでいるのか、また立ち去ってゆく。
——まあ、これが俺の力だな。
一段落したところで、圭太がギターを始めたころ盛んに練習したロックンロール初期、60年代のいわゆるオールディーズと呼ばれる時代の曲を歌い出した。この時代の曲は曲調がシンプルで、単純に「ノリ」がよい。そんな曲をアコースティックのギターでアレンジしながら、まずは「涙の乗車券」を気持ちよく弾き出した。ビートルズの作品でカーペンターズもカバーした名曲であり、メロディラインも綺麗で圭太も好きな曲だ。
圭太が顔を上げると、足早に通り過ぎる人々の向こうのガードレールに寄り掛かるように、女の子が立って圭太の歌を聞いているようだ。見た目にも真新しい制服を着ていて、多分高校1年生なのだろう。今どきの子がこんな古い歌に興味があるのだろうかと思いながら、立ち止まっているのがその子だけなので、圭太は自然とそっちへ向かって歌う形になって、それからやっと気づいた。
——違う。あの子はこの曲を知ってるんだ。
彼女はただ聴いていたのではなく、圭太のギターに合わせて、間違いなく「涙の乗車券」を歌っていたのだ。
——へえ。あんな子がこんな曲を知ってるなんてな。
ストロークの間に一瞬曲を止めて、彼女に「もっと近くにこい」というように合図を送ると、人波をかき分けるように近寄ってきた。圭太はさらにギターの音を強く弾いて「一緒に歌おうよ」というジェスチャーを送る。彼女が「いいの?」という顔をして圭太が頷くと、まったく思いもしないことがおきた。圭太の想像を超えて一気に彼女が「解放」されたのだ。
彼女がどんなキーで歌うのか知らないまま始めたセッションにもかかわらず、低音部から高音部まで実に伸びやかで、その細くて小さな体のどこにパワーを秘めていたのかとまず驚く。そしてその英語の発音に度肝を抜かれた。音楽で英語を学んだ圭太からすれば、学校で習う英語はアメリカの音楽で聴いていた英語とは別物だったのだが、今目の前で歌う彼女の英語はまさしく「本物」だった。
驚いたことといえばもう一つ。それまでただ通り過ぎていたはずの人波が一斉に動きを止め始めた。
——すげえ。
とにかく彼女の歌に負けないように、それだけを思いながら圭太は必死にギターを弾き、こんな場所で思いもかけず訪れた、まさしく「女神」とのセッションに夢中になっていった。
人は言葉より先に音で会話をしていたという。うれしいこと、楽しいこと、悲しいこと。音を奏でるだけで何もしゃべってはいないのに、ちゃんとその感情まで伝えてしまうことは確かにあるのだ。
少女は心から楽しそうに歌っている。圭太もまた、人のためにギターを弾くことがこんなにも楽しいと思うのはいつ以来だろうと思った。初めて買ったギターで友達に習ったばかりのコードを押さえ、ピックを振り下ろして音が出た時のあの感動を思い出した。
曲が終わった瞬間、拍手と歓声が上がった。圭太が夢中でギターを弾いていた間に、気がつくと圭太と少女の前に人の輪ができていたのだ。鳴り止まない拍手。そしてパラパラとアンコールまでかかる。
「アンコールだってよ。いけるか? 何が歌える?」
圭太はアンコールを歌うことを前提に少女に聞くと、ちょっと考えている。
「ビートルズか、カーペンターズ、とか」
涙の乗車券をうたえるなら俺はその辺、なんでも知ってるぞというアピールを兼ねてもう一度圭太が水を向ける。
「……ロングトールサリー」
確かに少女は小さい声でそう言った。彼女の流暢な英語をそう聞き取れた。圭太はニヤリと笑う。
——リトル・リチャードかよ、お嬢ちゃん上等!
目くばせをして圭太は最初のコードを押さえ、ギターを構える。それを感じ取った少女もじっと圭太の目を見て一瞬間を取った。
次の瞬間、少女とは思えない強烈なシャウトが響いた。すでに観衆となった大勢の人々のどよめき。
——すげえ!
アコースティックギター用にアレンジした、1950年代、それこそ初期のアメリカンロックンロールと少女の声が見事に調和し、圭太のギターがますます激しくなってゆく。それにつられて聴衆は体を揺すり、踊り出すものまで現れた。
リトルリチャードが終わると、今度は少女が自分から次の曲をつなげて歌い出した。圭太のギターへの信頼がそうさせたのか、「ロック・アラウンド・ザ・クロック」が始まると、それに圭太がギターをのせて行く。それはまるで、昔見た映画「アメリカングラフィティ」のワンシーンのようだった。
——今日、思いついてここに来てよかった。
圭太は気まぐれで始めたストリートライブに心から満足した。久しぶりにストリートをやったが、こんな思わぬ出会いがあるからおもしろい。
即興のミニライブが終わる。盛大な拍手。いく人かは圭太と少女に握手まで求め、それからバラバラと散って行った。
少女もまた圭太に近寄りハイタッチを交わしたが、すぐに少女は小さく手を振り、「バイバイ」と言うが早いか、駆け出して行く。
「あっ、待って」
慌てて圭太は彼女を追いかけようとしたが、ギターを抱えて動けなかったので、大声で呼び止めた。
彼女が足を止めて振り向いた。
「なあ、名前だけでも教えてくれないか」
「ケイ」
「ケイ、最高だった」
「あなたのギターも!」
それだけ言うと彼女はまた手を振って、軽やかに人混みに走って消えたのだった。