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ゴミ箱の隙間

 その年のニューヨークは例年よりも早く寒い冬を迎えようとしていた。この寒さのせいだろう、出歩く人影も少ない。特にニューヨークの北の外れにあるアミティという地区は、表通りは着飾った女たちが街角で「仕事」をするために立っていて夜でもそこそこに人通りもあるが、一歩裏通りに入るとただでさえ治安が悪く物騒な場所のため、寒さが増すにつれて、まるでそこらは人が住んでいないかのように物音もなく静まり返るのだ。


 そんなある日の夜更け、突然その静けさを破るように「ガシャン」というガラスが割れるような音がアミティの裏通りに響いた。それから切れかけた小さな街灯がひとつ照らすだけの暗い路地に、音のした廃ビルの裏窓から小さな人影が飛び出してきて一瞬立ち止まると、敢えて明かりのない方向を選んだように暗い道の方へ駆けていった。

 少し間を置いて、今度はその廃ビルの中から男たちと見られる複数の人影が飛び出してきた。

「くそっ、逃げられた」

「あんな格好で遠くには逃げられねえはずだ。そこらに潜んでるんじゃねえか」

「手分けして探すぞ。俺はあっちを探すから、お前らは分かれて向こうを探せ」

「わかった」

 静かな裏通りには男たちのそんな声が反響し、その声に反応するかのように、いくつかの建物の部屋の明かりが灯ってカーテンの隙間から人の顔がのぞいたが、またすぐに暗くなった。どこで何があろうが、自分は関わらないという意思表示のようだった。

 まだ11月の下旬だというのに、ハラハラと小さな白い雪が舞う、底冷えのする夜の出来事だった。


 ⌘


 その店はマンハッタンの南側、アジア系の人々が多く住む街角にあった。わりと治安も良い場所で、2年前にオープンした和食をメインに提供する小さな小さな店だったが、特にニューヨークあたりでは珍しい丼物が日本人のビジネスマンや和食好きのアメリカ人にも好評で、店の名前を「ロック・イン・ジャパン」という。


「よいしょっと」

 店の横にある従業員用のドアから掛け声をかけながら後ろ向きに出てきたのは、この店のオーナー兼コックで、名前を高梨圭司という。その両手には大きなごみバケツを持っている。

 圭司がアメリカに住んでもう10年になる。日本での悲しい別れを忘れるためと、ミュージシャンになるという人生最後の夢を賭けて渡米したが、身の程を知り今に至る。日本でのアルバイトで覚えた調理の腕がよかったのか、店の味の評判はなかなかよい。「人生最後の夢」よりもアルバイトの方で食ってるのだから、人生なんてわからない。


「圭司、これもお願い」

 いったん閉まったドアが再び開いて、開業の時からスタッフとして働くステラが右手に持った小さなゴミ袋を差し出した。ステラは年は30過ぎで、ブロンドのいかにも陽気なアメリカ人だったが、ありがたいことに安い週給にも文句ひとつ言わないで楽しそうに働いてくれている。

「なんだよ、ステラ。帰っていいって言っただろ」

「もうちょっとで片付くからいいのよ」

「構わないって。せっかくの感謝祭だ。デートでもしてターキーでも食べておいでよ」

「ははっ、そんな相手がいたら、きょうははなっから仕事なんて来てないわよ」

 ステラはそう言って、ちょっと肩をすぼめ、眉を上げておどけて見せた。

「あれ? 面接の時に、彼氏を待たせてるから雇うかどうか、すぐに決めてって言ってたじゃないか」

「2年も前の話よ。とっくに別れたわよ」

 ケラケラ笑いながらステラがいう。

「そりゃまたお互いに寂しい感謝祭の夜だな」

 2人は目を合わせて笑った。

「ねえ、感謝祭用に仕入れたターキー、余ってたよね。あっためていい?」

 ステラが圭司の顔を覗き込んだ。

「おっ、いい考えだ。じゃあ、俺の秘蔵のシャンパンでも開けようか」

「わお」

 ステラは嬉しそうに笑い、右目でウインクをして店の中へ入っていった。圭司はその後姿が店の中に消えるのを見届けると、いったん下ろしたごみバケツを再び両手で抱えて、ごみ置き場へ向かったのだった。


 圭司がごみバケツをごみ置き場に置こうとしたときだ。先に二つ置いていた大きなごみバケツの隙間で何かが動いた気配がした。犬か猫でもいるのかと思い、そっと圭司は隙間を覗き込んだ。

「うおっ」

 思わず声を上げて一瞬たじろいだが、それが人間であることを頭の中で整理できると、意を決してもう一度ごみバケツの隙間を覗き込む。

 そこには寒い感謝祭の夜だというのに、髪の短い子どもがノースリーブにジーンズの格好のまま、両手で肩を抱いて膝に顔を埋めていて、しかも小刻みに震えていたのだ。


「そこで何をしてるんだ」

 圭司がそっと声をかけると、その子どもはゆっくりと顔を上げて上目遣いに圭司を見上げた。アジア系の女の子だった。

「中国人か?」

 まず英語で話しかけてみた。女の子は何も言わずに圭司を見ていた。

「日本人、じゃないよな?」

 まさかと思いながら試しに日本語で話しかけてみたが、やはり何も言わなかった。

「アメリカ人か?」

 もう一度英語で話しかけると、今度は微かに頷いた。

「こんな寒い夜にそんな格好で何をしてるんだ? こっちへおいで」

 できるだけ優しくそう言いながら右手を伸ばしたが、女の子は怯えたように下がろうとし、そのまま後ろに崩れ落ちそうになった。

「怖がらなくていい。とにかくこっちにおいで」

 ごみバケツを横に動かし、今度は圭司の方から女の子に近寄ると、さっと抱きかかえた。彼女は一瞬抵抗しようとしたが、その力もないぐらい冷え切って震えていた。

「心配するな。何もしないから」

 そういうと、圭司は彼女を抱きかかえたまま、さっきステラが入っていったドアに手をかけながら、

「ステラ!」

と大声を上げたのだった。


「Oh my GOD!」

 ステラは圭司と女の子を交互に見て、まずそう言った。

 ——アメリカの人って驚いたらやっぱり言うよな。

 そんなことを思う圭司に、

「圭司、あなたそんな趣味だったの! 信じられない、そんな子どもを脱がすなんて!」

とステラが叫びながら、圭司の腕から女の子を奪い取ろうとする。

「ステラ、誤解するな。ま、まず落ち着いて」

「この状況でなんの誤解が……」

「だから、誤解しないでちょっと深呼吸をして、落ち着いて聞いてくれ」

 コクコクと頷きながら圭司の言うとおりにステラが浅い深呼吸を2、3度している間に圭司が続けた。

「いいか、ステラ。俺はこの子を脱がそうなんてしてない。もし俺がそんなことをしていたなら、まず絶対に君を呼ばない。だろ? ここまでは理解した?」

 ステラが少し考えて頷いた。

「よし。俺は脱がそうとしたんじゃなくて、この子に服を着せようとしてる。だけど、男の俺はこの子に着せる服を持ってない。だから、君を呼んだ」

 再びステラが頷いた。少し落ち着いたらしい。

「この子が着られそうな服、持ってないか」

「この子小さくて細いから、さすがに私の服じゃ大き過ぎるわ。とりあえず毛布を取ってくる」

 そう言うと、ステラは店の奥へ入って行った。


 ステラからお客用の膝掛け毛布を受け取った圭司はストーブの側に女の子を座らせて、その毛布で包むようにして暖を取らせた。もともと膝掛け用なので小さめな毛布ではあるが、その女の子には十分の大きさだった。そして思いついてステラに女の子の付き添いを頼み、冷蔵庫に作り置きしてあるコーンスープを温めた。


「さあ、飲んで」

 女の子に促すと、スープの入ったカップを両手のひらで包むように持って飲み始めた。

 圭司とステラが女の子を見つめていると、

「……美味しい」

と、2人の顔を見ながら初めて自分から口を開いた。

「どこから来た?」

 少女に圭司が話しかけると、彼女は少しためらいながら、「アミティ」と答えた。

「アミティ? その格好であんな遠いところからか! どうやって?」

「……走って」

「走ってって、アミティからだと30マイルはあるぞ」

 思わず圭司とステラは顔を見合わせた。

「じゃあ、もしかしてお腹すいてる?」

 ステラが聞くと、少女は小さく頷いた。

「わかった。待ってて」

 ステラは厨房に入って行き、しばらくして丼を持ってやってきた。

「どうよ、私特製ターキー丼! お店じゃ出してないメニューよ」

「おいおい、そりゃまたボリュームありそうなディナーだな」

 圭司も初めて見るボリュームだ。

「さっきターキーを温めたからね。30マイルも走ったらこれくらい必要よ」

 ステラが自慢げに笑った。

 丼には小さめのスプーンを添えてある。空き過ぎたお腹にいっぺんに掻き込まないよう、ステラが気を回してくれたようだ。アメリカでの商売に彼女の気が利いていて助かる。

 よっぽどお腹が空いていたのだろう、その丼を女の子は一気に減らしてゆく。卵で閉じたターキーの下から大量のライスが出てきて少し驚いたみたいだが、どうやら美味しかったらしい。

 一息ついたところでもう一度圭司が、

「なんでそんな遠くから来たんだ」

と聞くと、彼女は「逃げてきた」とだけ短く答えた。

「逃げてきた? 何から?」

 少し間をおいた。

「街から」

「何か悪いことしたのか」

 首を横に振り、また黙りこむ。

「アメリカ人って言ったな。名前は?」

「ケイ」

「ケイ? 苗字は?」

「タカハシ。ケイ タカハシ」

「なんだ、やっぱり日系人なんだな。ケイはわからないが、苗字は日本にある名前なんだよ。日本、知ってるか?」

「日本? 知らない。どこ? どこにある国?」

 ケイと名乗った少女は、ジッと圭司を見つめていた。汚れた衣服からは想像もできないほど深くて綺麗な瞳だった。

「ケイ タカハシか。圭司、あなたの名前と似てるね。顔も似てるかも」

 ステラが横から言う。

「ああ、君らから見たら、東洋人の顔って見分けがつけにくいって言うもんな」

「そうかなあ。似てると思うけどなあ」

 そう言いながらステラは、圭司とケイの顔を何度も交互に見て首を捻っていて、そんな仕草が圭司は可笑しかった。

「君の両親はどこに住んでる? アミティなのか」

「いないの」

 そう言ってケイは視線を落とした。


「ところで、ケイは何歳だ?」

 ご飯をほとんど食べたケイは少しだけ考えて、「今日は何日?」と聞いた。

「何日って、今日は感謝祭だからな。11月27日だよ」

「じゃあ、まだ10歳」

 声の震えが少し止まっていた。

「まだ?」

「12月が誕生日なの」

「へえ、何日が?」

「12月1日」

「1日生まれか。もうすぐだな」

「本当は生まれた日じゃないんだけど」

 消え入りそうな声でケイは言う。

「生まれた日じゃなければ、何の日なんだ」

 それには何も言わずに床を見つめていた。


「おっきいのはわかってるけど、とりあえずこれを着て」

 奥へ引っ込んでたステラが、手に服を持ってきた。どうやら自分の予備のトレーナーとスカートのようだ。

「その前に、今着てる服を後でランドリーで洗ってくるから、脱いでね」

 ステラはケイにできるだけ優しく言う。そして今度は圭司に、

「ほら、レディが着替えるんだから、ジェントルマンは後ろを向いて」

と言いながら、圭司からケイが見えないように、その間に立った。

「わかってますよ。どうぞごゆっくりとお着替えください」

 圭司はステラとケイに恭しくかしずきながら、後ろを向いたのだった。


「なんてことを!」

 突然ステラが驚いたように、小さく声を上げた。圭司が後ろを向いてすぐのことだ。

「どうした、ステラ」

 ステラはちょっと戸惑っていたが、

「……ちょっとだけ見て」

 と圭司にいう。

「もう着替えたのか。早いな」

「そうじゃなくて、ケイの背中だけ、ちょっと見てくれる?」

「いいのか」

「うん。ちょっとだけ」

「何だっていうんだい」

 そう言いながら圭司が振り向くと、ケイの小さな背中が見えた。そして、ステラが言わんとしていることが一眼でわかった。

 いくつも傷つけられた小さな背中。まだ新しいそうな青い痣の下に、かなり前についたような黄色く変色した背中。しかも傷はひとつではない。

 圭司は言葉を失い、ごくりと唾を飲み込んで固まった。


「これはいったい……」

 少し間を置いて、やっと言葉が出た。その間にステラはケイの正面に回り込み、跪いてケイの体の前を見ていた。

「前も同じよ」

 顔を上げて圭司にそう言いながら、ケイの肩のあたりを指でを押さえ、

「痛くない?」

とケイにいうと、彼女は軽く首を横に振って、「大丈夫、ちょっと前のだから」と小さな声で返事をした。

「ここは?」

 そう言って押さえたのは右腕の瘡蓋で、ケイは「アウッ」という小さな声を出して、一瞬眉をひそめた。

「これも誰かにやられたの?」

と聞くと、ケイは首を振り、

「逃げるときに、窓ガラスで切っちゃったの。失敗しちゃった」

と言いながら、ちょっと舌を出して平気そうな顔で笑っている。彼女にとってこの程度の傷は「慣れ」ていてたいしたことじゃないというようだった。


「さっき両親はいないって言ったな。どこで育ったんだ」

 ブカブカの服を着たケイが怯えないように、できるだけ笑いながら優しく圭司は話しかけた。だが、ケイはそれよりも大きすぎる服の方が気になるらしい。

「私、スカートって初めて」

 ケイは腰回りをピンで止めたスカートの裾を少しつまんで広げている。

「あら、そうなの? なかなか似合ってるわよ」

 ステラがそう言うと、ケイははにかむように微笑んだ。ステラはその様子を見て、ちらりと圭司に目くばせをする。

「もう一度聞くけど、ケイはどこで育った?」

「……アミティ」

 相変わらずスカートを気にしながらケイは返事をした。

「アミティのどこ?」

「ストロベリーハウス」

「ストロベリーハウス?」

「うん。ジョシー夫妻がやってるハウス」

 少しずつ間を置きながらケイは返事を返してくる。そして圭司は、さっきから一番聞きたいことに少し踏み込んだ。

「その、ジョシー夫妻は……優しいのか」

 それまでしきりにスカートを気にしていたケイが、ぴたりと動きを止めて、そして息を大きく吸い込むのがわかった。それから顔を上げて何か言いたげに圭司の目をじっと見たのだった。


 意に反してケイはニコリと笑った。そして、「大丈夫」と明るく答えたのだ。あっさりとそう言われると、むしろそれ以上は聞きにくくなる。体につけられた傷について尋ねる切り口が見つからない。

「じゃあ、どんな事情があってここまで来たのかわからないけど、ケイがそうして欲しいなら明日になったら、俺の車でアミティに連れて帰ろうか?」

 試しに圭司がそう聞いてみると、ケイはチラッと視線を上げていう。

「本当? うれしい! 遠いし寒いから、歩いて帰るのって嫌だなって思ってたの。ありがとう」

 ——これは本音だろうか。

 そういえば、彼女は「街から逃げてきた」と言っていたが「ハウスから」とは言わなかった。街で何かがあったのは確かだ。ただ、そのストロベリーハウスに帰れば落ち着ける環境があるのならそうすべきだろう。

 ただどうしても圭司が気になるのは、小さな体についた無数の痣だ。街でのトラブルが原因でついたものなら、ハウスに連れて帰れれば手当も受けられるだろう。だが、そのことをどう聞き出せばいいのだろうか。


 答えを見いだせないまま圭司がそんなことを考えている間に、ストーブの前ではケイがウトウトと眠り始めた。圭司はまだ知り合ったばかりの女の子を自分の家に連れて帰るのもためらわれた。

「今日はここのソファで寝かせて、とりあえず明日アミティへ行ってみようと思うんだが」

とステラにそう言うと、彼女も小さく頷いた。

「ステラ、もう帰っていいよ。俺は今日はここに残るから」

「一人で大丈夫? 私も泊まろうか?」

「一晩なら何とか大丈夫だろう。それよりケイの服のこと、何とかなるかな」

「まかせて。小さめの服を手に入れてくる。アミティへは明日何時ごろから行く?」

「バイパスを使うと車で一時間くらいだから、午前中に着くように行くとすると十時ごろでいいんじゃないかな」

「わかった。それまでには届けるようにする」

 そう言って、小さくバイバイと手を振るとステラは帰っていった。


 日頃、休憩室に使っている小さな部屋のストーブの前に座っているケイは、今にも崩れ落ちそうになっていた。圭司は彼女を毛布ごと抱き抱えて近くにある二人掛けのソファに寝かせ、そのすぐ脇に椅子を置いて座り、小さな灯りだけを灯してそのあどけない寝顔を見ながら、この子が言った「十二月一日」のことを考えた。

 確か、誕生日は十二月一日だけど生まれた日じゃないと言った。見た目だと、本当の誕生日と大きく違うことは考えにくい。だとすると、本来の年齢はもう十一歳になっているのかもしれない。日本だと小学五年生だろうか。

 彼女はなぜ誕生日を知らないのだろう。

 なぜストロベリーハウスという施設にいるのだろう。

 アメリカ人だと言いながら、なぜ日本人の名前なんだろう。日系人か?

 なぜ。なぜ。なぜ。そんな単純な疑問が次々に圭司の頭に浮かんでくる。

 そして、ジョシー夫妻は優しいかと聞いたとき、確かに笑ってはいたが、彼女は「大丈夫」と答えた。「優しいよ」とは答えなかったはずだ。

 ――その違いは何だ。


 椅子に背もたれて座っていた圭司もいつの間にか眠っていたらしい。時間はわからないが、近くで物音がした気がして目が覚めた。


 目の前に毛布を肩から掛けたケイが立って圭司を見つめていた。

「どうした。眠れないのか」と小声で聞く。

 彼女は薄灯の中、何も言わない。ごくりと唾を飲み込む音。息を吐く音。

「どうしたんだい?」

 もう一度、できるだけ優しく言う。少し沈黙の間が空いてケイが口を開いた。

「私、明日帰らなきゃいけない?」

 ――消え入りそうな、泣き出しそうな小さな声。

「どうした。帰りたくないのか」

「もし帰らないでいいなら……」

「帰らないでいいなら?」

 圭司が聞き返したそのときだ。ケイは肩から掛けていた毛布をそのままストンと落とした。痩せ細った体にもう何も身につけていなかった。


「女の子はこうすれば一人で生きていけるんだって。あの人たちが怖くてあの街から逃げてきたけど、もし明日アミティに帰らないでいいなら、私は、あなたなら。私は初めてだけど、あなたなら……」

 徐々にさらに声は小さくなって震え、そしてケイは涙を流さずに、だが間違いなくたった十歳の心が泣いていると圭司は感じた。


 全ての疑問が解けた気がした。なぜ街から逃げたのか。なぜ体の痣は何回もつけられたのか。アミティという街で彼女が何を見てきたのか、全てわかってしまった、そう思った。

 単身でアメリカに渡って十年、悔しい思いなどもたくさん経験してきた。だが、歯を食いしばって耐えてきた。だが今夜、圭司はアメリカに来て初めて泣いた。大粒の涙が次々に溢れてくる。

「もういいんだ。もうそんなこと考えなくていいんだよ、ケイ」

 ケイが足元に落とした毛布を拾い上げ、彼女の体に巻きつけてやり、その上からそっと、そのやせ細った体を抱きしめて、圭司は泣き続けた。体から全ての水分がなくなってしまうほどに——


 そんなことがあった朝方、短い夢を見た。

 紗英がじっと見ていた。どんな内容だったのか、紗英が笑っていたのか怒っていたのか圭司はよく覚えていない。夢なんてそんなもんだ。

 目を開けるとソファに座った圭司の肩にもたれたまま、ケイはまだ眠っている。安心したのだろうか、そこにはとても穏やかな十一歳の寝顔があった。


 あれは本心だったのだろうか。そう思いながら、たった十一歳の女の子がそこまで追い詰められていたことを、圭司は言葉にできない衝撃を持って受け止めていた。

 言いようのない怒り。誰に対して怒っていいのか自分でもわからない。だが、圭司は間違いなく怒っていた。それはひょっとしたら、望まずにそういう環境で育ってしまったケイという娘の「思い込み」ということだって可能性がないわけじゃない。ただ少なくとも、そういうことが普通の生活の中にある場所で育ったことだけは間違いないだろう。

 いったい自分は何ができるだろう。この子を今、助けてあげられるのは自分なのだろうか。圭司はそんなことを考えていた。


 ——とにかく、予定通りアミティへ行ってみよう。そこに行けば、この怒りの矛先を何処に向ければいいのかはっきりとわかるかもしれない。

 

 しばらくして朝ご飯を作ろうと圭司が厨房に入っていると、予想より早くステラがきた。ケイが着てきた服に加えて新しい服もあった。十代の頃に着ていた服だという。それでもかなり大きいが、ないよりはずっといい。

「私の朝ごはんも、もちろんあるでしょ」

 ステラは自分は朝から仕事をしてきたんだから、朝ごはんぐらい当然という顔をして、さっさと夕方には賑わうはずの店のテーブルについている。おかげでもう二個ほどの卵と数切れのベーコンを使う必要ができたが、食事は大勢の方が圧倒的に楽しい。圭司は黙って三人分の朝食をテーブルに並べたのだった。

 やっと起きてきたケイは、ステラが持ってきた服に大喜びして自分で服を選んだ。それから圭司の作った朝食に目を輝かせ、美味しそうに頬張った。美味しいかと圭司が聞くと、目をキラキラさせて大きく頷き、

「こんな美味しい朝ごはんなんて生まれて初めて! こんなお料理を作れるなんで、神様の指先でも持ってるとしか思えない!」

と最大級の大袈裟なお世辞を言ってくれた。本来の彼女は、こんなおしゃまな年頃の女の子なのだろうと圭司は思った。

 ステラには昨日あったことは話さないでおこうと決めていた。まだ子供とはいえ、ケイも他人に知られたくない秘密にしておきたいだろう。


「今日は店は休みにしようと思うから、君も休んでくれ」

 圭司がステラにそう言うと、

「何言ってるの。私だってアミティまで出かけるつもりで来たんだから」

と言って譲らなかった。仕方なく3人でアミティの街へ向かうことになった。


 ⌘


 圭司の車はもう20万キロ以上走っているピックアップトラックで、3人で乗るには少々狭かったが、真ん中にケイを乗せて出発した。

 昨日あんなことがあり、ケイはアミティの街へ帰ることに少し躊躇いがあったみたいだが、ずっとそばにいるからと圭司が約束して一緒に行くことにした。圭司としても、ケイがいないと、行ったこともない街で何を探していいのかさえもわからないから、どうしてもケイが必要だったのだ。


「これ、なあに?」

 ケイが物珍しそうに車についている、カセットテープが顔を覗かせているデッキを触っている。

 ——そうか。この子らはもうカセットじゃ音楽を聞かないんだよな。

 こんなところでさりげなく「世代」を感じてしまう。ステラはどうやら子供の頃に見たことがあったみたいだ。

「指で軽く押し込んでごらん」

 圭司がそういうと、ケイは恐る恐る左手の人差し指でカセットを押し込んだ。


 軽快なギターのリズムに乗せて「Stand by me」が車内に流れ始めた。圭司が最初に好きになったアメリカの音楽だった。

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