孫一の天使。
主に作者がキャサリン(仮名)に夢中で前に進まない話。
俺の正義は32分前行動。
ということで、8時2分前に俺はホテルのロビーについていた。
朝からごとごと音を出すのはちょっと気が引けたが、隣と言えど、キャサリン氏の部屋から物音一つしなかった。その当たり、相当に壁が厚く作られている高級ホテル、ということなのだろうか。
実はまた寝てたりするかもしれないしな。
と、上階を仰ぎ見る俺。
「雑賀君、早いんですね!」
天使の声が聞こえて来た。
声がする方を見ると、天使がちょうど外から帰ってきたところだった。
いや、待て、これはこれで、また情報量が多すぎる。
「…あ、えと、走ってきたんですか?」
見たままの感想をそのまま口に出す俺だった。
「はい。すいません、急いで着替えてきますね。」
と、少しすまなそうな笑みを俺に残し、彼女は部屋へ戻って行った。
いやいやいやいや。
金髪碧眼ポニーテールですわよ、奥様。
そして黒のスポーツタイツに濃いグレーの柄が入ったショートパンツ、スリムタイプの白いジャケット。
首回りからチラ見えする黒いインナーに白い肌が惜しげもなく強調されていた。
天使か、あれ。
と言うかもう、キャサリン氏の美しさは心の中で拝ませてもらうとして。
早朝ランニングだ。
この寒い中、早朝ランニングとは、まさに修行。
昨日は何だかんだでまともな運動すら出来ていない。
明日は俺も一緒に走らせてもらうことにしよう、そうだそうしよう。
それにここにはしばらく滞在する訳だし、周辺地図も押さえておきたいところだが、制服の日本人男子高校生がこんなところを一人でウロウロするのは観光客丸出しの上、怪しいもんだ。だが、どうでしょう奥様。スポーツウェアでランニング!ランニングしながら周囲を覚える、これ、まさに一石二鳥。身体も鍛えられてストレスも解消されて悪い事なし。
更に天使に案内なんかしてもらえた暁には、俺得しかありえない訳だ。
よし、俺も明日は、早朝ランニングの仲間に入れてもらおうとするか。
そうだそうしよう。
と、俺が妄想を掻き立ててる間に、支度が終わったのか、キャサリン氏が舞い降りた。
なぁ、これはもう、舞い降りたでいいだろ?
「お待たせしました、行きましょうか。」
「ッハイ。」
俺は彼女に案内されるがままその横を歩く。
もう誰も彼もが分かっているだろうがここは敢えて、俺が呟くことにしよう。
ええ、シャワー浴びたてですわよ、この天使。
半端に乾かした髪は大きなバレッタで留め上げられ、これまた白い首筋がエメラルドグリーンのセーターとまるでヨーロッパの温かい方の海とその砂浜のような絵。エーゲ海だっけか。
そして何より、香り。潮の香りではない。シャンプーだか石鹸だかの香りだ。
当たり前だけど、日本では嗅いだことがない、分かりやすく「シャボン」の香りだった。
そして俺は、猛烈に思い出す。
小姉ちゃんシャボン事件。
何故ここでそれを思い出すのかと言えば、人の記憶って言うのは大体何か別の五感と結び付けられている事が多いから、ってことじゃないかと思う。
これに関しては、ツッキーが良く悩んで居たので、自然と俺も意識するようになってしまった。
アイツの場合は、刺激と一緒に覚えていたはずのことが今記憶していることと違うこと、という、割とシリアスな問題だったんだけども。
で、まぁ、小姉ちゃんシャボン事件については、またあとで語ることにする。
今はそんなことで気分を下げている場合じゃない。
目の前の天使だ。
俺たちは、これまた大きなガラス張りの天窓が付いたドーム状のフロアへ足を踏み入れる。
ビュッフェ式のレストランで二人で朝食、と言う話だ。
俺の、正直数少ない経験の一つ、ビュッフェ式。
自分が食べたいものを食べられるだけ皿に盛り付けるという奴だが、俺はこれが好きだ。
嫌いなものを食べなくて良いという自由度と、誰もが好きなものを選べるという解放感でお気軽に出来上がる笑顔が、何か良いなっていう、あれだ。
とは言え、それぞれのコーナーにコックが立って居るような、仰々しいビュッフェは、俺には経験がないのだけども。
昨晩は誰もいなかったので気付かなかったが、このホテル、外国人が多い。
俺が言うのも何だが、アジア系の客が多いように感じた。
ふむ、確かにこれなら俺が目立つこともないのだろうな、と勝手に腑に落ちていた。
席に座ってからも周りを見回す俺に気を遣ってくれたのか、天使が声を掛けて来た。
「では、行きましょうか!」
ビュッフェは非常に多民族構成されていて、梅干しはないまでも、お粥と海苔に色こそ真っ赤だが、漬物まであった。分かりやすいワッフル、パンケーキやクロワッサンにシリアル、スクランブルエッグ、ハムにゆで卵、そしてお約束の通り牛乳は3種類(普通の、低脂肪に高脂肪)という、見た目は豪華なんだが、失礼な言い方をすれば、いわゆるホテルのビュッフェだった。
流石の広さと品揃え。外国人旅行客が多いと、やっぱりこういう感じになるんだろうなぁと思いながらも、俺の正義は『郷に入っては郷に従え』、である。
極力現地の食べ物を選ぼうと思ったが、グローバル化の波に推し進められたその、ローカルフードのコーナーは意外と少数派のようだった。
小振りに作られたピロシキ、真っ赤なシチュー、あとナスみたいな野菜のスライスにイクラが載ってる奴。そして何故かボイルした蟹。朝から蟹がでるのか、ここは。それと、餃子というかワンタンみたいな「ペリメニ」という奴。餃子と言うのはかなり正解に近いようで、スープか焼きかで食べるらしい。
そうそう、チキンカツもあったが、平べったくはなく、ロールカツになっていて、中に香草バターが仕込んであると言うことだ。
あとは昨晩食べたクレープっぽいアレ、ブリヌイだっけか。それをその場で、おかず風でもデザート風でもお好みのように作ってくれるようだった。
と言う事で、俺たちは軽くビュッフェを3周した。
あーでもないこーでもないと、ソースを変え、焼き方を変え、組み合わせを変え、ノリで3周してしまった。そして今、4周目にしてデザートに手を付けて、コーヒーがテーブルに届いたところだった。
そんな俺たちだから、どうも周囲の視線を集めてしまったらしい。
知らない人たちの視線が刺さる刺さる。
まぁ、仕方がないよな、天使が居るんだもの☆
「雑賀君は、目立ちますからね。」
と俺の視線に気づいたのか、天使が笑って言った。
何時もの俺なら、キャサリンさんが綺麗だからですよ、と間違いなく速攻で返したはずだった。
だが俺は、その不意打ちにも似た言葉に、返事が出来ず。
「俺が?」
と、素で返した。
「自覚がないんですね。」
半ば飽きれ顔の天使。
いやぁ、どんな顔してもお綺麗です。ありがとうございます。
「その身長とそのアジア人離れしてる雰囲気、制服じゃなかったらどこかの王子様か軍属の人に見間違われます。」
「それ、褒め言葉ですよね☆」
多分褒め言葉だろう。
そうじゃないにしても、俺のことをキャサリン氏が語っているなら、褒め言葉として受け取るのが正当だろ?
「アジア系の人って、普通、年齢より若く見えるというか、海外では割と無礼られることが多いです。雑賀君は、そうは見えません。」
歳不相応、と言う奴だろう。
実際、中学からは上に見られることのが多かったし、正直なところ、大人びて見える方が俺も好きだった。
子供扱いされていては、ヒーローは成り立たないしな!
「ごめんなさい、気に障る言い方でしたでしょうか。」
キャサリン氏が飲み掛けのコーヒーをソーサーに戻し、俺を、あのダークグリーンの目で捉える。
「いや、嬉しいですよ!俺、子供に見られるの苦手なんで☆」
と言い放った俺の中で、俺のその大人ぶった影に隠れた過去の傷が開く。
昔、大人になれば何でも何とかなると信じていた。
それは俺にとって、ヒーローになると同義語だった。
そしてそんな俺に、大人でも解決できないものがあること、何時でも大人になることが出来ること、つまりは何時でもヒーローに成れるが解決できない問題があることを教えてくれたのは、サトリン、あいつだ。
俺が殺した俺の親友。
俺のそんな過去の断片が、表情に出てしまってたんだろうか。
いかんいかん、俺は、プリンスを演じなければ。
俺は、ヒーローに、ならなければならない男だ。
「ところでこの後の予定は学校見学でしたっけ、Mon ange?」
俺は決め顔で、キャサリン氏に言い放った。
カナダに飛ばされた時に、アジア系フランス人の、自称某貴族の末裔少年・ノアが教えてくれたことを思い出した。親しくしたい女性には、必ずフランス語で挨拶しろ、と。
兎にも角にも、女性にはフランス語だ。どうせお前の頭では高尚なフランス語を覚えるのは無理だろうからコレだけ覚えとけ、と、捨て台詞のように毎回言われた言葉だった。
半年後に離れる時には、ノアの彼女に『発音は完璧』と涙目で笑われたもんなんだが。
目の前には、頬を赤らめた天使が居た。
「もう、だからって年上を揶揄うのは、やめてください。」
天使が照れていた。いや、えっと、ごちそう様でした?
「じゃぁ、私も、これからは孫一とお呼びします。いいですよね?」
と、返された。
「ハイ、それでお願いします。」
俺は即答して頭を下げた。
後から聞いた話だが、その『Mon ange』というフランス語。
まんま直訳で『俺の天使』、だそうだ。へぇ、そうなんだ。
天使に天使と言うとか、やたら恥ずかしいな、それ。
で、これを会話で使う場合は、ホントに挨拶として使う言葉で間違いないらしいんだが、意味合い的には、親しいところの『あなた』とか『お前』とか、いわゆる愛称になるらしい。あぁ、そうなのか。
親しい間柄に使うお言葉、と。
おい、ノア!結果親しくなれれば問題ナシって言う事かよ!
俺は何年か越しに、ノアの彼女が笑った意味を理解することになった。
そんな訳で、俺の極東ミッションインポッシブルの二日目が始まった。
ピロシキ、ホントに千差万別というか、当たりが少ないというか、日本で「これだ!」っていうピロシキに出会えるチャンスって、あまりないんですよね。
実際のところ、パン屋さんのピロシキ、は正解に近い事も多いのですが、十数年前、新宿一丁目の三越の交差点の近くにあったビルの4階かそこらの中にあったロシア料理のお店で食べたピロシキは、ピロシキだった気がします。