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Double Devotion-オペラ座の怪人-  作者: 野嵜やさい
3/3

ヘリオスの導き


控えめなノック音で目が覚めた。


ベッドに沈んだ身体を起こして目を擦る。眠れるものかと思っていたがいつの間にか眠っていた様だ。周りを見渡し、此処は私の部屋などではない事は分かっていたが未だに悪い夢でありますようにと願っている自分がいて何だか空しく感じた。そんな気持ちのまま家主に会っても良くない。私は頭を軽く振って気持ちを切り替えるようにしてから一緒に借りたガウンを羽織り、扉を開けた。


「おはよう、ええと、遅くてごめんなさい」


「……ああ、おはよう」


やや間があって彼から言葉が返される。部屋を借りた女が寝坊助で怒っているのだろうか。


「と言っても夕方だが。宿探しは…また明日にしたらどうだい」


どうやら眠りすぎた様だ。図々しいくらいに居座っている私がおはよう、なんて言ってしまって気まずさがぐいとせり上がる。


「…いや、でも…ごめんなさい。今日はさすがに…」


「まあ、まだ夜になるには数時間あるか。地上に行くんだね?」


「…はい」


「ならばボートを出さなくては。私も地上に用事がある。上まで案内しよう」


彼は乾かしてくれた服を私に返してくれた。そして買って来てくれたという洋服も。私にとっては仰々しく感じたが、無知な私にもパリらしいと思えた。可愛かった。


「可愛いけれど、此処までしてくれるなんて割に合わないよね」


何しろ私には金がない。この洋服にしろ、寝床にしろ、タダではないのだ。


「……良いんだ、私がこうしたかっただけなのだから」


彼は薄く笑った。最初に会った時は酷く警戒されたが、一晩泊まってからこうも紳士的になれるものなのか。


「いつかお金、返すね」


「いや、そんな必要は…」


「ううん、ちゃんと返すよ。嬉しかったから、ちゃんと返す」


自分に聞かせる様に言うと、彼は不思議そうに私を見ていた。そしてすぐに視線を逸らした。


それからは彼が漕ぐボートに乗り水路を超えた。この距離を超えたと言う自分が薄気味悪く感じる。泳げる人間ですら長い距離なのに泳ぎが得意でもない私が超えるなど感嘆を通りこして気味が悪い。流されたのだろうがよく生きていたものだ。


階段を上がってから私は彼に目隠しをされた。秘密の通路を二度も暴かれては堪らない、だそうだ。


やっと目隠しが外れた頃、彼は酷く優しい目で私を見ていた。よく逃げ出さなかったな、と。

地上まで連れて行ってくれるのだと思ったから逃げ出さずについて行ったのに。そう言うと、よく人に騙されるだろう?と呆れられた。酷い。


「ああ本当だ、昨日見た劇場。本当に地下に有ったんだね」


「…それで君は、宿探しだね?」


「うん、そうだね」


お別れだ。言わずとも分かる。


「本当にありがとう」


「……ああ、此方こそありがとう。こんな私の元に来てくれて、感謝まで伝えられるとは思わなかった」


「嬉しかったからお礼を言っただけだよ」


「…ユニ、」


「うん?」


「私を恐れる気持ちを隠してくれてありがとう。優しい子だ。…何か有ったら、もし私を呼んでくれるなら、また会おう。良いかな?」


「ありがとう、洋服のお礼もしたいから、また会いたいな」


何かを堪える様に笑みを無理矢理作る彼に見送られ、私は夕暮れの街を歩き出した。


そして数時間が経った頃には太陽は沈み、街灯の光が強くなってきた。

しかし、歩いても歩いてもタダで泊めてくれる店なんて有りやしない。いくつかの店には働いて返す、と言ったが品の無い笑みを見て慌てて店から出た。


だめだ、泊まる場所も、お金の当ても、麻爾の事も何一つ解決はしない。


擦れた靴底が恨めしい。足も怠くなってきた、そんな時にふと目に入ったのは白い建物だった。

中からは子ども達が楽しそうに出てきたところだった。中を覗くと天使の像に並んだ長椅子。私は中へと進んでいった。そこはやはり教会だった。


「おや、初めての方かな?」


黒い服に十字架を下げている。神父だろう。穏やかな笑みを張り付けている。


「初めまして」


軽く会釈をして返す。


「神への祈りかな?しかしもう閉めてしまう所だったのだが」


「えっと、いや、違くて…。泊まる宿を探しています。出来れば…後払いの」


「家出か?」


「違う、違います!」


家出ではないが、迷子に近い。

神父は張り付けた笑みを消して怪訝そうに私を見た。


「…無いぞ、後払いの宿なんて。神への祈りすら忘れた者に住まう場所など無い…が、事情くらいは聞いてやれる」


どこまで話せば良いのか、いや、そもそも信じて貰えるか些か不安ではあったがこれまでに起きた事を順に話していった。エリックの事は親切な人が一晩泊めてくれたと伝えた。


「…君の妹は悪魔か何かだったんじゃないのか」


「悪魔?」


「君に成り変わろうとしている様に思える。君の話が夢物語ではないなら、だけれどね」


悪魔、彼女が悪魔?


そんなわけ、有るはずがない。しかし成り変わると言う言葉に違和感を持つ。彼女は園原麻爾なのだ。私に成り代わらずとも良いのではないか。


「まあ、君は今大変に困っている。その状況は変わらない。奥にある薄汚れた寝台でよければ貸そう」


「えっ、本当に?」


「ああ、落ち着くまで使って良い」


「本当にありがとう。何か出来る事が有ったら言って欲しい。雑用くらいなら出来るかもしれないから」


神父は小さく笑んで寝台へと案内してくれた。昼間は教会への奉仕活動、残りは自由に使って良いと言われた。

固いベッド、口には出さないけれどエリックの部屋のソファベッドは柔らかかったと今更感じた。

彼は何者なんだろう。でも優しかった。優しかったから、きっと良い人なんだろう。私にとって良い人だったのだからそれ以上の事を今は考えなくても良い。私は瞼を閉じ、肩の力を抜いた。


###


まだ日が登って間もない時間。昨日とは打って変わって早起きだ。


エリックから貰った服に再び袖を通す。この格好をしていれば周りも何も思わないだろう。


教会に出て、朝早くから聖歌隊の子ども達が集まってきた。練習をするそうで、私は彼らの邪魔にならない様に端で窓拭きを始めた。


嫌でも耳に入る聖歌隊の歌声。楽しそうに、しかし規則に倣った歌い方をする。

同じ形である事を望まれる合唱。楽しい、と言う枠を超えた途端に辛くなる。布の切れ端で窓を拭き、硝子に映る自分の顔が嫌でも目に入った。


自分の目を見ているだけなのに麻爾の目を思い出してしまって堪らない。彼女と私の容姿は似ていない。寧ろ似ている所なんて有るのだろうか、それすら思った。だから私の髪色が年を重ねるごとに茶に変色し始めて嬉しかったくらいだ。なのに、思い出すのは彼女の目、最後に会った彼女の事だ。すぐに分かる、私は彼女の事を恐れ始めていた。好きだったはずなのに、あの言葉にあの目。全て私に向けられたものだった。


「お姉ちゃんは歌、歌わないの?」


聖歌隊に入っている1人の少女がいつの間にか私の傍らにいた。


「お姉ちゃんは教会の人なんでしょう?」


「そんな大層な身分じゃないけど…」


「わたしね、お菓子が貰えるから歌を歌っているのよ」


「お菓子?」


「うん、そうよ、お菓子。聖歌隊で歌って、その後にお菓子が貰える。頑張ったね、って。だから歌うの」


「…歌自体は、好きじゃないの?」


「普通。でもね私、みんなと歌を合わせるのは得意なの」


無邪気に笑う少女は私の腕を取って聖歌隊の中に混ぜ込んだ。私だけ頭が何個分か突き出ている。


「神父様、この人も一緒に歌って良いですか?」


「もちろんだとも、リフの推薦だ。誇らしく歌ってくれ」


神父は楽しそうに笑ったが、私は笑えなかった。


この街に来てから、どうも歌が私の中に入り込んでくる。歌う機会なんて無くて良かったのに、そんな思いを知っているかの様に街は五線譜をちらつかせてくる。


躊躇いはあったが、これはただの遊びだ。そう言い聞かせて私は無理矢理笑顔を作った。


歌はアメイジング・グレイス。


思い浮かんだのがそれくらいしかなかったのだ。

幼い、可愛いらしいソプラノの中に私の声が突き出る。

最初は掠れた声しか出なかったが、だんだんと歌声らしいそれが出てきた。


「ああ…、上手いね。綺麗な歌声だ」


ぱちぱちと疎らな拍手を受け、曖昧に笑ってみせた。先ほど私に声をかけた少女はにこりと笑っていた。


「お姉さん、お歌が上手」


張り付いた笑みに見えたのは私の目玉が濁っているのだろうか。


「…ありがとう」


「それじゃあ、そろそろ休憩にしよう。奥の部屋に──、そうだユニ、君もどうだ?」


「…えっと、私は少し街に出て来ます」


「分かった、気をつけて」


掃除道具を片付けて私は教会を後にした。


街は昨日の夜とは打って変わって賑やかだ。淑やかな女性に逞しい男性。男女とは、人とはこうあるべきだろうと言う形を具現化している様だった。少し息苦しい。


人にぶつからない様に店の通りを抜けていく。働き口も探さなければならない。まさかこんな事になるとは予想もしていなかった。


じわりと汗が額に滲む。

そして私は昨日、エリックと別れた劇場の前まで来て足を止めた。良かった、道は間違えていなかった。

エリックが言うにはこれからファウストの演目を行うと言うし、この見知らぬパリの街で興味をそそられるのはやはりこの劇場だった。少しだけ見たら、通りに戻ろう。


ドアノブに手をかけた時、劇場の関係者らしき人が慌てた様子で駆けてきた。


「君!ダメじゃないか!今はまだ稽古中なんだ。それに、見学なら見学なりに筋を通してもらわないと」


「筋…」


「無理なら帰ってくれ!代役も消えちまって、今大変なんだ!」


手で払いのけられ、私は眉を寄せながらもどうする事も出来なかった。

やはり何も持たない自分では駄目なのだ。私は扉に背を向け、再び歩き出した。その瞬間だった。


ザッ、と馬車が横切る。


鼻の先を掠める距離に思わず身体が強張った。昨日の雨で水溜まりが出来ていた道だ。服に泥が思い切り跳ねた。


「な、何今の?!…ひどい…!」


汚れた服に思わず声を上げる。過ぎ去った馬車を睨みつけると、やがて馬車が戻ってきた。

そして私の前に、今度はえらくゆっくり止まれば中から青年が降りてきた。


「ごめん!…大丈夫かい?実は馬が上手く動いてくれなくて…ああ、これはひどいな」


降りるなり私の服を見て気の毒そうにした。彼の服は街にいる人々とは少し違う。綺麗な毛艶の馬を引き連れて、しかも馬車には他にも連れの人間もいる。青い瞳に光の反射するブロンド。人目を惹く容姿だ。


「服をプレゼントさせてくれ、本当に申し訳なかった。怪我はないかい?」


「ない、けれど…。そこまでしなくて良い、洗ってくれればそれで」


「いいや、それじゃあ気が済まないよ。少し待っていてくれるかい?今用意させるから」


そう言うと彼は隣にいた男性に声をかけたと思えば馬車に乗ってどこかへ向かわせてしまった。


「服を見繕わせたから、それまではこれをかけていてくれるかい?」


高そうなコートを手渡され、肩にかける様に促される。


「汚れちゃう…、ますよ?」


「はは、平気だよ。無いより少しはマシだろう?ところで君はもしかしてオペラ座に入ろうとしていたのかな?」


「オペラ座…、この劇場が、オペラ座」


聞き覚えがある。昨日エリックが言っていた事は本当だった。


「勝手に入ろうとしちゃった。でも昨日の晩は開いていたのに」


「そうなのかい?施錠はしっかりしているはずなのにな」


「え?施錠って…あなた、この劇場の人?」


「残念ながら劇団員ではないんだ。この劇場のパトロン、まあ新しくなったばかりなんだけどね」


「パトロン…、スポンサーみたいな感じ?凄い、劇場の人どころじゃなかったね」


失礼しました、と冗談っぽく一礼すると彼は楽しそうに笑った。


「良いんだ、…君は面白いね。僕の名前はラウル・ド・シャニー。ラウルで良い」


「私の名前はユニ、ソノハラユニ。よろしくね、ラウル」


「ああよろしく、ユニ」


明るい髪に懐っこい笑顔、こんな怪しい私にも笑顔を向けてくれる。上等な服に馬車、彼はパトロン、やはり一般とは言い難い人だった。


「ユニ、稽古中で良ければ見学していかないかい?僕も丁度見にきたところなんだ」


「良いの?私、ここに来たのも最近で、お金も…。住む場所は一応あるけど、…あ!オペラ座に盗みに入ったわけじゃないからね!それは断じて!本当の、本当!」


「はは、は!…ああ、もう君は本当に面白いな。君みたいな女性はなかなかいないよ、疑っていないし、気にしなくて良い。元気で、明るくて、やっぱりなかなかいないよ」


気に障っていないようで安心した。けれど、必死に弁解したのに笑われてしまったのは何だか恥ずかしい。


「さあ入ろう、明るくて煌びやかなオペラ座へ」


私はここへ来て初めて上手く笑えた気がした。


###


ラウルと共にオペラ座に入ると、昨日の晩とはまた違った雰囲気に圧倒された。舞台に近付くにつれてそれは膨らんでいく。豪華絢爛、まさに煌びやかな場所だ。

舞台上にはたくさんの役者であろう人々が稽古をしている。


「あら、ラウル子爵だわ!」


子爵、そう呼ばれた彼は間違いない、隣に並ぶラウルだ。


「子爵?」


「ああ、いや、まあね」


思わず顔を上げて彼を見ると、早くにばれちゃったな、と悪戯っぽく笑った。


「あら?…隣にいるあなた!前に辞めた彼女に声が似ているわ…!」


「えっ」


舞台に上がっている1人の女性が声を上げた途端、疎らだった私に向かう視線が一斉に集まった。


「何言っているの、メグ。声は似ていない、雰囲気よ」


「顔…、そうね、雰囲気だわ」


数々に似ていると言われ、困惑して近くにいたラウルを見上げた。


「確かに、言われてみれば似ている。雰囲気…、ううん、顔かな?」


「誰の事?」


「主演のカルロッタと言う女性がいたんだけどね、オペラ座での出来事で降りてしまったんだ。それで代役を頼んだ娘がいたんだけど…」


「辞めてしまったの?」


「ああ、彼女はもう歌は歌わないと言っていた。本名は知らないけれど、クリスティーヌと呼ばれていたみたいだよ」


「クリスティーヌ?」


「オペラ座で歌姫、って意味。私も彼女の事はよく思い出せないの」


先ほど声をあげた女性だ。


「私はメグよ、メグ・ジリー。このオペラ座でダンサーをやっているの」


「…ダンサー?」


「そう、あなたは?」


「私はソノハラユニ、ユニね」


「ああ、やっぱり声が似ているわ。代役のね、名前は忘れたけれど似ているわね」


そう言えばエリックはコーラスガールに似た名前がいたような、と言っていた。そして彼女たちは顔、雰囲気、歌声、皆が皆言う事がバラバラで信用ならないけれど、どうやら私に似た誰かがいたらしい。


「あなたはもしかして、ラウル子爵の…恋人?」


「ええっ、違う!違う!行きずりの人!」


「これはひどいな、僕は運命かと思ったのに」


「何言ってるの?!違うでしょう、もう…ふふ、本当に違うの。泥を引っ掛けられただけ」


「ああやっぱり、言うと思った!色気も何もなくなってしまうだろう?」


事のいきさつを彼女たちに話すと、安心した様に笑っていた。

しかしこんな娘に対しても楽しい冗談をかけてくれる彼は優しい人だ。


「そうだ、代役を彼女にやってもらうのはどう?もちろん、歌えたらだけど」


ダンサー、役者、大勢の人がいる中、そんな声が聞こえた途端にざわつきが大きくなった。


「そんな、無理よ!いくら子爵のご友人でも…」


「この子は無理でしょう」


「でもこの中でカルロッタの代わりが出来る人はいる?いくら話し合っても決まらないじゃない!」


「また消えてしまうかもしれないわよ!」


「そんな事───」


彼女たちが言い合う中、ステッキが床を叩く音ではっとしたように彼女たちが静まる。


「何の騒ぎです?」


スッと背筋の伸びる毅然とした雰囲気の女性が近付いてくる。


「ママ…じゃなくてジリー先生、ええと、カルロッタの代役について話していたんです」


「今は稽古の時間では?しかもラウル子爵まで。今は公演期間ではありませんよ?」


「ええ、分かっています。けれどどうしても気になって、カルロッタ嬢の代役が見つからないんでしょう?」


「…貴方の耳にまで入っていたとは、これは私達の失態ですわ。ところで、隣の──」


ジリーと呼ばれた女性は私の方を見たと思えば1度、目を大きくしてからまじまじと見つめてくる。


「…どなたです?ラウル子爵のご友人かしら?」


「ええ、僕はそう思っていますよ。ユニと言います」


「初めまして、ユニです。ソノハラ、ユニ」


「ユニ…、…あなたは部外者では?」


「ジリー先生、それで私達は話していたんです。ユニを代役にファウストを行いませんか?どうせカルロッタの代わりは決まりません」


「あなたはまた…、ここはオペラ座よ。子供の発表会じゃないの」


「マダム・ジリー、彼女は似ていませんか?声、顔、雰囲気、皆言う事は揃わないけれど…」


「何の話です?彼女は誰にも似ていないでしょう」


私が話す間もなくどんどんと会話は広げられている。誰かに似ている、似ていないと言う話も気になるがいきなり現れた私がこのオペラ座の代役とまで話されている。


歌なんて、出来ないのに──。


「試しにユニ、歌ってご覧よ。緊張する事はない。ほら、ユニ」


ラウルが促す。こんな場違いな女が歌?馬鹿にされているのだろうか。


歌、歌──…。


“だからどうして、ママの期待も裏切って小さい頃に歌を捨てたの?未練もなく、自分勝手に。”


“歌なんて無くても生きていける、責任も、何も必要のない子供。歌を手放して、未練の一つも有ったら赦してやったのに。”


麻爾の言葉が蘇る。歌を歌わない、歌から逃げた私を非難した言葉。歌に溢れた街、時に来た私。歌えと、街が、時が、麻爾が言っている。


恥知らずの甘ったれ、お前の大して上手くもない歌で失笑でも誘え、と。麻爾の声が聞こえた。


「……ユニ?」


「どんな歌でも良い?」


無理矢理笑顔を作り、有名どころしか知らない私は”ジョスランの子守歌”を歌うと決めた。私には不釣り合いな歌だ。歌に合わず、呑まれるだけ。憂いを帯びた様に歌えない。悲しさ、安堵、そして何より高音が伸びきらないのだ。舞台の上で、周りの目玉が私を見つめる。


ああ、喉が乾く。唾を何度も飲み込んでしまう。


す、と息を吸い込んでこのホールに響かせる様に、今の私に出来る事をすれば─


“なんて言うか、必死過ぎて─”


“点数稼ぎ?ちょっと歌が上手いからって─”


いないはずの同級生の声が聞こえてくる。私の歌声でその場がざわついてくる。どうして今、そんな事を思い出してしまうのだろう。こんなの、こんなんじゃ…!


喉が、声が、詰まる──!


「…っ、…は、ごめんなさい、息継ぎすら下手で…」


一番を歌い上げると、疎らな拍手が返ってきた。顔を見合わせて肩を竦める劇団員たち。恥ずかしい、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。だから歌なんて嫌なんだ、私みたいな半端者がこんな舞台で歌うなんてやっぱりおかしい。馬鹿にされたんだ、やっぱり、こんな場所は私に不釣り合いなのに。


「確かに、綺麗な歌声です。けれど、オペラ座には…。声量、そして技術が足りません。ラウル子爵、あなたのご友人だからといって…」


「綺麗な歌をありがとう、ユニ。マダム・ジリー、ファウストの公演までもう時間も少ない。ユニ、チャンスはあと1回だな」


「えっ、ええ?!」


「近いうちにもう1度、マダム・ジリー、余興の一つだとは思って頂けませんか?なに、数日の間です」


ラウルは何を考えているのだろう。彼を見ても何も答えてはくれなかった。


「…あまり時間は取れませんよ。ファウストのチケットは完売、もし中止になったら…。ユニ、あなたがもう1度歌いに来るまで、代役の選定はこちらで続けます」


有無を言わさない口振りでジリー先生、と呼ばれた女性は言い放った。


選ぶ気はない、と言われている様な気もしたがそれは当たり前の事だ。


ラウルは身を屈めると私の耳元に口を寄せてきた。


「ユニ、君がプリマドンナになったら暮らしやすくもなるだろう。お金だって、少し楽になるさ。それに、君の歌を僕はまた聞きたい」


「ラウル…」


この男…、本気で言っている?


また聞きたい、なんて言う歌声じゃなかったのに。ラウルの言葉には返さず、ジリー先生を見つめた。


「お時間は取らせません。…すぐに戻って来ます。私にもチャンスを下さってありがとうございます」


「……貴女の歌、もっと万全な状態で聞きたいと思っただけです。貴女の存在で荒んだオペラ座も少し落ち着きます、ありがとう」


彼女の言葉、やはり分かったのだろう。私は─


瞬間、劇場の全ての照明が落ちた。


「何?!」


メグの声が聞こえる。しかし何も見えない。こんな暗がりでは…。


「まさか怪人(ファントム)?!」


“ユニ”


騒がしい声が飛び交う中、1つの声だけが栄えた。


耳元で囁く、低く、甘い声だ。


“ユニ、また会えたね”


肌が粟立つ。近くにいる様な、でも周りに気配は無いのだ。


“ユニ、おいで”


舞台上にある大きな鏡、その鏡がぼんやりと淡く光る。


“そう、ユニ…そのまま、良い子だ”


肌がふるりと震えた。思考が弱くなる。


私は導かれる様に淡い光を放つ鏡に近付き、そっと手を伸ばした。周りの声なんて聞こえない。


“ユニ、良い子だね”


伸ばした手が誰かに掴まれる。ぼんやりした意識がはっと浮き上がり、腰を引くも強い力で引っ張られてしまう。その力に逆らえず、私は静かに引き込まれた。


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