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Double Devotion-オペラ座の怪人-  作者: 野嵜やさい
2/3

見知らぬ地獄


ぴしゃ、と頬が濡れた感触にゆっくりと瞳を開けた。ぼんやりする頭と視界の中、私は小さく首を動かして周りを見渡す。

カ、カ、カ、と馬の蹄の音が近い。馬車が横切ったのだ。


馬車が通っている。馬車…?


はっとして立ち上がれば、途端に頭が酷く痛んだ。


「い、痛い…!」


痛みに眉を歪め、ゆっくり息を吐き出してもう一度周りを見渡す。此処は、どこだろう。

改札口へと繋がる階段など無い。あるのは荘厳なネオ・バロック様式風の建築物に時折通る馬車。絵画の中に自分が入ってしまった様で現実味がない景色だった。行き交う人々の服もまるで昔に見たフランスの映画で見掛ける様なそれだ。


「……私はどうしたの?此処は何処?麻爾…、どうして…」


“だったらお前が行け”


麻爾の最後の言葉。あれは、紛れもない憎しみだった。


「…憎まれていた、…憎まれていたの…私が、…は…」


ずるずると脱力し、壁に寄りかかる。どうして麻爾が、あんな目を私に向けるのだろう。だって、今までで1度だってあんな目は見たことがない。大人しくて、少し大人びている私の妹。私の、いもうと。

それに雨が降るこの街は私の知っている場所ではない。

身体を壁に預けると、軋む音が聞こえた。嫌な予感がしたが慌てる気力もなくて私が寄りかかっていたのは壁ではなく扉だったのだと分かった。


体重をかけた扉はそのまま開き、私も倒れ込んだ。

倒れたまま、上を見上げるとそこは雨の降る街はなくなっていた。

高い天井、広い空間。私はだるい身体をゆっくり起こして中へと進んでいった。劇場だった。


大きくて、彩色や備品までも全てが美しい。休演日なのか、人は誰もいないが普段はたくさんの人で溢れかえるのだろう。


雨の街にいた時は地獄だと感じたが、此処は天国だ。

やはり私は死んだのだろうか。

美しい彫刻、華美なシャンデリア。暗闇の中でも分かる。あのガラスは美しい。

私は中央にある舞台へと近付いていった。此処は雨の音がしない。静かに私の足音だけが響く。


誰もいない舞台に上がるとやはり調度品の美しさに目がいく。凄い、やはり此処は、この空間はただの劇場なんかではない。


ふと濡れた髪から雫が落ちるのに気が付いた。いくつもの雫が無遠慮にぽたぽたと床に落ちる。溜まりに視線を落とし、自分の姿がぼんやりと映し出された。


濡れた髪、濡れた服。青ざめて、酷い顔をしている。


そう考えていると、何処からか物音がした気がした。私は周りを見渡し、しかし人影が無いことに少し安堵した。


けれどこのままでもいけない、私は舞台から降りて周りに気を張りながら目に入った奥の扉に向かった。


──足跡。


若干濡れた靴跡がある。誰かが通ったのだ。扉を開け、私は進んでいく。


鍵がかかっている扉は仕方ない、通れる道をとにかく進んでいった。何か目的があるわけでもない。しかし私は足を止めたりはしなかった。今更戻る道が分からないからだ。だったら先に進まなければ良い、でも私には何もない。それではただ時間が過ぎるだけだ。


同じ道を何度もまわって、一つの扉にたどり着いた。一見すると、これは扉ではない。しかし、よく見ると壁に溝がある。隠し扉なのだろうか。この中に何かを隠している、そんな場所に違いない。


「………」


がむしゃらに進んで、知らない劇場で何をしているんだ。冷静に考えたくなくて、だから足を動かしただけ。


私はその扉の小さな窪みに手を差し込んだ。


開いても、開かなくても変わらない。私はもう、手遅れなのだ。そう勢いづけると、ぐっと指先に力が入った。


しかし扉を開けて、麻爾が笑顔で改札口を指差していたら?早く出かけようと急かしていたら?


全部、夢だったら。


夢、夢だ。夢に違いない。私は夢を見ているんだ。此処は天国でも地獄でもない。此処は夢だ。だってそうじゃなきゃおかしい。私は今頃麻爾と出かけているはずなんだから。頭が酷く痛むがそんな痛みは今に消える。だってこれは夢なんだから!


私は扉を勢い良く開けた。


ひゅ、と風が下から強く吹き上げる。目を見開いて見下ろすと目玉が乾いて涙が落ちた。冷たい風は濡れた身体を更に冷えさせていく。


そこは天国でも地獄でも、夢でもない。地下へと続く階段だった。


何なのだ、この劇場は。


夢でもなかった、ただの現実。


吹き上げる風が止み、代わりに吸い込む様に風が私を煽る。


どうせ戻る道も分からない、このまま進んで行き着く所まで行ってみても良いだろう。


しかしこんな地下に何があるのか。綺麗な劇場の地下、何を隠しているのか。


知りもしない劇場なのだから、予想しようもないが好奇心はまだ死んでいないようだった。


壁に手をつきながらゆっくりと階段を降り、私は思わず大きく息を吐き出した。


水路だ。これではボートでもなければ先には進めない。


少し考えてから、私はスカートを捲り上げて水路に片足を入れた。


冷たい、それに底が見つからない。つま先を動かしても感じるのは水の重たさだけ。駄目だ、これでは先に進めない。


だんだんと青白む唇を噛み締め、水面に浮かぶ自分の顔を見つめる。


暗い闇の中、私の顔色の悪さは幾分誤魔化されていた。

もう片足を水路に入れ、全身が底冷えするのを感じた。鳥肌が立つ。

涙がじわりと滲む。分からない。分からないのだ、全てが分からない。

私は一歩足を進め、底のない青に足を取られる。沈んでいく。

分かっていた、分かっていて進んだ。地下は暗くて冷たくて、此処はやはり地獄だ。


###


“お姉ちゃん、お姉ちゃん”


声が微かに聞こえる。


─これは、麻爾だ!


「麻爾!」


はっとして起きあがる。しかし、そこにいたのは麻爾ではなかった。


「…生きていたのか、侵入者め」


目の前には、仮面をつけた1人の男。ステッキを私の首に突きつけ、男は私を睨んだ。


「どうやって此処まで来た?」


「………」


「黙っていれば逃れられると思ったか?!浅はかな女め!」


男は激昂しているが私も分からない。どうして水路を超えてここにたどり着いているのか。服は勿論、びしょ濡れだが一体どうして。


近くには扉が1枚ある。

この部屋を隠し置く為の水路だったのだ。


「…分からない、分からないんです、ごめんなさい」


出てきたのは謝罪の言葉だった。


「……ふざけるな」


「ふざけていない、本当です。いつの間にか劇場の前にいて、確かに勝手に中へ入って地下まで来たけれど…水路は越えていない、はず…」


「……ずぶ濡れだ。泳いで来たのでは無いのか」


「私は泳げない!…あんな深い、…両足を入れた時に今度こそ死ぬのだと…思って…」


何もない。何もないから、両足とも青に沈めた。なのに私は生きている。長い水路を浮かんで辿り着いたのだろうか。信じられない。


「…信じて貰えないだろうけど、私、嘘は吐いていない。そもそも、私はマ…、人に階段から突き落とされて…」


「ならば今生きているお前は何者なんだ」


「分からない、何…なんだろう」


男が溜め息を吐いたのが聞こえた。


「此処は地獄じゃないの?」


「…地獄かもな。さしずめ私は悪魔か死神か」


仮面の男は自嘲して笑っている。

なら何故そんな格好をしているのだろう。外もそうだ、仰々しい服装ばかりで見ていて息が詰まる。


「地獄じゃないなら此処は何処?」


「…パリのオペラ座、…これで満足か」


パリのオペラ座。


この男、ふざけている訳では無さそうだ。そして外の様子。つまり、私は──。


“だったらお前が行け”


麻爾、だ。彼女、私の妹。


麻爾が私を此処へ引きずり込んだのだろうか。そんな事、出来る訳が、しかし此処はパリ・オペラ座。

場所も、そして服装からしても時も違う。私の生きる場所などではない。此処は地獄ではないかもしれないが、天国であるわけがない。


「おい、顔が青白いぞ」


「…私は、此処の人間じゃない?…国も、時間も、私とはかけ離れている!なのに、なのにどうして…」


階段から落ちた、あの時だ。

意識が白むあの時、彼女は確かに言ったのだ。お前が行け、と。

真意までもは分からないが私は今、パリのオペラ座にいる。死ではなく、私が落とされたのは雨に塗れる見知らぬ街。


家族などいない、友人もだ。此処には私と繋がる者が1人として存在しない。その事にぞっとして吐き気までせりあがっていきた。


やがて首に突きつけられたステッキが無くなると、代わりに差し出されたのは手袋越しの手だった。

見上げると、男は私を見つめていた。顔の半分を白い仮面で覆っている、この男。

私は一瞬戸惑うも、差し出された手を取り立ち上がった。

仮面の男は私が気まずく視線を逸らすと、無遠慮に私を見つめてきている気がした。視線を感じる。


いきなり水路から現れた女だから警戒しているのだろうが、私からすればこの男だって恐ろしい。地下に住まう、黒い服を纏った仮面の男。普通じゃない。


「…此処はあなたの家?」


「…そう、だが。多くの罠や水路に阻まれてたどり着ける者なんていないはず。…お前はどうして此処までたどり着いたんだ」


「…地上にいる時は、ひたすら開けられる扉を開いていった。そうしたら地下に繋がる扉を見つけて、水路に足を入れたところまでは覚えている」


「……まるで導かれた様だな。しかし水路を乗り越えようとするとは、死にたかったのか?」


「…どうだろう」


分からない。死にたかったのだろうか。死にたかった、と言うよりは死んでも良かった、かもしれない。家族も友人も穏やかな時も、全てを持っていたはずなのに一瞬にして全てが私の手から離れた。

私は濡れたスカートを両手で絞り、皺を伸ばす様に広げる。


「…戻りますね」


「何?」


「だから、戻ります。このままあなたの家の前にいるわけにもいかないし、とりあえず地上に戻って、それから考えます」


「…その、濡れた格好でか?」


「どうせ外は雨です。雨に濡れたと思われる」


「……当てはあるのか」


「ない、けれど」


「けれど?」


「けれど、大丈夫。…宿を探します」


「もう何処も開いていない。それに金は有るのか?」


ない。あるわけがない。


何も私は持っていないし、目処も当てもない。だけど、だからどうするのだ。“別の国から来ましたお金が有りません、今日泊めて?”そんなのふざけている。


「持っていないんだろう」


仮面の男は呆れた様にまた溜め息を吐いた。


「……信じられないと思うし、私も信じられないけれど。私はパリなんて初めて来たし、きっと出会うべき時もおかしい。……だから、」


「だから、何だ?…何もお前を囲うようにはしないさ。しかし、何故お前の様な娘が此処までたどり着けたのか不思議で仕方無い。それにお前の言う話が本当だとして、地上に出てどうする気だ」


何も言葉が出てこない。

彼の言葉は真っ当だ。私はどうする気、なのだろう。それに、まるで帰り道が思い出せない。どうやって地上に、あの煌びやかな劇場に戻れば良いんだろうか。


「今夜の事を、忘れると誓うのならば、一晩は中に入れてやろう。この時間のパリは身売りが多い。情婦に間違われたいなら地上に戻るのをお勧めするがね」


男はそう言うと扉を開けて中へと入ってしまう。私は思わずドアノブを掴んで待って!と叫んだ。


「……あの、…泊めて欲しい…です」


「…そうか。お前の口が堅い事を期待するよ。私も無闇に女性を傷付けたくはないのでね」


黒いローブを翻し、男は中へと入っていく。私は一度だけ躊躇うも、中へと入った。


「先ずは着替えだな。深い水を超えて、まるで人魚の様なお前には服を用意しなければ。少し待っていなさい」


男は至極当然の様に着替えを見繕い始めた。流石に女性用は無いから我慢しなさい、と向こうから聞こえてきたがそう言った問題ではない。

この部屋は簡素だが、高そうな、細かな装飾が施された物が多い。

人を部屋や物で判断してはいけないが、男は金が有るのだろうと密かに推測した。

そしてオルガン。楽譜も有る、いくつか床に散らばっており、どうやら掃除好きでは無いようだ。しかしこの男は確実に音楽を嗜んでいる。


「……興味が有るのか」


はっとして顔を上げると、男が着替えを片手にオルガンを見つめていた。


「いや、そんな、…気に障ったのならごめんなさい」


「そうではないが」


そう言って着替えを渡され、随分としっかりとした部屋着だと思った。


「迷い込んだのがこんな男の元でさぞかし残念だろうが一晩の辛抱だ」


「…そんな事思っていない」


確かに、地下に住まう仮面の男に安心は出来ないがそれ以前に自分の存在すら靄がかかった様に危ういのだ。それに、一晩ならず着替えまで用意してくれるなんて優しいじゃないか。


もし朝起きて彼が私を亡き者にしていたとしても仕方ない。私は彼以外に頼る術が無いのだから。


「ありがとう、…あの、名前を聞いても良い?」


「私のか?……、…エリックだ」


「エリック、そうなんだ。ありがとう、エリック。私はユニ、ソノハラユニ」


「ユニ?ユニが名前か?」


「そう、だから機会があればユニって呼んで欲しい」


「そうか。ユニ…。そう言えばコーラスガールに似た名前の女性がいたな」


「コーラスガール?ああ、もしかして上の劇場の?」


「そうだ」


彼は、エリックは着替えを私に手渡し、机にある蝋燭に火を灯した。


「凄く大きくて綺麗だった。あんな劇場は初めて見た」


昼間はさぞかし賑わうのだろう。一度見てみたい。


「…オペラは好きなのか」


「うん?…オペラも、ミュージカルも好きだけど。あんな綺麗な劇場で見るならきっと、…もっと好きになるね」


「…そうか」


「普段はどんな演目をしているの?」


「これから“ファウスト”を行う。主演も、代役も居なくなってしまったみたいだが」


「ファウスト、…確かシャルル・グノーの…、名前は聞いた事あるよ。劇場も色々大変なんだね」


着替えを受け取り、肌触りの良いそれをするりと撫でた。蝋燭の火が暖かい。冷え切った身体がじわりと芯を暖める。


「…その、ユニ…は、…」


「うん?」


「歌を歌うのか?」


先ほどのオルガンだろうか。楽譜を見ていたから?

麻爾にも自分勝手に辞めた歌を非難された。今しがた出会ったエリックに歌を歌うのか、と聞かれただけで少し動揺した。麻爾のあの言葉、あれから過去に落とした歌と言うものが再び蠢き始めている気がしてならない。


「…昔に、少しだけ」


歌は楽しいものだ。自分が楽しいと思えるもの。上手上手とちやほやされれば楽しい、だからこそ非難を受けた途端に私は歌を手放した。大した情熱もなかったのだ。自分を守るために捨てた。


「…聞く方が好き」


取り繕う様に苦笑いを零せば、彼はぼんやりと言った様子で私を見ていた。


「ええと、着替えて来るね。改めて、泊めてくれてありがとう」


その後は着替えを済まし、案内された部屋で眠った。

内鍵は一応かけて、立派なソファベッドに身体を預ける。


瞼を閉じれば、突き落とされた時の事が思い返される。確かに痛みを感じた。身体と、心にだ。麻爾はただの、平凡な、可愛い、優しい妹ではなかった。もしこれが夢なら一刻も早く覚めて欲しい。だってこんなのは普通じゃない。お母さん、マニ、あの時間に早く帰りたい。


冷たい頬に熱い涙が流れ落ちた。唇を噛んで嗚咽が漏れないように必死に堪えた。鉄の味がする。


それに彼、エリックだ。異国の地では有るもののあんな仮面を纏った男を私は知らない。しかし彼は親切だ。水路から現れた私を泊めて、あまつさえ着替えまで用意してくれたのだ。だが明日からはどうしようか。麻爾が此処にいるのだろうか。何も分からない。


パリ・オペラ座。


私はこれから何をすれば良いのだろう。何を見て、生きれば良いんだ。


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