03.終わったはずの恋
絡めるように握られる指が好きだった。嬉しい時、触れ合う額の温度が心地よかった。愛しげに細められる瞳の黒が好きだった。時折陰る、寂しい背中を、抱きしめてあげたかった。
今でも鮮明に覚えている、君の記憶。
「うわっほ!?」
いきなり背中に勢いよくぶつかった衝撃とお腹に回された手に、優くんが変な声を上げる。その声に、抱きしめた温度に、私は安堵の息を吐く。背中に埋めた鼻で胸一杯に、優くんの匂いを嗅ぐ。
「陽彩?」
呼ばれる名に、安堵する。彼の全てに、心を支配していた焦燥が、不安が安らいでいく。
「陽彩?」
「優くん。・・・優くん。」
「うん?」
何度も名前を呼んだ。その度に、彼は律儀に返事をくれた。
「なに?」
「どうしたの?」
「俺は、ここにいるよ?」
ぽんぽん、とお腹に回された私の手を叩きながら、翔ちゃんの優しい声に次第に力が抜けていく。そしてゆるゆると優くんの拘束を解くと、振り返った彼が優しく微笑んでくれた。
「落ち着いた?」
こくり。頷く私の頭を翔ちゃんが優しく撫でてくれる。
「おい、優!見せつけんじゃねえよ!」
「そーだ、そーだ!嫌味か、この野郎!」
優くんの友達の声で、私は我に返り、ざっと、勢いよく優くんから離れた。自分に一杯一杯で、優くんを見つけた瞬間、彼に抱きついてしまったが、ここには優くんの友達がいたのだ。穴があったら入りたいとはこの事だ。
羞恥にふるふる震えて俯いていると、ぐい、と手を引かれた。
「え!?」
「じゃあ、俺先に戻るから~。」
「優ー!お前後で覚悟しとけよー!」
「えぇ!?」
そして、優くんに手を引かれるがままに、私はその場を後にしていた。強く握られた手。ずんずん進んで行く優くんに不安を覚える。
人気の少ない昇降口前。足を止めた優くんが心配そうに振り返った。
「何かあった?」
「・・・・・・何だか無性に寂しくなったの。ただ、それだけなの。」
弱々しく微笑めば、優くんが私の腕を引いて、強く、強く抱きしめてくれた。大きくて広い、その胸に顔を埋めて、私は瞳を閉じる。
違う。私は、怖くなったのだ。急速に頭を巡った記憶が、引き戻されてしまいそうな心が。怖くて、逃げ出したくて、優くんを求めた。
私を引き留めて、離さないで、何処にも行けないように、繋ぎ止めて。
縋るように、優くんの背中に回した手に力を込めれば、優くんが私を抱く力も強まった。
私を暖めてくれる、愛しい温もり。私に、恋することをもう一度教えてくれた、大好きな人。
夕暮れの駅のホーム。ベンチに座って目を閉じている彼がいた。
宇藤颯希先輩。私の一つ上で、中学の先輩で・・・、初めて、好きなった人だった。
眠っているのだろうか、と一歩近づく。昼間は驚きのあまり、背を向けて逃げ出してしまったその人の顔を覗き込む。憎らしいぐらい整った顔。すっと伸びた長い睫。きっと女の私なんかより、ずっと綺麗な寝顔をしている。
「そんなにじっと見つめられると目が開けづらいんだけど。」
目の前から聞こえた声に、私は飛び退くように彼から離れた。そんな私の様子に、瞳を開けた彼が、くすくすと笑い出す。
「相変わらず、行動が突飛だね、ヒロは。」
柔らかく細められる瞳に、胸がぎゅっと締め付けられる。低く通るその声で、彼だけの私の名を呼ばれるだけで、目頭が熱くなる。
「どう、して、うちの高校にいるんですか?」
わざわざ、あなたがいない高校に変えたのに。使いたくない電車で通う高校を選んだのに。どうしてあなたは此処にいるの?
「秘密だよ。教えてあげない。」
寂しげに笑う彼に、変わらない、と思う。何一つ私には教えてくれない。思っている事も、何があったのかも、何一つ。
「大丈夫だよ、ヒロ。」
「え?」
「お前のいる学校に来てしまった事は想定外だったけど、俺はお前に関わり合うつもりは一切ない。」
心臓を、切り裂かれたのかと思った。向けられた瞳は笑っているのに、冷たい色をしたそれに、心が悲鳴を上げる。
「お前と俺は、ただの先輩と後輩。それ以上でも、それ以下でもない。」
淡々と紡がれる言葉に、私は何も返せずにいた。
言われなくたって、こっちだって関わるのは願い下げだ、とか。先輩と後輩以上の関係なんて、自分たちにはなかったじゃないか、とか。言いたいことは沢山あった。冷たくあしらってしまえたらどんなにすっきりしたか。どんなに楽だったか。
だけど何一つ、言葉が出てこない。こみ上げる何かを押さえつける事で必死だった。
「大丈夫。あっという間にまたさよならだ。」
微笑んで、私の頭を優しく撫で、彼は行ってしまった。残された私の瞳から、耐えていたものが溢れ出す。
これが何の涙なのかわからない。言われた言葉に傷ついた?冷たい瞳が悲しかった?離れていった彼にほっとした?
わからない。わからないけれど、溢れる涙が止まらない。
終わったはずの恋が、私の心を揺り動かす。