(幕間1)越えられないエベレストの壁
心配は尽きないが、こう見えて俺は、一週間ほど前から工場勤務という仕事に就いている。
仕事内容を一切選ばず、ネットで「あそこはブラック」という噂のいつも募集してる工場に面接に行ったら、即決で決まったのだ。
昨日はローテーションから抜けてて休みだったが、今日はばっちり出勤日だった。
そこで、いつも通りユメに朝食を作ってやってから、「カラムーチョは俺が帰るまでに二袋まで!」と厳重に言い置き、ユメの見送りを受けて玄関に立った。
「パパ、気をつけていってきてねぇ」
スニーカーを履いてる俺に、ユメが後ろから抱きつく。
「いや、俺よりおまえだよ」
振り向いて、俺はユメの頭を撫でてやった。
「何かあったら、遠慮なしにすぐに工場に電話するんだぞ。そのために、わざわざ固定電話つけたんだし」
「うんうんっ」
そう言うと、ユメは後ろ手に両手を組み、心持ち顔を上げて、何かを待つような姿勢をとった。
「……なに?」
「いってきますのキスぅ」
「ば、馬鹿っ」
コツンとユメの頭を小さく叩き、俺は慌てて玄関から外に出た。
エレベーターに乗る前に、一応、階段の辺りも入念にチェックしておく。……まあ、下の九階フロアを上から覗いただけだが。
昨日は妙な奴がいたから、警戒しとかんとな……つっても、ありゃ引っ越し希望者かなんかだと思うんだけど。
特に問題がなかったので、俺はそのまま上がってきたエレベーターに乗り、今度こそ仕事に出かけた。
問題の男が十階の階段を少し降りて九階を覗き込んだので、私は慌てて仲間を促し、さらに下の八階まで急いで階段を下りた。
幸い、ひょろっとしたあいつは、それ以上のことはせず、自分が呼んだエレベーターに乗って一階へと去った。
それでも私は用心深く、エレベーターが一階に留まったままなのを確認する。なにしろ、昨日の朝、早速あいつと出くわすミスを犯したばかりだ。
ようやく「もう戻らないだろう」と確信したので、私の背後でぞろぞろ待機する八名を振り向き、頷いてやる。
「では、今度こそ行くぞ」
「ははっ」
恭しく低頭した皆を引き連れ、私は再び階段を上って十階へ辿り着いた。
最後にもう一度エレベーターに動きがないのを確かめ、ワンフロアを占有した十階のドアを拳で叩く。
……叩く、叩く……全く反応がないので、今度は両手の拳で連打してみた。
するとようやく「いんたーふぉん」とやらに雑音が入り、あのお方の声がした。
「初たいめんの時、ちゃんと入り方を教えてあげたじゃない、ばかぁっ。もうカエレ!!」
憤慨する声がして、ぶちっと回線が切れた。
「えっ」
「あの……アドマイラー様」
背後で我が役職名を呼び、配下の一人が遠慮がちに教えてくれた。
「短く三回叩き、その後で大きく一回叩く――というか、ノックですか? とにかくそれをせよとの仰せだったのでは? 暗号だそうで」
「む……そうだったな。そう決められたか」
私は顔をしかめ、言われた通りに三回連打してから、最後に大きく拳で叩いた。いや、ノックというのか……どうでもいいが。
やり直すとようやくドアが開き、朝から超機嫌が悪そうな我らが支配者が顔を覗かせた。
「我らが神、我らが創造主よ……ご機嫌麗しく」
九名全員が跪いて深々と頭を垂れる。
しかしいつまで経ってもお声がけがなく、やむなく顔を上げると、あのお方はとうに奥へ入った後だった。
「クツはぬいで、どこか見えないとこにかくしてから、入って」
素っ気ない声が聞こえ、我らは慌てて言われた通りに、非常階段の下を方へ靴を隠してきた。
ようやくリビングまで上がると、あのお方――つまり我らが主人は、既にソファーに座って足をぶらぶらさせていらっしゃった。なぜかその隣には、おもちゃのホワイトボードが置いてある。
あとは、ご自分のお膝元に駄菓子の袋を抱えていて、手で中身を摘ままれたが――
途中「あ、やっちゃったぁ」とふいに叫び、私を呼んだ。
「レイモン、ちょっと」
「はっ」
跪きかけていた私は、慌てて長いマントを捌き、我が王の下へ駆け付ける。しかし、あのお方は単に私のマントで手を拭いただけだった。
わ、我がマントに油汚れがっ。
「もうもどっていいの――あ~ん、おはしっおはしっ」
叫びながらキッチンの方へ消えたかと思うと、今度は割り箸を取ってきて戻ってきた。手で摘まむ代わりにその箸で駄菓子を摘まみ、パクパク食べ始めてしまう。
……要するに、手が汚れるのがお嫌らしかった。
この分では、いつまでも話が始まりそうにない。
やむなく、私は咳払いなどしてこちらから口火を切った。
「我らが王、我らが創造主、ヴァレンティーヌ様。この私は、貴女の右腕たるアドマイラーとして、進言したきことが」
「おまえは、アドマイラーじゃない」
いきなり遮られてしまった……これまた、超不機嫌な口調で。
「レイモンが本名だし、他の呼び方はだめ。もちろん、ユメもユメ以外の名前で呼んじゃだめ。これはパパがつけてくれたよい名前なんだからっ」
「は……しかし、私の本名は実はレイモンブリューフィールドですし、我が王もかつては」
「なにもわかってないの、レイモンは。いいから、その呼び名は忘れて。それと、昨日みたいに工場の休日を忘れて、ユメのあいするパパをびっくりさせるのもだめっ。いい、わかった!?」
「……はっ」
剣幕に驚き、仕方なく私が頭を下げると、ヴァレンティーヌ様――もとい、ユメ様は隣に置いてあったホワイトボードを手にして、マジックで大きく以下のように書き、ぱっと胸元で立てて見せた。
○いつもわすれずにいるべきこと、その1なの○
パパ>>ユメ>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>
(越えられない、おっきなエベレストのかべ)
>>>>>>>>>>>>>>>>>レイモン>>>>>その他おまえたち
>>>>あとのザコ!
○ここまでなの○
「ユメの闇のぐんだんでは、今げんざい、ゆーせんじゅんいはこうなってます。いいですかぁ? ユメはもちろんだけど、おまえたちは、なによりユメのあいするパパを大事にしなきゃいけません。わかった!?」
舌っ足らずの口調で捲し立てられた。
幼女が書いたようなのたくった字はこの際置くとして、我らは言葉を失い、そっと顔を見合わせた。
まだお会いして二度目だが……我らが王は、かなり以前とは変わられてしまったようだ。
……あと、不覚にも私の優先順位の低さに泣けてきた。