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「まさかユキちゃんじゃ、ないわよねぇ?」
パートのおばさんに呼び止められ、いきなりそんなことを聞かれたのは、月曜日の昼だった。
「は? なんのことですか?」
「あらぁ、ユキちゃんはやっぱり知らないんだ」
おばさんはちょっとワクワクした表情で、一応周りを見回して、そばに誰もいないことを確認すると、幸也の耳元にささやいた。
「できてるらしいのよ」
「だから、なにが?」
「梨花ちゃんのお腹に赤ちゃんが。今三か月だって。病院で調べたそうだから、たぶん確実。最近あの子顔色悪かったでしょ? あたしはもしかしたらって、ずっと思ってたんだよねぇ」
一気に話しかける、おばさんの言葉が理解できない。赤ちゃん? 三か月って? 何を言ってるんだろう、この人は。
「だからね、まさかユキちゃんの子供じゃないわよねって聞いてるの」
「ちょっ、ちょっと待って! ゆっくり考えさせて!」
おばさんから逃げるようにその場を離れ、建物の裏で息を整える。
落ち着け。落ち着いて考えろ。三か月……三か月前ってことは、梨花とまだ付き合ってた頃だよな?
さあっと、血の気が引いていくのがわかる。
でも待てよ。あの頃、梨花は自分以外の男とも付き合ってた。そいつとも関係を持っていたとしたら……。
「幸也ー! 出かけるぞ!」
先輩社員の声が聞こえる。適当に返事をしながら、まだ昼を食べていなかったことに気づく。
あのおばさんにつかまったからだ。だいたいあんなおばさんの情報なんか、当てになるもんか。
直接梨花に聞くしかない。でもなんて? 子供ができたんですか? それはぼくの子ですか? なんて、聞けるわけねーだろ!
「幸也? お前なんかあった?」
「なんでもないです」
これは罰だ。今までいい加減に生きてきた罰が当たったんだ。
給湯室で聞いた、切ない梨花の声が頭に浮かぶ。それと同時に、なぜだか千桜の、無理に微笑んだような笑顔も浮かんで消えた。
梨花の仕事が終わるのを外で待った。パートのおばさんはもう帰った後だから、噂される心配はない。
「梨花っ」
制服から私服に着替え、自分の車で帰ろうとした梨花に声をかける。梨花は驚いたように振り返ったあと、車のドアを開き、中へ乗り込もうとする。
「梨花! ちょっと待てって」
「なによ? あたしはあんたに話すことなんてないの!」
「おれはある」
梨花がキッと睨むように幸也を見た。一瞬ひるんだけれど、ここで逃げるわけにはいかない。
「あの、さ」
出てきた声が急に細くなって、自分がものすごく情けなくなる。ああ、どうしていつもこうなんだろう。
「なに?」
「いや、あの」
「もうなんなのよ。はっきり言ってよ!」
「じゃあ、はっきり言うけど」
梨花がじっと自分を見ている。だけどその唇は、ほんの少しだけ震えている。
「妊娠してるって、ほんと?」
梨花の瞳がかすかに動く。けれどすぐにいつものように、首を少し傾け、あきれたようなため息を吐いた。
「あんたって、ほんとバカ。普通そういうこと、元カノに向かって、単刀直入に聞くかな?」
「だったら、なんて聞けばよかったんだよ」
梨花が幸也の前でふっと笑った。こんな梨花の顔、久しぶりに見た気がする。
「ほんとだよ。三か月。でもあんたの子じゃないから」
梨花の声が薄暗い闇に浮かぶ。
「じゃあ、あいつの……」
「それも違う」
「は? なんだよ、それ。結局わかんないんだろ? どっちの子か!」
思わず叫んでしまった幸也の前で、梨花がぎゅっと唇をかむ。
「そうだよ……」
梨花の声は震えていた。
「わかんないから、こんなに悩んでるんじゃん!」
暗闇の中で顔を背けた梨花の表情が、どんなだったかよくわからない。
「あたしが悪いんでしょ! 幸也と付き合いながら、あの人ともそういうことしてたんだから! だからあたしが悪いの! 全部あたしが……あたしが、悪いんだから……」
「梨花……」
泣き出すのかと思った梨花は、幸也に振り返ることのないまま、車の中へ乗り込んだ。ドアを思い切り閉められそうだったから、幸也はあわててそれを止めた。
「ちょっ、待て! 梨花っ……ごめん」
「なに謝ってんのよ! あんたの子かわからないって言ってるでしょ!」
「でも……ずっとひとりで悩んでたんだろ?」
うつむいた梨花は一瞬黙り込んだ後、車のキーを回してエンジンをかけた。
「……幸也は、心配しなくていいから」
駐車場に響くエンジンの音にまぎれ、梨花のつぶやくような声が聞こえる。
「そんなわけにはいかないよ」
「いいの。あたしがなんとかする。幸也は心配しないで」
すっと顔を上げた梨花は、いつもの強気な視線で幸也を見た。
「お父さんはこのこと知らないの。だから黙ってて。それだけはお願い」
そう言い残すと、梨花はアクセルを踏み込んだ。
走り出す車を、幸也はひとりで見送った。
空はすっかり暗くなっていて、折れそうに細い三日月が、低い空に浮かんでいた。




