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「梨花が彼氏と別れたらしい」

 幸也がそれを聞いたのは、現場から事務所へ戻る車の中、助手席に座った所長の口からだった。

「は?」

「だから、梨花が別れたらしい」

「ど、どうしてですか?」

「理由は知らん」

 表情を変えないまま、所長は黙ってフロントガラスを見つめている。

「だからって、おれにどうしろと……」

「べつに。ただの世間話だ。気にするな」

「はぁ……」

 気にするなって言ったって、気になるだろう? そんなことを言われたら。

 幸也はため息を吐きながら、ハンドルを切る。外はもう薄暗くなっていた。


 幸也が梨花と付き合っていたことは、所長も知っていた。

 それを知られた時は「うちの一人娘に手を出しやがって」と、怒鳴られるのを覚悟したけど、そんなことはなかった。

 ただそれ以来、他の社員より仕事上で怒られる回数が、急増したように思えたけれど。


 車から降りて事務所へ入る。パートのおばさんはもう帰った後で、梨花だけがぽつんと自分の机に座っていた。

「梨花」

 幸也の声に梨花が顔を上げる。さりげなく薬指を確認すると、そこにあの指輪は光っていなかった。

「お客さんが来たから、応接室にお茶持って来てって。所長が」

「ああ、うん」

 梨花がのろのろと立ち上がり、給湯室へ向かう。幸也は黙って、そんな梨花の背中を見送る。


 梨花とはおにぎりをもらった夕暮れから、ほとんどしゃべっていなかった。

 どちらかというと、梨花のほうが幸也を避けているように思えた。

「まぁ、どうでもいいか」

 梨花が男と付き合おうと別れようと、幸也にはもう関係ない。フラれたのはこっちなんだから。

 自分自身に言い聞かせるように心の中で唱え、事務所を出ようと背中を向ける。その時、給湯室のほうから、何かが倒れる音が聞こえた。


「梨花?」

 慌てて駆け付けた幸也の前に梨花が倒れていた。苦しそうに顔を歪めながら、なんとか起き上がろうとしている。

「だ、大丈夫か?」

「ごめん。お湯呑み、割っちゃった」

 梨花は気まずそうに幸也に笑いかけると、膝をついて割れた湯呑みを片づけ始めた。

「いいよ。おれがやるから」

「大丈夫。あたしが割ったんだから、あたしが片づける」

 梨花に手を払われ、幸也は少し気分が悪くなった。

「なんだよ。人が心配してやってんのに」

「べつにあんたに心配してもらわなくてもいいもん」

「は、そうですか。だったら勝手にしろ」

 立ち上がって梨花を見下ろす。梨花は床を這うようにして、割れ物をひとつずつ拾っている。あきらかに顔色が悪いくせに……強情なのは、付き合っている頃から変わらない。


 幸也はもう一度しゃがみこみ、梨花よりも素早く割れ物をかき集めた。梨花はそんな様子を、ぼうぜんと見ている。

「幸也……」

「いいからお前はもう帰れ。あとはおれがやる」

 あたたかいお茶を淹れ直し、それをお盆にのせる。梨花は今度は口答えをせず、ゆっくりと幸也の後ろに立ち上がった。

「幸也」

「なんだよ」

 早く持って行かないと、そろそろ所長がキレる。

「あたし、彼と別れたの」

 背中の声は、いつも強気な梨花の声とは思えないほど、か細かった。

「知ってる。所長に聞いた。なんで別れちゃったんだよ。幸せな結婚、したかったんじゃねぇの?」

 少し嫌味まじりにつぶやいて、後ろを振り返ると、梨花はうつむいたままぽつりと言った。

「幸也には……関係ない」

「だよな」

 梨花を残してお茶を運ぶ。もしかして泣いているのかも、と思ったけれど、振り返ることはしなかった。

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