17
梨花と別れて今度はひとりで坂道を下った。
空は青く晴れ渡り、一羽の鳥がすうっと頭の上を横切っていく。
「あ……」
その時幸也はふと立ち止まった。
目の前に映る風景を、瞬きもせずじっと見つめる。
その場所からはちょうど、幸也の住む町が見渡せた。
丘の上から見下ろす住みにくい町は、今、桜色に染まっていた。
「すっげぇ……」
それは初めて見る光景だった。公園の桜も川沿いの桜も、見上げることはあったけど、こんなふうに全体を見下ろしたのは初めてだった。
「……これかぁ」
そうだ。きっとこれだ。
千桜の生まれた日。きっとこんなふうに、桜が町中を彩っていたんだ。
「千桜……」
千桜に、この景色を見せてあげたいと思う。千桜と一緒に、ここで並んで見たいと思う。
千桜はなんて言うだろう。きっと何も言わないで、静かに幸也に微笑みかけてくれるんだろう。
幸也は黙って目を閉じた。
この光景を忘れないようにしよう。絵に描いて残すことなんてできないけれど、胸の奥に大事にしまって、絶対忘れないようにしよう。
いつかまた――千桜と会えるその日まで。
公園のベンチにひとりで座って、スケッチブックを開いた。
満開の桜の下では、何組かの親子連れが遊んでいて、年老いた夫婦が寄り添うように、桜を眺めていた。
千桜の描いた絵を、幸也はもう一度、一枚一枚見返してみる。
繊細で、淡い色がうっすら塗られた風景画は、千桜の存在となんだか似ている。
千桜は、今どこにいるんだろう。何をしているんだろう。
泣いていなければいいな。苦しんでいなければいいな。幸せでいてくれたらいいな。
最後の朝に描かれた、雪の景色を見てから、幸也は真っ白な紙をぱらぱらとめくった。そして一番終わりのページに書かれた、いくつかの文字に気が付いた。
「え……」
どうして今まで気付かなかったんだろう。幸也は目を開いて、じっとその一枚を見つめる。
そこには細い鉛筆で、でもはっきりと、千桜の文字が書かれていた。
――幸也。幸せになろうね。
すうっと息を吸い込んで、桜の合間の空を見上げる。
そうだな……そうだよな、千桜。幸せに、ならなくちゃな。
パタンとスケッチブックを閉じて立ち上がる。
公園を抜ける幸也の上から、桜の花びらがひとひら、千桜と見上げた雪のように舞い落ちてきた。




