14
「雪……降ってきたね」
薄暗い部屋の中、千桜は少し開いた窓から外を眺めていた。
幸也は黙ってそのそばに立つと、千桜の横顔をただ見つめた。
静かな夜だった。雪が窓の外を、音もなく降り続いていた。
「梨花ちゃん、帰った?」
「うん」
千桜が幸也を見て、かすかに微笑む。窓の外の街灯の灯りが、千桜の姿を儚げに照らす。
「あたし、梨花ちゃんには感謝してるの。梨花ちゃんのおかげで、いろいろ思い出すことができたから」
胸にぎゅっと痛みが走る。その先に続く言葉を、幸也は聞くのが怖かった。
千桜はそんな幸也から目をそらすと、また窓の外を見た。そして何度もキスをしたその唇で、ゆっくりと言葉を紡ぎ始めた。
「こんな雪が降った夜、まだ小さかったあたしは、ひとりで留守番していたの。いつもはお母さんの習い事に一緒について行ってたんだけど、その日は風邪気味で家にいたの」
千桜の視線は雪を見ていた。次第に白さを増してゆく、今夜の雪だけを見ていた。
「そしたらね、知らないお兄さんが家に入ってきて、あたしびっくりして……でもその人もすごく驚いてた。あたしがいるとは思わなかったみたい。それでその人は震える声で『金を出せ』みたいなことを言ったの」
ああ、そうか。やっぱりそうなんだ。
幸也は力が抜けたようにその場に膝をついた。いつだって頭の隅に、ひっかき傷のように残っていた、あの夜の事件のことだ。
「あたしは怖くて、自分のお財布から千円札を出してその人に渡した。そうしたらその人、気が抜けたみたいに座り込んで、泣きそうな顔であたしに笑いかけたの。あたしその時思った。なんだこの人、悪い人じゃないんだって……そう思ったら怖くなくなって、あたしその人といろんな話をした」
千桜が空に向かって微笑んだ。小さかった頃の千桜も、こんなふうに笑っていたのかもしれない。
「その人にはね、あたしと同じくらいの子供がいたの。今日はその子の誕生日だから、何か買ってあげたいって、それでお金が欲しかったって」
「千桜……」
床に目を落としてつぶやく。
「もういいよ……」
「ううん。幸也くんにも聞いて欲しいの」
千桜がこちらを振り向いた。顔を上げることができない幸也に向かって、千桜は続けて口を開く。
「あたしその子の名前を聞いたの。『ユキヤ』って名前だって言った。その子の生まれた日に、雪がたくさん降っていたから……それがすごく綺麗だったから、『ユキヤ』って名前にしたんだって」
「もう……いいから!」
耐え切れなくなって、握りしめた右手で床を叩いた。
聞きたくない。そんな話は聞きたくない。
「幸也くん……ごめんね?」
うずくまった幸也の背中に千桜の声が降る。
「あたしがそんなこと聞いてたから、その人お父さんに見つかっちゃって……何も悪いことしてないのに……ごめんね」
「違うだろ!」
顔を上げて千桜に叫んだ。
「悪いのはそいつだよ! どんな理由があったって、そんなことしていいわけがないだろ! そいつは悪いやつだったんだよ!」
「幸也くん……」
幼い頃、雪の降る中、坂道を駆け上がっていった。帰りが遅い父親のことを心配して、いつも働いている場所にまだいるんじゃないかって思って。
だけど目の前に見えたのは、警官に連れられてパトカーに乗り込む、情けない父親の姿だった。
「あたしね、思うんだ」
千桜の声が暗闇に浮かぶ。
「この世の中には、良いか悪いかのふたつだけで、決められないこともあるんじゃないかって……」
「そんなの……」
言い返そうとしたけど言葉が出ない。そんな幸也に向かって千桜が言う。
「あたし、きっとあの頃、寂しかったんだと思う。どんなに裕福でも、お父さんとお母さんは毎日忙しそうだったし……あたしはいつもひとりぼっちで……」
窓辺から立ち上がった千桜が、そっと幸也のそばへ寄り添う。
「あたしね、そのお兄さんに話したの。あたしの名前は千桜って言うの。あたしが生まれた日に、町中で桜が満開だったから。そしたらその人あたしに言ってくれた。とっても綺麗な名前だねって」
窓の外には雪が降り続いていた。静かに伸びた千桜の手は、そっと幸也の背中に触れた。
「ずっと……気になってた。あの人、どうしてるかなって。あの人の子供は……ユキヤくんは、幸せにしているのかなって」
ゆっくりと顔を向け、目の前にいる千桜を見る。千桜は穏やかに微笑んで、幸也に向かってつぶやく。
「思い出せてよかった。あたしの大事な思い出だったから……」
「……バカ」
そう声に出した途端、何かから解放されたように、気持ちが楽になってきた。
「幸也くんの……お父さんは?」
千桜の声を振り切るように立ち上がる。
「あー、もう! こんなことって、本当にあるのかよ!」
普段開けない押入れを開け、奥のほうから黒いリュックを取り出す。幸也の父親がずっと使っていたものだ。
「親父はもういない。ずっと離れて暮らしてたんだけど、一昨年急に連絡が来て……何年ぶりかに会ったあの人は、病院のベッドにいた。もう治らない病気だった」
畳に座り込んでいる千桜が、黙って幸也のことを見上げている。幸也はそんな千桜の前に、リュックの中から取り出した、一通の封筒を差し出す。
「これ、親父から。遺言みたいなもん」
「え?」
「もしもあの女の子に会うことがあったら、これを返して欲しいって」
千桜が手を差し出し、封筒を受け取る。静かに中を開くと、そこには一枚の千円札が入っていた。
「親父もずっと想ってたんだと思う。最期の最期まで、それを大事に持ってたんだから」
千桜はお金を封筒にしまうと、ぎゅっと愛しそうに胸に抱きしめた。
「ありがとう……今まで忘れてて、ごめんね……」
幸也はそんな千桜から目をそらすと、窓の外を眺めながらつぶやいた。
「なんにも欲しくなかったのに。そばにいてくれれば、それだけでよかったのに……バカな男だよ、ほんと」
坂道を駆け上がったあの日、哀しそうな目をして雪の中に立っていた、小さな女の子の姿を思い出した。




