12
仕事が終わって家へ帰る頃、さらさらとした冷たい小雨が降っていた。
なんとなく食欲がなくて、幸也は千桜の分の弁当だけコンビニで買い、雨に濡れながら急ぎ足でアパートへ帰る。
「ただいま……」
うつむきがちにドアを開けると、中からやけに明るい声が響いてきた。
「おっかえりー! 幸也!」
「り、梨花?」
目の前の畳に、どうしてだか梨花が座っている。
「お前、なんでここに?」
「誕生日おめでとー! 幸也!」
梨花が、見慣れないグラスに入ったワインを高く上げる。
誕生日? ああ、そういえば今日は二十二歳の誕生日だったっけ。
だけど今、そんなことはどうでもいい。
「梨花、お前っ、酒飲んでんのか!」
「いいじゃん、いいじゃん。今日は幸也の生まれた日でしょー? 千桜ちゃんとも仲良くなったしねー」
酔ってる、こいつ、完全に。酒なんて、めっちゃ弱いくせに。
畳の上に転がっている、空になったボトルを眺めて、幸也はため息を吐いた。
そして、梨花のそばでおとなしく座っている千桜を見る。千桜は小さく乾杯というようにワイングラスを上げて、幸也に微笑んだ。
「とにかく。梨花はもう飲むな」
千桜から目をそらし、梨花の手からグラスを取り上げる。
「や、なんでー?」
「なんでじゃねぇだろ! 酒なんか飲んだらダメなんだろ!」
梨花が一瞬黙り込んだ。そして消えそうな声でぽつりとつぶやく。
「いいんだもん。もうさよならするんだから」
梨花の手がすうっと下腹のあたりに伸び、幸也の胸が締め付けられるように苦しくなる。
けれど梨花は、吹っ切れたように軽く笑うと、顔を上げて幸也に言った。
「ね、ちょっと、すごいんだよ。あたし、千桜ちゃんのこと、ずっと前に知ってたの」
「え?」
その言葉に反応して、幸也は梨花の顔を見る。
「小さい頃ね、あたしたち近所に住んでたんだよ。千桜ちゃんは覚えてないみたいだけど」
「ほんとに?」
幸也はちらりと千桜の表情をうかがう。千桜はうつむきがちに黙ったままだ。
「梨花。お前、余計なこと言ってないだろうな?」
「余計なことってなによ。千桜ちゃん、突然引っ越しちゃって、心配してたんだよーって話してただけじゃん」
そうか、そうだったのか。梨花の家もあの近くだったから、二人が知り合いだったとしても不思議はないよな。
「あ、そういえば」
突然思い出したように梨花が言う。
「千桜ちゃんち、昔、ドロボーに入られたことなかった?」
幸也の背筋に、冷たいものが走った。体中に嫌な汗が、じわじわとにじんでくるのがわかる。
「うちのお母さん、大騒ぎしちゃってさ。パトカー来てるの見えたし。千桜ちゃんその時家にいたんでしょ? 大丈夫だった……」
「やめろ!」
幸也の声に、梨花が驚いた顔で話を止めた。
「な、なによ。怒ることないじゃん」
「いいからやめろ。そんな話」
言いながら、心臓が壊れそうなほど高鳴っているのを感じていた。千桜の家にドロボー? 泥棒? それって、もしかして……。
ゆっくりと確かめるように千桜の顔を見る。千桜はぼんやりと前を見つめていたが、幸也のことを見てはいない。
「千桜?」
息を吐くようにその名前を呼ぶ。
「千桜」
そっと手を伸ばした瞬間、千桜は頭を抱え込み、うなるようにうずくまった。
「千桜ちゃん?」
梨花が心配そうに、千桜の体に触れようとする。しかしその手を、幸也は思いきり振り払った。
「帰れよっ!」
どうしたらいいのかわからないまま、そう怒鳴っていた。
梨花が悪いんじゃないのに。千桜だって悪くないのに。悪いのは……本当に悪いのは……。
「梨花……頼むから、帰って」
黙り込んだ梨花がゆっくりと立ち上がる。床に置いてあったコートを手に取り、静かに部屋を出て行く。
カンカンと階段を下りる足音が遠ざかった頃、やっと千桜が顔を上げた。
「幸也くん……」
千桜は苦しそうに息を吐きながらつぶやく。
「追いかけてあげて。梨花ちゃんのこと」
「千桜……」
「あたしはもう大丈夫だから。梨花ちゃんは、幸也くんと話したかったの。話を聞いて欲しかったんだよ」
千桜の細い手が、そっと幸也の肩を押す。
「ね? 梨花ちゃんのところへ行ってあげて。お願い」
千桜の手が幸也から離れる。そしてそのまますっと顔を背け、幸也と目を合わせようとはしなかった。




