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「眠れないの?」

 見慣れた天井の染みをぼんやりと眺めていたら、隣で横になっている千桜がつぶやいた。

「ん? そんなことないけど」

 そう答えてはみたけれど、寝つきがいいことだけが取り柄の自分が、こんな真夜中に起きているなんて、やっぱりおかしいのかもしれない。

 何気なく見た、目覚まし時計のデジタル表示は、午前二時二十分。明日も早いのに、もう眠らないと本当にヤバい。

 だけど梨花の顔ばかりが頭に浮かんで、どうしても眠らせてもらえないのだ。

「ああっ、もうっ!」

 布団から飛び起きて、頭をくしゃくしゃとかき回す。そんな幸也の姿を、千桜がじっと見つめているのがわかる。

「ごめん。ちょっと外出てくる。千桜は寝てなよ」

「あたしも行く」

 立ち上がって上着を手に取った幸也の背中に、千桜が言った。

「あたしも行く。一緒に連れてって」

 振り返ると薄暗い部屋の中で、千桜がほんの少し微笑んだ。


 アパートの階段を下り、近くの公園へ続く道を千桜と歩く。

 冷たい空に月は見えなくて、あたりは闇に包まれている。

 あの日、最後に梨花と話した日以来、梨花は会社に来ていない。

 ――幸也は、心配しなくていいから。

 そう言われたけれど、本当にこのままでいいのだろうか。いや、いいわけがない。だけどどうしたらいいのかわからなくて、ただ時間だけが過ぎていく。

 幸也は頭をふるふると振った後、真っ暗な空を見上げながら言った。


「千桜はさ、何か思い出した?」

 隣を歩く千桜は、黙って前を向いている。

 千桜が昔住んでいたという家は、あのスケッチブックに描かれていて、それを毎日千桜が眺めていることを、幸也は知っていた。

「うん……あとちょっとで、思い出せそうな気がする」

「雪が降れば、とか?」

 千桜がかすかに微笑んで空を仰ぐ。

「もう今年は降らないかもね」

 カレンダーの上では、あと少しで冬も終わりだ。今年の冬は寒いから、まだまだ春は遠い気もするけど。

「思い出さなくても……いいんじゃないかな」

 ぽつりと幸也がつぶやいた。

「思い出したら……千桜はここからいなくなっちゃう気がする」

 千桜は何も言わなかった。

 幸也はポケットから小銭を取り出すと、暗闇の中、やけに明るい光を放っている自動販売機の前に立ち、コーヒーをひと缶だけ買った。

「金ないからひとつだけ」

 公園の入り口で、缶を開けて差し出すと、千桜は両手でそれを受け取りつぶやいた。

「……あったかい」


「ここの公園てさ、春になると、すっげぇ桜がキレイなんだ」

 頼りない街灯の灯りの下、公園を囲むように植えられている、枯枝だけの桜の木を見上げて言う。

「あっちの川沿いの道もずうっと桜並木になってるし、けっこうこの町、桜が多いんだよな」

 ひとり言のようにつぶやいて、大事そうにコーヒー缶に口をつけている千桜のことを、幸也はちらりと見た。

 甘いコーヒーを、千桜が好きだってことはもう知っている。

 千桜はそれを一口飲むと、幸也にそっと差し出した。

「その桜、あたしも見てみたいな」

「見ようよ、一緒に」

 千桜から受け取ったコーヒーを、一口飲んで歩き出す。

 そんな幸也の少し後を、千桜が黙ってついてくる。


 こんな時間が続けばいい。

 静かに穏やかに流れるこんな時間が、ずっとずっと続けばいい。

 そんなことを考えている自分は、やっぱりずるい男だ。

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