10
「眠れないの?」
見慣れた天井の染みをぼんやりと眺めていたら、隣で横になっている千桜がつぶやいた。
「ん? そんなことないけど」
そう答えてはみたけれど、寝つきがいいことだけが取り柄の自分が、こんな真夜中に起きているなんて、やっぱりおかしいのかもしれない。
何気なく見た、目覚まし時計のデジタル表示は、午前二時二十分。明日も早いのに、もう眠らないと本当にヤバい。
だけど梨花の顔ばかりが頭に浮かんで、どうしても眠らせてもらえないのだ。
「ああっ、もうっ!」
布団から飛び起きて、頭をくしゃくしゃとかき回す。そんな幸也の姿を、千桜がじっと見つめているのがわかる。
「ごめん。ちょっと外出てくる。千桜は寝てなよ」
「あたしも行く」
立ち上がって上着を手に取った幸也の背中に、千桜が言った。
「あたしも行く。一緒に連れてって」
振り返ると薄暗い部屋の中で、千桜がほんの少し微笑んだ。
アパートの階段を下り、近くの公園へ続く道を千桜と歩く。
冷たい空に月は見えなくて、あたりは闇に包まれている。
あの日、最後に梨花と話した日以来、梨花は会社に来ていない。
――幸也は、心配しなくていいから。
そう言われたけれど、本当にこのままでいいのだろうか。いや、いいわけがない。だけどどうしたらいいのかわからなくて、ただ時間だけが過ぎていく。
幸也は頭をふるふると振った後、真っ暗な空を見上げながら言った。
「千桜はさ、何か思い出した?」
隣を歩く千桜は、黙って前を向いている。
千桜が昔住んでいたという家は、あのスケッチブックに描かれていて、それを毎日千桜が眺めていることを、幸也は知っていた。
「うん……あとちょっとで、思い出せそうな気がする」
「雪が降れば、とか?」
千桜がかすかに微笑んで空を仰ぐ。
「もう今年は降らないかもね」
カレンダーの上では、あと少しで冬も終わりだ。今年の冬は寒いから、まだまだ春は遠い気もするけど。
「思い出さなくても……いいんじゃないかな」
ぽつりと幸也がつぶやいた。
「思い出したら……千桜はここからいなくなっちゃう気がする」
千桜は何も言わなかった。
幸也はポケットから小銭を取り出すと、暗闇の中、やけに明るい光を放っている自動販売機の前に立ち、コーヒーをひと缶だけ買った。
「金ないからひとつだけ」
公園の入り口で、缶を開けて差し出すと、千桜は両手でそれを受け取りつぶやいた。
「……あったかい」
「ここの公園てさ、春になると、すっげぇ桜がキレイなんだ」
頼りない街灯の灯りの下、公園を囲むように植えられている、枯枝だけの桜の木を見上げて言う。
「あっちの川沿いの道もずうっと桜並木になってるし、けっこうこの町、桜が多いんだよな」
ひとり言のようにつぶやいて、大事そうにコーヒー缶に口をつけている千桜のことを、幸也はちらりと見た。
甘いコーヒーを、千桜が好きだってことはもう知っている。
千桜はそれを一口飲むと、幸也にそっと差し出した。
「その桜、あたしも見てみたいな」
「見ようよ、一緒に」
千桜から受け取ったコーヒーを、一口飲んで歩き出す。
そんな幸也の少し後を、千桜が黙ってついてくる。
こんな時間が続けばいい。
静かに穏やかに流れるこんな時間が、ずっとずっと続けばいい。
そんなことを考えている自分は、やっぱりずるい男だ。




