夏はこれから
高校三年の夏なんて、受験勉強で真っ暗。なのに東也はグラウンドで、朝から晩まで汗と砂埃にまみれていた。
夏空に響く、甲高い金属音。一瞬の静寂の後、どっとわき起こる歓声と悲鳴。真っ青な空にわき上がる白い雲を仰いで、東也はそこに立ち尽くしていた。
ざあーっと、水道の水を頭からかぶり、汗と泥とついでに涙を流しているのだろう。辺りに飛び散る水滴など気にも掛けず、東也は頭を振って水を切る。
「はい、これ」
手に持ったスポーツタオルを、怪訝そうに見つめる東也。
「何しに来たんだ」
何しに、とはお言葉だ。こんな地方球場に来た理由など、一つしかない。小学校時代から野球馬鹿だった、お隣に住む幼馴染みの応援に、来てやったに決まっている。
「野球。嫌いなんだろう」
「嫌いじゃないわよ」
確かに、好きではなかった。元々興味がなかったというのが大きな理由だけれど、本当の理由は別にある。
「その割には、一度も練習、見に来なかったよな」
ようやく受け取ったタオルで、髪の毛をがしがしと拭く東也。そんな拭き方をすれば、髪が傷んでしまうだろうに。もっとも、毎日容赦なく日に焼かれた髪は、汗の塩っ気のせいもあって、すっかり赤茶けているけれど。
「受験生だから」
放課後の多くの時間を図書室で過ごし、暇さえあれば本を読む。傍から見れば、さぞかし本と勉強が好きな女だと思われていた事だろう。
中学校の図書室からは校庭がよく見え、高校の図書室からは、学校に隣接された野球部のグラウンドがよく見えた。わざわざグラウンドまで行かなくても、ちゃんと毎日東也の姿を見ていたのだ。そんな事を、東也本人が知るはずもないけれど。
「お前、昔から本の虫だもんな」
「別に、そういうわけじゃないけど」
一番の遊び相手だった東也が野球に熱中してしまい、手持ち無沙汰を紛らわせるために、本を読み始めたのだ。それは中学高校と、東也の野球と同様に続いていた。
「俺なんか、野球馬鹿だったからなあ」
「でもおじさんとの約束は守ってたじゃない」
どんなに野球が好きでも、将来それで食って行ける訳じゃない。プロになる事ができる人間なんて、日本中でもほんの一握りしかいないのだから。どうしても野球を続けるのならば、勉強と両立させろ。それが、高校に入る直前に親父さんと東也の間で交わされた約束だった。
「定期テストで、毎回上位五十位以内。正気の沙汰じゃないよな」
そんな悪態をつきながらも、それを守り通したのは、他でもない東也だ。
「お前の協力がなかったら、とても無理だっただろうな」
協力とは言っても、大したことはしていない。ろくに勉強をしている時間がなかった東也のために、試験のヤマを教えていただけだ。ヤマが当たれば、当然成績が良くなる。最も要領が良くて、けれど実力がつかない勉強方法だけれど。
「でもまあ、これからは嫌でも受験勉強に専念させられるんだけどさ」
そう。夏の全国高校野球選手権大会の地区予選の三回戦で敗退した今日正式に、東也たち三年生の引退が決まったのだ。
「今からだと、必死にやってもお前と同じ大学には行けそうにないけどな」
そんな何気ない言葉に、どきりと心臓が跳ねる。
「どうせお前は、国公立か一流大だろ。俺も外は受けるつもりだけど、せいぜい内部進学か三流私立大だろうし」
近年は、その内部進学も選考基準がかなり厳しくなりつつある。まあ、東也の成績なら大丈夫だろうけれど、私立大学を受験するつもりならば、もう少しまともな実力を養っておく必要はあるだろう。
「外、受けるつもりなら、受験勉強に協力するけど?」
「は? そんな事したら、お前の勉強時間がなくなるだろうが」
本気で驚いているらしい東也の表情に、思わず口元が綻ぶ。
「なに笑ってるんだよ」
私とて、なにも受験のために勉強をしていたわけではない。もちろん成績が上位にキープできていた事で、両親にも先生たちにも喜んで貰えた。
進路に関して両親は、今の学校に入った時点で、内部進学でも外部でも好きにしなさいと言ってくれている。ただ担任はとても残念がって、未だ納得していないようだけれど。
「内部でも外部でも、東也が受けるところなら、楽勝だもの」
一瞬で、東也の表情が変わった。大きく見開かれた目とぽかんと開けられた口。そのあまりの間抜けさに、私の顔に浮かぶ笑みが深くなる。
「お前、それって」
「さあ、さっさと帰りましょ。東也の親父さん、残念会を開くって張り切ってたわよ。でも、その前に」
指でピストルの形を作って、東也に向けてバンっと撃つ真似をする。
「今度は私の番だから。覚悟しなさいよ」
ノリで胸を押さえて撃たれたふりをしている東也を放っておいて、私はくるりと体の向きを変えた。野球という東也の勝負は今日で決着がついたけれど、私の勝負はこれからだ。
さてどんな手を使ってやろうか。まずはただのご近所さんで幼馴染みである今の関係から脱するために、策を練らなくては。夏はまだまだこれからなのだから。
「おい、待てよっ!」
慌てて後を追ってくる東也の気配を感じながら、あれこれと思案する私だった。