第7話 「名前を歌で」
第7話は、
言葉より先に、音が近づく夜のお話です。
声をかける勇気も、
説明する言葉も、まだ足りない。
それでも、
名前だけは、歌になりました。
目が合ったまま、どちらも立ち止まらなかった。
走りもしない。逃げもしない。
夜の中で、同じ速さのまま、距離だけが静かに縮まっていく。
翠の中は、公園に着くまでずっと音で満ちていた。
都会のざらついた音、月明かりの白さ、冷えた空気。
それらが重なり、胸の奥で流れになる。
エリーは逆に、やけに明るい雰囲気をまとっていた。
本性を隠すように、
いつもより軽く、明るく振る舞っている。
エリーが先に口を開く。
「Bonsoir.(こんばんは)」
にっと笑って、続ける。
「On s’est déjà vus, non ?(前に会ったよね?)」
間を置かず、立て続けに。
「Ça va ?Tu te sens mieux ?
T’as l’air en forme.(大丈夫?体調は?元気そうだけど)」
翠は答えようとして、言葉を探して——
その前に、口からこぼれてしまった。
「……ミャ」
短く、間の抜けた音。
数秒の沈黙。
エリーがきょとんとした顔をして、瞬きをする。
翠も、自分の声に気づいて、わずかに目を伏せた。
それから。
どちらからともなく、笑った。
声を立てるほどではない。
でも、同じタイミングで、確かに。
気まずさはなかった。
言葉が足りないことも、
うまく通じないことも、
なぜか問題にならなかった。
視線を外し、歩き出す。
特に誘い合うでもなく。
気づけば、同じベンチに腰を下ろしていた。
夜の公園は静かで、月明かりが足元に淡い影を落としている。
エリーは少しだけ間を置いてから、膝の上にギターを乗せた。
言葉の代わりに、音。
指が弦に触れると、やさしい旋律が流れ出す。
子守唄のようで、眠らせるための音ではない。
「ここにいていい」
そう言われている気がした。
最後の一音が、夜に溶ける。
エリーは、まるで歌の続きを口にするように、静かに言った。
「Je m’appelle…(僕の名前は……)」
ほんの一拍。
「Elie.(エリー)」
翠は、すぐには言葉を返さなかった。
代わりに、小さく鼻歌をひとつ。
温かいスープを思わせる、やわらかな旋律。
湯気が立ちのぼるように、音が少しだけ上へひらく。
歌い終わって、最後に小さく。
「……翠」
エリーが、目を細める。
「C’est ta musique ?(それ、君の音楽?)」
翠は首を横に振る。
両手でカップを持つ仕草をして、そっと飲むふりをする。
そして、小さく。
「……Merci.(ありがとう)」
夜の公園に、
言葉にならなかった感情と、音の余韻だけが残っていた。
——つづく
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
この話では、
「出会う」よりも先に、
「響いてしまう」瞬間を描きました。
言葉は少なく、
でも確かに、距離は変わっています。
次のお話で、
その余韻がどう続いていくのか、
見ていただけたら嬉しいです。




