第5話「ほどけかけた愛、残り続ける音」
それぞれの日常が、
少しだけ、揺らぐ夜のお話です。
満ちているはずのもの。
足りないと気づいてしまったもの。
理由は分からないまま、
それでも、身体が先に動いてしまう。
そんな瞬間を描いています。
連日の公演が、ようやく一区切りついた。
ステージを降りたエリーは、いつものように笑っていた。
冗談を言い、肩を叩き、
「最高だったな」
と何度も言う。
それが嘘だと、誰にも思わせないくらい、完璧な笑顔だった。
打ち上げは、ホテル近くのバー。
グラスが並び、音楽の話が続く。
疲れはあるが、空気は明るい。
エリーは、その輪の中心にいた。
一人でも平気な顔。
孤独を知らないみたいな振る舞い。
それが、もうずっと前からの癖だった。
「そういえばさ」
メンバーのひとりが、スマホを取り出す。
「この人、無茶苦茶うまいよね」
画面を、エリーの前に差し出す。
「時々聞くんだけどさ。
今日、たまたまライブ配信やってて」
軽い調子。
深い意味はない。
エリーは、グラスを持ったまま、何気なく画面を覗き込んだ。
次の瞬間、指が止まる。
——なに……これ……
ピアノの音。
顔は映らない。
言葉もない。
ただ、白い手が鍵盤に触れるたび、音が、空気を変えていく。
優しく。
どこからか風が吹く。
雲が、ほどけていく。
重なっていたものが、
少しずつ、離れていく。
空気が、前より軽い。
——違う。
これは、自分が作ってきた“愛”とは、決定的に違う。
エリーの音は、いつも意識的だった。
愛に満ちた旋律。
人を包む音。
それは、
必死に整えられた音だった。
誰にもバレないように。
天才だからこそ、均整が取れてしまう嘘。
でも、この音は。
作っていない。
拒んでいない。
「……」
エリーは、何も言わずに立ち上がった。
「え、どこ行くの?」
誰かが声をかける。
「ちょっと、風に当たる」
それだけ言って、上着を羽織り、ギターを掴む。
バーの扉を開けたとき、
胸の奥で、何かが、静かに崩れ始めていた。
*
同じ夜。
翠は、自宅のリビングで、配信を終えたところだった。
グランドピアノの蓋を閉じ、息を整える。
昨日から、胸の奥に残っている旋律。
形にはした。
けれど、どこか、満ちきらない。
シュガーが、珍しく部屋から出て行かない。
足元に座り、じっとこちらを見上げて、小さく鳴いた。
「……ミャ」
その声が、配信に、ほんの一瞬だけ紛れ込んだ。
翠は、なぜか、それを止めなかった。
鍵盤から離れたあとも、部屋の空気が、少しだけ柔らかい。
胸の奥に、変化がある。
それは、コーヒーでも、猫の温もりでもない。
誰かの、気配。
名前は、思い出せない。
けれど、確かに、何かが足りないと、
今はもう、分かっている。
翠は、ジャケットを手に取った。
夜の空気に、触れたくなっただけだ。
理由は、まだ、言葉にならない。
その夜、ふたりは、ほとんど同時に、同じ公園へ向かっていた。
一人は、
何かを手放しきれないまま。
もう一人は、
まだ、足りないまま。
まだ、出会う理由も、呼び合う言葉もない。
けれど、旋律だけが、すでに、道を知っていた。
——つづく
ここまで読んでくださって、ありがとうございます。
第5話では、
「壊れること」と「気づいてしまうこと」を、
同じ夜に並べました。
まだ、答えはありません。
ただ、音だけが先に進んでいます。
次のお話で、
その続きを見届けていただけたら嬉しいです。




