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第30.5話 「音が触れる前の夜(エリー視点)」 ※第30話の裏側です

30話の裏側。

エリー視点です。

すいと過ごした夜を、彼がどう受け止め、どんな想いで触れようとしていたのか。

彼にとっての“初めての恋”の一歩を描きました。

本編を読んだあとにお楽しみください。


最初におかしくなったのは、食事のときだった。


いつもなら会話をまわすことも、距離を操ることも得意なはずなのに、

すいが隣にいるだけで、喉の奥が少しきゅっと締まった。


なんだこれ。

こんな緊張、子どもの頃以来じゃないか。


でも、セッションを始めた途端に分かった。


——ああ、もう無理だ。

こいつがいないと困る。


音が混ざった瞬間、ずっと空いていた場所に、ぴたりと何かが収まった。

それが何なのか、ひと言で言える言葉を、エリーは生まれて初めて探していた。


「……好き、なんだろうか」


胸の奥で、そんな問いがひどく静かに響いた。


そのまま自宅へ連れて帰ったのは、

ほんとうは“判断”じゃなく、“衝動”だった。


誰も入れない部屋。

家族でさえ滅多に通さない場所。

そこに今、翠がいる。


扉を開けた瞬間、黒と金の空間に翠が立った姿は——

注文していたギターが届いたときの何倍も心臓が跳ねた。

宝物が届いたみたいだ。


抱きしめたかった。

でも、触れたら壊れそうで、触れたら戻れない気がして、その全部を飲み込んだ。

代わりに、口から勝手に言葉が滑った。


「シャワー、浴びたら?」


間違いなく、余裕の声ではなかった。

本当は——落ち着きたかったのは自分の方だ。


翠がバスルームに消えていく背中を見て、エリーはこっそり息を吐いた。


(どうしよう……本当にどうしよう)


いつもなら、相手を風呂へ押し込んで、自分は服を脱いで、そのまま抱く。

すべて段取りで動ける。

でも今は違う。

翠の服を脱がせる想像をした瞬間、胸の奥がきゅう、と痛むように鳴った。


——好き、なのか?


その言葉だけがやけに重くて、息が乱れる。


落ち着こう。


翠がグラスの水に手を伸ばしている。

自分もバスルームへ向かった。


湯を浴びても胸のざわつきは消えない。

こういう時は、いつも鼻歌を歌っていた。

歌詞はよく覚えていない。

子どもの頃、誰に教わったのかもわからない。

でもこの旋律だけは、魂の深いところに沈んでいる。


ブラームスの民謡。


口ずさむと、少し呼吸が整う。

そのとき——

部屋のほうから、ピアノの音が返ってきた。


翠だ。


歌に寄り添って、沈んだ音の隙間を埋めるように、柔らかく重ねてくる。

まるで「ここにいる」と言われたようだった。


その音を聞いているうちに、エリーの胸のざわつきは、別の熱へ変わっていった。


(ああ……もう、無理だな)


シャワーを止めて戻ると、

ピアノの前に、翠の背中があった。


濡れた髪。

白いバスローブ。

あの曲の切なさと同じ色をまとっている。

懐かしい、となぜか思った。


出会って数回しか会ってないのに、

何年も探していたものに触れたような感覚。

気づけば手が伸びていた。


肩に触れる直前で止まったのは、

理性ではなく、言葉が先に出たからだった。


「この曲、好きなんだよね。切ないよね。心にくる。」


翠が振り返った。

そのとき、胸の奥の何かが音を立てて形を変えた。


(ああ、これか。これが“好き”ってやつか)


性欲より前に来る、どうしようもない“欲しさ”。


“こいつの音が欲しい。こいつ自身が欲しい。”


はじめて、自分の中にそんな感情が生まれた。

もう逃げる理由はなかった。


「……よく見せて」


手が頬に触れた。

翠がわずかに震える。

その震えを包み込むように、言葉がこぼれた。


「お前の瞳」


そして本当の本音が、やっと形になった。


「俺は、お前のピアノと……その瞳が好きだ」


息を吸うように、最後の言葉が出る。


「お前が……好きだ」


翠がわずかに顔を上げ、ふたりの呼吸が重なった瞬間だった。


胸の奥が、音もなく震えた。

まるで、張り替えたばかりの弦に触れたときの、

あの痛いほど澄んだ緊張に似ていた。


まだ触れていないのに——

翠の息が、肌をかすめただけで、喉の奥が熱を持った。


(……キスって、こんなふうに始まるのか)


いつも、ただ触れて、ただ終わっていた行為に、

今は “予兆” だけで身体が反応する。


翠の吐息が、思わず指ですくいたくなるほど、美しい。

息がふれたところから、ゆっくりと温度が沈んでいく。

胸の奥まで落ちていく。


(触れたい……触れたら、どうなるんだ)


こんな気持ち、知らない。


ただキスしたいだけで、こんなふうに指先が震えるなんて……

俺、どうしたんだ。


そっと唇を寄せた。


触れたのは、唇より前に翠の呼吸だった。

その温度が、想像よりずっと柔らかくて、かすかに腹の底が痺れた。


形の定まらない熱が、胸の奥でゆっくり混ざっていく。

触れたい衝動と、抱きしめたくなる温度が、区別できなくなる。


(……ああ、だめだ。これは“愛おしい”って感情なんだ)


翠の吐息が、自分の唇の端を震わせる。

それだけで世界が暗く深く沈んで、ふたりの輪郭だけが浮かび上がった。


ゆっくりと、翠の唇に触れる。


その瞬間、体の中心が揺れた。


——こいつの唇ひとつで、心臓なんて簡単に奪われるんだ。


自分でも驚くほど、静かにそう思った。


キスは音もなく落ちた。


その静けさが逆に、

ふたりの熱を深く深く沈めていく。


世界が暗くひらき、その中心に、翠の息だけが残った。


──つづく


お読みいただき、ありがとうございました。

エリーにとって、

“好き”という感情と“愛おしい”を初めて知る夜でした。


すい視点とは違う温度と熱、ふたりの呼吸の重なりを、

少しでも感じていただけたら嬉しいです。


次回からは通常の本編に戻ります。

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