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第3話 「目覚めの部屋、待つスープ」

夜の出来事の余韻が、

朝の光の中に、静かに残っている回です。


目覚めた部屋。

知らない匂い・・・


大きな出来事は起こりませんが、

身体が先に感じてしまうこと、

言葉になる前の気配を、

そっと拾うようなお話になっています。


静かな時間を、

一緒に歩いていただけたら嬉しいです。


暗い。

深い井戸の底にいるような感覚だった。

石を積み上げた壁。湿った冷たさ。

息をすると、胸の奥で音が鈍く反響する。


そこに、何かがいる。

泣いているのかどうかも、はっきりしない。

ただ、目を逸らせない感覚だけがあった。


手を伸ばそうとすると、その上に、月があった。

逃げ場のないほど近く、淡く、静かに、すべてを照らしている。


——音がした。

弦が、そっと触れ合う音。

それは泣き声をかき消すようでも、慰めるようでもなく、

ただ、そこに在る音だった。


「……っ」


すいは、息を吸って目を開けた。

天井が高い。

白い壁。知らない部屋。

カーテンの隙間から、朝の光が差し込んでいる。

体を起こそうとして、頭がふらりと揺れた。


——夢。


そう思いながらも、胸の奥に、ギターの余韻だけが残っている。


部屋に、誰の気配もない。

代わりに、かすかに、温かい匂いがした。

ベッドの脇のテーブルに、一枚の紙が置いてある。

走り書きの、フランス語。


”La soupe t’attend.– Elie”

(スープが、君を待っている。エリー)


すいは、その文字をしばらく見つめてから、

静かに視線を逸らした。


「……帰ろう」


声は、思ったより掠れていた。


身支度を整え、ドアに向かいかけて、足が止まる。


空腹だった。

昨夜から、何も口にしていないことを、体が遅れて思い出す。


キッチンに置かれた小さな鍋。

蓋を取ると、白い湯気が、ふわりと立ち上った。

温め直して、スプーンですくう。

一口。


——温かい。


それだけで、胸の奥に、変化があった。

それが何かは、分からない。

翠は、黙って、最後まで飲み干した。


ふと、リビングのテーブルに目がいく。


紙が散らばっている。

整っていない線。

仮の記号。

ラフな譜面。


けれど——


翠は、立ち尽くした。


これは、

自分の音じゃない。


熱を抱えた旋律だ。

けれど、

強く吹くはずの風が、

やさしくほどけている。


理解してしまった。

この音は、

自分の中だけでは、完結しない。


ペンを取り、譜面の余白に、短く書く。


”スープ、ありがとう。”


それだけ。

名前も、言葉も、添えずに。


部屋を出る前、翠は一度だけ振り返った。

朝の光の中に、昨夜の音の名残が、

まだ、かすかに残っている気がした。


ドアを閉める。


外は、雨上がりだった。

濡れたアスファルトに光が反射し、空には、淡い虹がかかっている。


翠は、何も言わずに歩き出した。


——まだ、名前のつかないまま。


——つづく


ここまで読んでくださって、ありがとうございます。


第3話では、

「想われたこと」や「与えられたやさしさ」を、

言葉ではなく、

温度や匂い、音で受け取る時間を描きました。


人はときどき、

自分が何に救われたのか、

すぐには分からないまま、

先に歩き出してしまいます。


それでも、

あとから思い出すものが、

きっと残っている。


そんな一瞬を、

大切にした回です。


次のお話も、

静かに続いていきます。

よろしければ、またお付き合いください。

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