第26話 「舞台の内側」
今日は、エリーの“仕事の顔”が描かれます。
舞台の内側で、翠は初めて、
彼の世界の一部に触れることになります。
距離と緊張、
その中にある小さな優しさを、
静かにお楽しみください。
会場の中は、想像していたよりも静かだった。
まだ客席はまばらで、照明は落とされ、
舞台の輪郭だけが淡く浮かんでいる。
スタッフが足早に行き交い、
抑えた声で確認を重ねていた。
翠は、エリーの少し後ろを歩く。
案内される通路は客席ではなく、舞台の内側へと続いていた。
ここがどこなのか。
自分がどこに立っているのか。
その輪郭が、ゆっくり薄れていく。
楽屋前の壁に紙が貼られている。
プログラム。
Elie Moreau – Solo Live
その文字が、胸の奥に静かに落ちた。
――今日、なのか。
エリーから、何かを聞いていたわけではない。
ただ名前を呼ばれるまま、後をついてきた。
行き先もわからないまま、気づけば、舞台の内側にいた。
これは、エリーの仕事の場所だ。
舞台。
責任。
音で立つ時間。
空気の温度が、そっと変わるのを感じた。
*
リハーサルが始まる。
ギターの音が、広い空間にひとつずつ置かれていく。
正確で、迷いがなく、音だけで空気が整っていく。
その隣で、ピアノが応える。
若い男の、まっすぐな指。
音は美しい。整っている。
なのに、ほんのわずかだけ、呼吸が合わない。
説明できるほどの違いではない。
ただ、胸の奥に小さな揺れが残る。
音が前へ出る。
寄り添いより、わずかな張りつめが先に立つ。
翠の視線が、そっと揺れた。
ピアノに向かうその男は、姿勢がよく、動きに迷いがなかった。
ここにいることが自然で、美しいとも思える。
だからこそ、翠の足場がふっと曖昧になる。
エリーはスタッフに囲まれ、
静かに指示を出していた。
プロの顔。
その横顔は、少しだけ遠い。
声をかけるタイミングを何度か逃す。
邪魔をしてはいけない気がした。
それでも、ふと視線が合う。
一瞬。
何も触れないのに、その目だけが、やわらかくほどけた。
胸の奥が、それだけで静かに落ち着く。
リハの合間。
エリーが低く言った。
「……今日、俺のライブ」
翠はわずかに驚き、それから頷く。
「……今日、なんだ」
エリーは短く続けた。
「来てくれて、よかった」
ただそれだけ。
けれど、“ここにいていい” が、はっきり伝わった。
開演が近づく。
客席に人が増え、ざわめきが戻ってくる。
照明が落ち、音がいったん消える。
翠は、舞台のすぐそばに残されていた。
客席でもなく、演奏者でもなく。
ただ、エリーの“内側”にいる。
まだ触れていないエリーの場所。
その奥へ続く気配を、静かに見つめていた。
——つづく
エリーの音の世界に、
翠が一歩踏み込む回でした。
ふたりの距離は、
言葉よりも“視線”と“空気”で動いていきます。
次回、舞台の火が灯ったとき、何が見えるのか──
静かに続きます。




