第25話 「向かう音」
エリーの「抱きしめたい」という衝動に、
翠が静かに向き合い始める回です。
距離があるほど深まる想いと、言葉より先に動く身体の温度。
音に導かれるように向かうパリで、
ふたりの再会は、
予想より静かで、そしてどこか甘いものになります。
航空券の予約が、そっと確定した。
決めたというより──
流れにそっと背を押されたような感覚だった。
携帯を閉じる前に、短いメッセージをいくつか送る。
多くは書かない。
今は、それで十分だった。
羽田へ向かう間、街の音がいつもより遠い。
表示板の行き先の列の中で、ひとつだけ視線が吸い寄せられた。
——パリ。
確かめるように見つめ、歩き出す。
搭乗を待つ間、携帯を開く。
「着いたら連絡する。」
それだけを打って送る。
──彼に。
返事はなかった。
それでも、胸は静かだった。
*
機内は、夜のように落ち着いていた。
雲を抜けると、時間がゆっくり溶けていく。
翠の指が無意識に動き、検索窓に名前を打ち込む。
エリー。
ロンドンでの公演。
記事や映像が並ぶ。
再生すると、音が空気を押し広げた。
強いのに、乱暴ではない。
知らない客席。
知らない光。
その中で、ずっとこの音を支えてきた人なのだと知る。
思っていたより、遠い光の中で生きている人だった。
それが、少しだけ意外で──
どこか誇らしくもあった。
音を追う内に、機体はいつの間にか降下を始めていた。
*
パリ。
地面に触れた瞬間、体の奥が、ゆっくりほどかれていく。
携帯には、いくつかの通知があった。
るる。「待ってるね。」
セシル。「迎えに行けなくてごめん。」
その下に、ひとつだけ胸が動く言葉。
「もういるよ。」
立ち止まったまま、通話ボタンを押す。
「コートは?」
先に届いたのは、その声だった。
一瞬、言葉が出てこない。
急いで出たせいで、コートを忘れてきたことを思い出す。
白いシャツ。
あたたかいカーディガン。
そしてなぜか、白いマフラーとニット帽だけ。
顔を上げる。
エリーがいた。
ここはパリ。
自分の半分を過ごした場所。
でも。それよりも先に身体のほうが動いていた。
胸に触れる。
そのまま、引き寄せられる。
「おかえり、翠」
強く抱きしめられる。
三度のビズ。
そして、そっと、もう一度。
言葉は、必要なかった。
車に乗ると、街の灯りが、静かに流れる。
「仕事、大丈夫?」
「平気」
それ以上、話さない沈黙が、妙にやわらかかった。
「荷物、それだけ?」
「うん」
「このまま、行ける?」
「……どこに?」
「会場」
翠は、小さく頷いた。
車はゆっくりと動き出す。
*
扉が開いた瞬間、音だけが先にこちらへ触れた。
ピアノ。
知らない旋律。
でも、空気が張りつめている。
翠は一歩だけ足を止め、エリーが振り返る。
「中、入るよ」
翠は、静かに頷いた。
音が──
たしかに、待っていた。
——つづく
翠とエリーの間には、まだ名前のない感情が流れています。
それなのに、再会した瞬間にはもう、互いの体温が迷わず重なってしまう。
25話は、その“向かう必然”を描いた回でした。
次話では、音と気配がさらにふたりを近づけます。
ゆっくり、深く、やわらかく。




