第24話 「遠い呼び声」
距離があるほど、
感情は輪郭を帯びます。
翠の音に呼ばれ、
エリーの中で“抱きしめたい”衝動が初めて言葉になる回でした。
まだ形にはならない想いが、少しずつふたりを動かしていきます。
次話では、さらに静かに近づく気配を描きます。
三月のはじめのパリは、まだ冬の名残を引きずっていた。
部屋に戻ったとき、最初に違和感が落ちた。
壁に立てかけてあったはずの一本──
ギターがない。
置いてきたのだと気づくのに、時間はかからなかった。
困りはしない。
気に入りの一本は他にもある。
それでも胸の奥に、
ふれられず残された熱のようなもの が、細く沈んだ。
数日は、よく眠れなかった。
ロンドンでの代打。
必要最低限の打ち合わせ。
音を出せば出すほど、
何かが自分の外へ流れ落ちていく感覚だけが残る。
移動の合間、無意識に画面を流していたとき、
見慣れた名がふっと目に触れた。
配信。
再生する。
音は整っている。
なのに、どこか揃わない。
余白が長く、高音が、ほんの少し迷っている。
切ない、という言葉より先に、胸の奥がかすかに疼いた。
──あの短いメッセージの、あとだ。
エリーは文字を打つ。
翠、会いたい。
抱きしめたい。
指が一度、止まる。
その言葉が、思っていた以上に自分の奥に触れてしまう。
……違う。
そう思いながらも、消去して、画面を伏せる。
浅い眠りに落ちた。
*
夜更け、パリに戻る。
シャワーを浴びても、あの旋律は頭の奥にとどまり続けた。
静かに、こちらを呼ぶように。
もう一度、配信を開く。
同じ旋律。
でも、さっきよりも澄んでいる。
まるで音が、こちらへ手を伸ばしているようだった。
気づけば、通話ボタンを押していた。
「……はい」
眠りの端にいる声。
それだけで喉がつまる。
「……moi」
かろうじてこぼれた声は、
抱きしめたい衝動の余熱そのものだった。
短い沈黙。
「あ……」
翠が息を呑む気配が伝わってくる。
エリーは低く囁いた。
「おはよう、かな。そっちは」
「起こした?」
「大丈夫」
翠の声は、まだ夜の中で震えている。
「今、どこ?」
「パリに戻った。さっき、ロンドンから」
少しの間を挟んで。
「……いつまで?」
「一週間くらい」
受話器の向こうで、言葉を探す気配。
「……わかった」
一拍。
「これから、そっちに行くね」
呼吸が止まる。
「チケット取ったら、連絡する」
「……え?」
驚きが、そのまま声に溶けた。
「だいじょうぶなの?」
返ってきた声は、迷いのない、静かな熱だった。
「大丈夫。会いたい」
その言葉以上のものは、何も言えない。
「……待ってる」
通話が切れた。
静けさが部屋に戻る。
エリーはしばらく動けなかった。
置いてきた一本の代わりに、別のギターへ手を伸ばす。
指先が弦に触れ、音にならない響きだけが伝わる。
来る、と言われた。
理由も条件もなく。
それを止めなかったのは、自分だ。
次の数日をゆっくりと組み立てる。
仕事の隙間。
空港までの距離。
部屋の片づけ。
考えるほど、逃げ道は静かに閉じていく。
それでいい、と思っている自分に気づく。
窓の外で、
パリの夜が、深くやわらかく呼吸していた。
——つづく
パリの夜に戻ったはずなのに、
胸の奥には、触れられなかった温度だけが残っていた。
翠の声は眠りの端で震え、
配信の音は、遠くからこちらを探してくる。
会いたい、と言葉にした瞬間、
逃げ道は静かに閉じていく。
それでもいいと思った。
抱きしめたい衝動だけが、
夜の底で静かに息をしていた。




