第23話 「迎え入れる場所」
今回は、翠が「迎え入れられる場所」に触れる一話です。
エリーの余韻を胸に抱えたまま、
鎌倉の山荘で紗英とリュシアンと向き合う時間。
人に受け止められる静けさが、翠にどんな呼吸を思い出させるのか。
淡くてやわらかい回になります。
鎌倉の山荘は、空気まで昔のままだった。
門をくぐると、木々の匂いが胸に落ちてくる。
街の音は、ここまで届かない。
玄関へ向かう前に、
扉の向こうで優しい気配が動いた。
「いらっしゃい」
紗英の声は、相変わらず少し高く、やわらかい。
「ちょっと早いんだけどね、山菜が手に入ったのよ」
理由は聞かれない。
そのさりげなさに、胸の奥がそっとゆるむ。
奥から、軽い足音。
「今日はこれが合うと思って」
地下から戻ってきたリュシアンが、白ワインのボトルを掲げて微笑む。
その動作だけで、部屋の空気がふっと和んだ。
通されたリビングは、
西洋と東洋が、ためらいもなく並んでいる部屋だった。
古いソファ、低い卓。
光だけが、昔からここにいるように静かに差し込んでいる。
梅昆布茶が置かれ、湯気の向こうで紗英が翠を見る。
「どうしたの?」
短い問い。
けれど、探る影はひとつもなかった。
「……力の制御で」
翠は視線を落とし、ゆっくり言葉を選ぶ。
「ある人に近づくときだけ、代償が、少ないんです」
紗英はすぐには答えず、ただ穏やかに頷いた。
「その方は、今どこ?」
「パリです。急に、仕事で戻られて」
「そう」
一拍。
それから、静かに言う。
「……そういう方が、現れたのね」
翠は少し迷ってから、
「……はい」と答えた。
紗英の微笑みは、
押しつけがましくなく、ただそっと寄り添うようだった。
「その人にとって、あなたは大切な存在なのよ」
断定ではなく、ただ静かに置かれた言葉。
「ギタリストで……」
翠が続けると、紗英は小さく息を吐いて微笑む。
「音が、繋いでいるのね」
「はい」
「いまのあなたで、十分よ」
助言というより、そっと許される感覚だった。
翠は、ほんの少し勇気を拾うように口を開く。
「……実は」
胸の奥が揺れ、言葉がいったん止まる。
「初めてなんです。誰かを“会いたい”って思ったのは」
紗英の表情が、やわらかく緩む。
「そう。よかったわ」
それ以上は踏み込まない。
ただ、祈るようにそばにいる。
「ご縁はね、祈りとよく似ているの。
結び方は、あなたが決めなさい」
台所から油の音が立ち上がる。
リュシアンが揚げたての皿を運んできた。
「手伝う?」
紗英が立ち上がり、翠を見る。
「……はい」
「じゃあ、ワイングラスを三つ」
翠は頷き、棚に向かう。
食卓には、静かなあたたかさが満ちていた。
ほろ苦い山菜、白ワイン、刺身、山椒の香り。
会話は途切れがちなのに、その沈黙はどこまでも優しい。
紗英の在り方は、九条の家とはまるで違っていた。
抑えつけない。
閉じない。
力も感情も、そのまま置いていい場所。
翠は、呼吸が自然に深くなっていくのを感じた。
帰り際、紙袋を手渡される。
「これ、持っていきなさい」
苺のシフォンケーキ。
甘い匂いがふわりと広がる。
「ありがとうございます」
門を出ると、夕方の光が山の端に残っていた。
答えは、まだ形を持たない。
けれど──
戻れる場所があることだけは、たしかだった。
翠は、ゆっくりと歩き出した。
——つづく
エリーがいなくても、翠の中に残るあたたかさや温度が、
静かに物語を押していく回になりました。
紗英の「受容」は、
翠にとってひとつの“帰る場所”のようなものです。
ここからまた、音が動き出します。
次話もよろしくお願いします。




