第22話 「合わない音」
今日は、ふたりが会わない夜のお話になります。
音の揃わない感じ、
言葉の合わない間、
そして胸の奥に残る“気配”のようなもの。
エリーがいないのに、
翠の中には確かに息づいている。
そんな静かな余韻を描く回です。
通知音が、静かな部屋の温度をわずかに変えた。
画面には、短い文字だけが残っていた。
わるい、急遽戻る。
また連絡する。
Biz エリー
理由は書かれていない。
それでも、言葉の奥に広がる気配だけが、胸の奥にすっと沈んでいく。
翠は携帯を伏せ、しばらく動かなかった。
会えることは、もともと、かすかな奇跡 だった──
その事実が、いまになって静かに形をもつ。
部屋は、いつもより静かだった。
こういう夜は音を鳴らすはずなのに、
指先は鍵盤の上に置かれたまま、沈黙をほどこうとしない。
時間がゆっくり積もるほど、
胸の奥の“ずれ”だけが、ひっそりと浮かび上がってくる。
*
夜になって、ようやく音が出た。
特別な曲を選んだわけではない。
身体が覚えている配置だけをたどる。
音は鳴る。
けれど、ごく小さなところで噛み合わない。
高音がひと呼吸だけ遅れ、間が、いつもより深く落ちる。
そこには、まだエリーの息づかいが残っていた。
触れた温度、寄った頬、耳元に落ちた声の残り香。
その余韻が、音の輪郭を揺らしていた。
配信を切ると、コメントが並んでいた。
――今日、なんか切なかったね
――胸がきゅっとした
――シュガー、どうしたの?
翠は画面を伏せた。
自分では違いがわからない。
ただ、合わない感じだけが胸に残る。
片付けようとしたとき、
ギターケースの脇に小さな金属が落ちているのに気づいた。
音叉。
古びた、くすんだ金属。
触れると、ひんやりとした重さが、掌にゆっくり沈む。
「……エリーの、だ。」
その一言だけで、胸の奥がわずかに揺れた。
翠は息を整え、心の奥をそっと開く。
音は、すぐには来なかった。
白い揺らぎ。
遠い笑い声。
その奥に沈む、小さな影。
誰かが、必死にふさいでいる“声”。
言葉ではなく、音そのものが閉じこめられていく感覚。
胸がきゅっと締め付けられ、視界がゆらいだ。
翠は無意識に、ひとりの名前を思い浮かべる。
エリー。
低くて、少しハスキーで、耳元に落ちると温度を残す声。
思い出しただけで、身体の力がふっと抜けた。
胸の奥の熱が、静かに落ち着いていく。
――どうして。
理由はわからない。
ただ、エリーだけが翠の負荷を軽くする。
意識が静かに戻っていく。
しばらくして、翠は携帯を手に取った。
迷いは、ごく短い。
発信音。
すぐに返ってくる、澄んだ優しい声。
「もしもし?」
「あの……翠です」
「あら。お久しぶり」
変わらない声音が、胸の奥のざわめきをそっと撫でる。
「今、東京?」
「はい」
「そう。元気?」
「……はい」
一拍、間。
翠は小さく息を整えてから言った。
「……お伺いしたいことがあって」
返事はすぐだった。
「鎌倉にいらっしゃいな。
少し早いけど、山菜の天ぷら、食べましょう」
理由は、聞かれない。
そのやわらかい優しさが、胸にゆっくり落ちた。
通話が切れる。
翠は音叉を握りしめる。
合わない音は、まだ揃わない。
答えも、まだ見えない。
それでも──
進む先だけは、はっきりしていた。
——つづく
お読みいただき、ありがとうございました。
今回は、触れあう場面がないぶん、
“残された温度”や“音のずれ”を中心に描いています。
誰かがいない時間のほうが、その存在が強く浮かび上がることがあります。
翠にとってのエリーが、少しずつ輪郭を持ち始める回になりました。
次話では、翠が鎌倉へ向かいます。
また読んでいただければ嬉しいです。




