第20話 「触れたあとに、音が残る」
触れたあとの静けさと、
そこに生まれる“音の余韻”を描いた回になります。
行為には進まないのに、
むしろ距離が深まってしまうような、
そんな夜です。
ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。
キスのあと、すぐには何も起きなかった。
息が戻るまでの、わずかな静けさだけがあった。
翠は、視線を落とし、唇に残った温度をそっと確かめていた。
「……初めてだった」
すくうような、小さな声。
言葉を探しながら、こぼれるように続ける。
「こういうの。人に、ちゃんと触れて……」
呼吸が、ひとつ揺れた。
「……嫌じゃなかった。それどころか……」
言い切れないまま、翠は困ったように笑う。
「……変だけど。気持ち、よかった」
それは告白でも説明でもなく、
ただ身体に残った事実を、静かに置いた言葉だった。
エリーの胸の奥で、何かがゆっくり動いた。
腕を伸ばせば届く距離。
抱きしめる理由はいくつもあった。
——それでも、動かなかった。
触れれば、何かが変わってしまう。
その静けさを壊したくなかった。
エリーは、そっと息を吐き、椅子に腰を下ろした。
「……少し、弾いてもいいか」
翠は小さく頷く。
ギターを膝に置くまでの仕草が、
やわらかい沈黙の中で、ゆっくり伸びていく。
指が弦に触れ、最初の一音が落ちた。
低く、深い音。
旋律は整っていないのに、どこか懐かしい。
夜の温度に溶けていくような音だった。
「……俺さ」
エリーは弾きながら言う。
翠のほうを見ないまま。
「目が覚めたとき、何も覚えてなかった」
指先が、かすかに震えた。
「暗いところが、ずっと怖い。
どうしてなのか……まだ思い出せない」
その先は、音が引き受けた。
低音が沈み、高音が揺れ、言えなかった痛みを少しずつすくい上げる。
「……ずっと、平気なふりをしてた」
落とした言葉が、音の中に吸い込まれる。
「でも今は」
一瞬、演奏が止まり——
「お前が、ここにいる」
再び鳴った音は、さっきより少し、あたたかかった。
翠は身じろぎもせず、胸の奥に落ちてくる音をきいていた。
触れてはいないのに、音が胸のどこかにそっと触れる。
怖さも痛みも、全部がわかったわけじゃない。
でも——
この音だけは、嘘じゃない。
そう思った瞬間、部屋の空気がかすかに変わった。
名前のつかない変化。
触れれば戻れなくなる手前の気配。
演奏が終わると、静寂が戻った。
翠はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いて言った。
「……ね」
エリーを見る。
「今の音——」
そこから先の言葉が出てこなかった。
代わりに、翠はそっと手を伸ばし、エリーの袖を指先でつまんだ。
その仕草だけで、じゅうぶんだった。
音が先に触れてしまうものに、
人が追いつくには、まだ時間がいる。
けれど——
確かに何かは、もう動き始めていた。
静かに。
戻れないほど、深く。
——つづく
お読みいただきありがとうございました。
19話の熱の続きでありながら、
20話は「触れたあと」に残る感情や、
音が引き出してしまう本音を静かに描きました。
ふたりの関係はまだ形を持たず、
名前のないまま進んでいきます。
けれど、確実に何かが動き始めています。
次話もどうぞよろしくお願いいたします。




