表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/23

第19話 「 触れる前に、音で」

音で寄り添う夜の続き。

触れる前の気配と、触れたあとの沈黙──

ふたりの距離が、静かに変わり始めます。

深いところへ落ちる手前の、やわらかな官能を描いた回です。


エリーが泣いているあいだ、

すいは席を立たなかった。


近づかない。

触れない。


そのかわり、そっと鍵盤に指を置く。


低く沈む和音が、空気に静かにほどけていく。

さきほどの旋律の続きを、言葉の代わりに差し出すように。

抱き上げるのではなく、眠りに落ちるまで隣で歌うような音。


エリーは、その音に呼吸を合わせるように、

涙の余韻をゆっくり鎮めていった。


涙が止むころ、ワインをひと口ふくむ。

その仕草さえ、どこか頼りなかった。

そして、不意に言った。


「……東京の夜ってさ」


窓へ歩き、にじむ夜景を眺めながら続ける。


「なんだか、ワクワクするよね」


軽い言葉。

その軽さが、ちょうどよかった。


グラスを置き、

エリーは音に吸い寄せられるように戻ってくる。

翠のすぐ後ろ。

体温が、衣服越しにかすかに届く距離で立ち止まり、小さく息を飲んでから聞いた。


「……触れても、いい?」


翠は演奏を止めず、そっと首を傾ける。

それが合図になった。


そっと腕がまわる。

背中でもなく、抱きしめるでもなく、

ただ、距離をなくすための腕。


胸のあたたかさが、背中越しに静かに染みてくる。

顔を寄せる気配。

耳のそばで、息が揺れた。

一瞬だけ、かすめるキス。

そこから、翠の呼吸がわずかに乱れる。


「……俺を、連れ出してくれ」


その囁きは、途切れそうな祈りだった。


翠は目を閉じたまま、その言葉を音に変える。

解放を願う和音。

空へ伸びていく細い旋律。


その音に引かれるように、

エリーの唇がもう一度、寄ってくる。

今度は、深く。


翠の指が止まった。

音が消える。

静寂が、ひどく甘くなる。


翠はゆっくりと振り向き、

迷いなく、エリーの首に腕をまわした。


キスをしたまま、立ち上がる。

抱き寄せるというより、

互いに体重を預け合うように重なっていく。


大きな窓の向こうで、東京の夜景がやわらかく滲んでいた。


二人の影は、ゆっくりとひとつに重なり、ガラスに静かに揺れていた。


音はもう鳴っていないのに、余韻だけが、部屋に残り続けた。


——つづく



お読みいただきありがとうございました。


今回は、言葉よりも“距離”で進む話でした。

翠の音と、エリーの願いが重なる瞬間。

触れたことより、触れる前の呼吸が

ふたりの核心をそっと開いていきます。


次話では、この余韻の続きが語られます。

どうぞ引き続きよろしくお願いします。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ