第19話 「 触れる前に、音で」
音で寄り添う夜の続き。
触れる前の気配と、触れたあとの沈黙──
ふたりの距離が、静かに変わり始めます。
深いところへ落ちる手前の、やわらかな官能を描いた回です。
エリーが泣いているあいだ、
翠は席を立たなかった。
近づかない。
触れない。
そのかわり、そっと鍵盤に指を置く。
低く沈む和音が、空気に静かにほどけていく。
さきほどの旋律の続きを、言葉の代わりに差し出すように。
抱き上げるのではなく、眠りに落ちるまで隣で歌うような音。
エリーは、その音に呼吸を合わせるように、
涙の余韻をゆっくり鎮めていった。
涙が止むころ、ワインをひと口ふくむ。
その仕草さえ、どこか頼りなかった。
そして、不意に言った。
「……東京の夜ってさ」
窓へ歩き、にじむ夜景を眺めながら続ける。
「なんだか、ワクワクするよね」
軽い言葉。
その軽さが、ちょうどよかった。
グラスを置き、
エリーは音に吸い寄せられるように戻ってくる。
翠のすぐ後ろ。
体温が、衣服越しにかすかに届く距離で立ち止まり、小さく息を飲んでから聞いた。
「……触れても、いい?」
翠は演奏を止めず、そっと首を傾ける。
それが合図になった。
そっと腕がまわる。
背中でもなく、抱きしめるでもなく、
ただ、距離をなくすための腕。
胸のあたたかさが、背中越しに静かに染みてくる。
顔を寄せる気配。
耳のそばで、息が揺れた。
一瞬だけ、かすめるキス。
そこから、翠の呼吸がわずかに乱れる。
「……俺を、連れ出してくれ」
その囁きは、途切れそうな祈りだった。
翠は目を閉じたまま、その言葉を音に変える。
解放を願う和音。
空へ伸びていく細い旋律。
その音に引かれるように、
エリーの唇がもう一度、寄ってくる。
今度は、深く。
翠の指が止まった。
音が消える。
静寂が、ひどく甘くなる。
翠はゆっくりと振り向き、
迷いなく、エリーの首に腕をまわした。
キスをしたまま、立ち上がる。
抱き寄せるというより、
互いに体重を預け合うように重なっていく。
大きな窓の向こうで、東京の夜景がやわらかく滲んでいた。
二人の影は、ゆっくりとひとつに重なり、ガラスに静かに揺れていた。
音はもう鳴っていないのに、余韻だけが、部屋に残り続けた。
——つづく
お読みいただきありがとうございました。
今回は、言葉よりも“距離”で進む話でした。
翠の音と、エリーの願いが重なる瞬間。
触れたことより、触れる前の呼吸が
ふたりの核心をそっと開いていきます。
次話では、この余韻の続きが語られます。
どうぞ引き続きよろしくお願いします。




