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第16話「触れてしまった、その先で」

今回は、物語の流れがひとつ大きく動きます。


音が変わり、距離が変わり、

二人の間にあった“まだ触れていなかったもの”が、

すこしだけ輪郭を持ちはじめる回です。


静かな回ですが、

気配の濃度はこれまでで一番強いかもしれません。


ゆっくり読んでもらえたら嬉しいです。


すいは、配信が終わってからも、その余韻を、抱えたままだった。

胸の奥で、まだ音がかすかに揺れている。

落ち着こうとしても、呼吸が、静まらない。


——思い返せば。


幼い頃。

名前を呼ばれない日が続き、世界の温度が、いつも少し低かった。

鍵盤に触れている間だけ、心のざわめきが、どこか遠くへ引いていった。


イタリアで出会った師匠。

初めて、ありのままの自分を見てくれた人。


「いい音だ」


「そのままでいい」


「お前も、恋をするといい」


よく、そう言っていた。


でも。

——誰かを、自分から想うなんて。


そんな未来を、想像したことがなかった。

自分には、そんな強さも、余裕もないと思っていた。

それなのに。

今は、抑えきれない。


(……エリー)


会いたい。


名前を思っただけで、胸が、ひとつ痛む。


その瞬間だった。


インターフォンが鳴った。

心臓が跳ねる。

モニターに映った顔を見て、呼吸が止まる。


——エリー。


開けるか。

開けないか。


一瞬だけ迷い、それでも「はい」と返した。

スピーカー越しの、低い声。


「俺も、会いたい」


その一言で、胸の内側が静かにほどけた。


扉が開く。


エリーが、部屋に入ってくる。


ほんの数時間前まで一緒にいたのに、何日も会っていなかったような感覚。

今日は、無邪気に抱き合う夜じゃない。


近づいた瞬間、お互いの腕が自然に回る。

強く抱いたわけじゃないのに、離れられなかった。

翠が何か言おうとした時、エリーが低く、決めた声で言う。


「……考える、はもうなしだ」


翠の喉が震える。


「……会いたかった」


ほとんど息のような声。


ふたりは、逃げ場のない距離で見つめ合う。


触れた、と思った。

次の瞬間、唇の温度が確かにそこにあった。


——その瞬間。


翠の中で、何かが、開いた。


井戸の底。

暗闇の中で泣いている子供。

押し寄せる冷たさ。

言葉にならない孤独。

視界が揺れ、涙が止まらなくなる。


「……どうした?」


エリーの声。


でも、もう焦点が合わない。

意識が、薄く霞む。


——けれど。


いつもなら崩れて、高熱に変わるはずのその波は、今日は違った。

あたたかい手のひらが、翠を支えていた。


倒れない。

ふらつくだけで、意識は保たれている。

ソファーに座らされ、エリーが心配そうに見つめている。


翠はしばらく黙って、ゆっくり口を開いた。


「……僕は、実は」


喉が少し震える。


「深く触れられると……記憶の一部が、揺れることがある」


エリーは黙って聞いている。


「触れても平気なように、慣らしてきたけど……今日は、油断した」


視線を落とす。


「気持ち悪かったら、ごめん」


エリーは少し戸惑ったように息を吐き、静かに言う。


「……大丈夫だ」


まっすぐ翠を見る。


「お前の音が、ちゃんとそこにある」


「それでいい」


その声は、驚くほど静かだった。


エリーは立ち上がり、そっとギターを手に取る。

何も言わずに。


弦を鳴らす。

とても静かな、子守唄のような音。

闇を追い払うためじゃない。

ただ、隣にいるための音。


翠の呼吸が、少しずつ整っていく。


夜は、まだ深い。


弦の余韻だけが、ふたりのあいだに残っていた。


——つづく



お読みいただきありがとうございました。


15話から続いていた“抑えきれないもの”が、

今回、はじめて言葉や温度として形になります。


行為を書かずに、

どこまで官能と心の震えを描けるか。

森虹の文体の挑戦回でもあります。


ここから先、

二人の距離は静かに、けれど確実に変わっていきます。


次話もよろしくお願いいたします。

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