第14話 「朝の音、ひとりの余白」
第14話です。
夜を越えたあとの朝。
特別なことは起きていないのに、
どこか少しだけ、世界が変わっている。
今回は、そんな「余白」の回です。
静かな気持ちで読んでいただけたら嬉しいです。
朝の光は、静かに部屋へ入り込んできた。
カーテン越しに滲む淡い白。
夜を弾き切った指先に、まだ微かな熱が残っている。
ピアノの横に、ギターが無造作に立てかけられていた。
それを見て、翠は一瞬、現実に戻る。
……夢じゃない。
その時、インターフォンが鳴った。
「お兄ちゃーん!」
聞き慣れた声。
ドアを開けると、そこには大きな紙袋を両手に抱えたセシルと、その横でぴょんと跳ねるルルがいた。
「ボンジュール!」
セシルは明るく笑って、翠を軽く抱きしめる。
「市場でね、いい野菜がいっぱいあったの。
今日はちゃんと食べさせようと思って」
「……ありがとう」
その背後で、ルルが部屋を覗き込み――
一瞬、目を見開いた。
「……え?」
リビングに立っていたエリーと、目が合う。
「……え?」
一拍。
「……エリー?」
ルルが叫び、セシルが一拍遅れて固まった。
「……ちょっと待って」
ゆっくり、視線が合う。
「……エリー?」
「ボンジュール、マダム」
エリーは、何事もなかったように微笑んだ。
セシルは数秒、言葉を失い――
次の瞬間、両手で口を押さえた。
「……うそ」
「……本物?」
「……え、ちょっと、うちの家に、なんで?」
「……成り行きで」
翠が、短く答える。
「……成り行き」
「……そういうこと?」
セシルは一度深呼吸してから、ぱっと表情を切り替えた。
「……いいわ」
「とりあえず、朝ごはん作るから、まだゆっくりしてて」
その言い方は、完全に“客人を迎えた家族”のそれだった。
*
キッチンには、温かい匂いが満ちていく。
フライパンの音。
刻まれる野菜。
鍋の中で、スープが静かに揺れる。
エリーはカウンターに寄りかかりながら、その様子を興味深そうに眺めていた。
「料理、好き?」
「まあね」
セシルは手を止めずに答える。
「音楽も料理も、似てるでしょ。組み合わせと、間と……気配」
「同意する」
ルルはソファに座って、エリーのギターケースを指差した。
「ねえ、ちょっと弾いて」
「いいよ」
何気なく弾かれた、生の音。
ルルのフルートが、すぐに重なる。
二人はすぐに呼吸を合わせてしまう。
「ねえねえ」
ルルが目を輝かせる。
「コラボしなよ」
「ユニット組んだら?」
「私も入る!」
「……前のめりだな」
エリーが笑う。
その様子を、翠は少し離れた場所から見ていた。
胸の奥が、静かに、あたたかくなる。
朝食は、賑やかだった。
笑い声。
器の音。
他愛のない会話。
ひとしきり時間が過ぎて、夕方が近づく。
「そろそろ行くわね」
セシルが言う。
「今日はありがとう」
「また来る!」
ルルは何度も手を振った。
エリーも立ち上がる。
「俺も、準備しないと」
「……うん」
玄関で、短い挨拶。
「またね」
その言葉は、軽かった。
なのに、残った。
*
扉が閉まる。
部屋に、静けさが戻る。
さっきまで確かにあった温度が、すっと引いていく。
翠は、しばらくその場に立ったまま、動けなかった。
……さっきまで、一緒にいた。
音を交わして。
朝を迎えて。
笑って。
なのに。
胸の奥に、小さな空洞ができている。
(……会いたい)
今日は、配信の日だ。
翠は、ピアノの前に座った。
この気持ちを、音にしてみよう。
もしかしたら。
彼のように。
誰かを包む音が、自分にも奏でられるかもしれない。
鍵盤に、そっと指を置く。
音が、生まれる。
夜は、もうすぐそこだった。
——つづく
読んでくださってありがとうございます。
にぎやかな時間のあとに訪れる、
ほんの少しの空洞。
それは寂しさというより、
誰かが確かにいた証のようなものかもしれません。
翠が初めて、自分の側から
「会いたい」と思った夜。
まだ言葉にはなりません。
でも、音はもう動き始めています。
次話から、少しずつ温度が上がります。




