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第12話 「返事のない旋律」


返事が来ない時間は、

音よりも、沈黙の方が強くなることがあります。


それでも、

誰かの旋律は、ちゃんと届いているのかもしれません。


今夜は少しだけ、

言葉よりも呼吸に近い距離のお話です。


どうぞ、静かな場所でお読みください。


返事は、来なかった。


画面を閉じてから、

もう何度も時刻だけを確かめている。


暗い部屋の中で、

スマートフォンの光だけが白い。


エリーはソファに深く沈み、

ギターを抱えたまま、弦に触れずにいた。


送ってしまった言葉は、消えない。


”À cause de toi, je ne dors pas.

(君のせいで眠れない)”


送信音が、思ったより大きく響いた気がした。

あの瞬間から、夜が静まり返ったまま動かない。


軽すぎたかもしれない。

重すぎたかもしれない。


どちらにせよ――

返事は来ない。


翌日は仕事だった。



朝からリハーサル。

打ち合わせ。通し。修正。


誰かに声をかけられれば、

いつも通り笑えた。

冗談も言えた。音も外さない。


問題ない。

そう振る舞うことはできた。


けれど、

弦を押さえる指に、わずかに力が入る。

ピッキングが少しだけ鋭くなる。


休憩時間、

ポケットの中の重みを思い出す。


スマートフォン。


取り出さない理由を探して、

そのまま一日を終えた。



次の朝。

ホテルの部屋。

カーテンの隙間から、淡い光。


いつもの癖で、チャンネルを開く。

通知。

――配信。

五分。

照明の落ちた、暗いサムネイル。

再生。


最初の一音で、

呼吸が止まった。


「……」


フルート。

細く、軽く、芯のある音。

その下に――

ピアノ。


喉の奥が、ひりつく。


(……俺の曲だ)


いや、違う。

“あの夜”の曲。


背中に冷たいものが走る。


画面の奥、

影の中でフルートを吹くのは――小さな背丈。

子ども?

姿は曖昧なのに、

音だけがはっきりと輪郭を持っている。


これは、返事なのか。


眠れない――

その言葉への。


胸が、ゆっくり締まる。


「……いや」


考えすぎだ。

彼が知っているはずがない。


コメントが流れる。


《天使?》

《フルートやばい》

《昨日の人!?》

《誰?》

《会いたい》


――会いたい


その言葉に、

なぜか指先が熱くなる。


DM画面を開く。

打つ。


”会いたい”


止まる。


削除しかけて、やめる。

息が浅い。


……まだ、早い。

言葉より安全な距離。

エリーは短く打ち直した。


”公園で”


送信。


それ以上は書かなかった。



夜。

いつものベンチへ向かう。


けれど、そこには人影があった。

若い声。スマートフォン。

小さな期待。


――来るかもしれない


あの配信が広がったせいだ。

足を止める。


(……今日は、無理か)


振り返ろうとした、そのとき。


口笛。

短く、控えめな音。

あの夜のフレーズの断片。


振り向く。


白い影。


走り出したのは――彼の方だった。


「……!」


エリーも反射的に走る。


夜気が冷たい。

吐く息が白くほどける。

追いついた瞬間、

互いの呼吸がぶつかった。

言葉は出ない。


辿り着いたのは、マンションの前。

彼は振り返らないまま鍵を開ける。

エリーは何も言わず、ついていった。



エレベーター。

狭い箱の中、

わずかに距離が近い。


鏡に二人が映る。

視線は合わない。

数字だけが、ゆっくり上がる。


わずかに感じる体温。

触れていないのに、意識に残る距離。


扉が開いた。



部屋に招き入れられた瞬間、

エリーは息を呑んだ。


広いリビング。

大きな窓。夜景。


そして――


一台のグランドピアノ。


「……」


言葉が出ない。

ここが、彼の世界。

音の生まれる場所。

ここに、自分が入ってしまったのだと

遅れて実感する。


二人はまだ何も言わない。


けれど、

もう逃げる距離ではなかった。


心臓の音だけが、少し速いまま

静かに夜に残っていた。


——つづく


ここまで読んでくださり、ありがとうございます。


返事がない、という出来事は、

何も起きていないようでいて、

実は一番大きく心が揺れる瞬間かもしれません。


エリーは少しだけ素直になり、

翠はまだ何も言わない。


けれど、距離は確実に変わっています。


次回、二人の“世界”が重なります。


またお付き合いいただけたら嬉しいです。

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