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第12話 触れてきたもの 〜音になる前の声〜

——音は、あとから来る。


その前に、

触れてくるものがある。


言葉にもならないまま、

ただ、押し寄せてくるものが。



エルザに導かれた先は、

大きな窓のあるスタジオだった。


外の森が、そのまま切り取られたように見える。


室内は静かで、二台のピアノが、わずかな距離を保って置かれていた。


Bösendorfer と、

Steinway & Sons 。


その奥、窓辺に、

ゆったりとしたソファがある。


老人は、そこに座っていた。


動かない。

だが、視線だけが、こちらを捉えている。


「おじいちゃん」


アランが先に歩み寄る。


「久しぶり。元気?ちゃんと食べてる?」


老人の顔が、ゆるやかにほどける。


「ああ……アランか」


手を伸ばし、抱き寄せる。


「よく来たな」


そのまま、視線が後ろへ移る。


「客人を連れて来られたか。大したものだ」


声は低いが、柔らかい。


シルヴァーノが近づく。

言葉はない。


ただ、静かに身を屈め、

その肩に触れる。


エミリアも、同じように寄り添う。


「……よく来たな、シル」


わずかな間。


「エミリアも」


そして、視線が、すいへと向く。


「——それが、お前たちのエーデルシュタインか」


宝石を意味する言葉だった。


翠は一歩、前へ出た。

わずかに呼吸を整える。


「……すいです。初めまして」


右手を差し出す。


老人は、その手を取った。


強くはない。

だが、離れない。


視線が、深く沈む。

指先が、わずかに触れた。


その瞬間。


音が来た。


嵐のように。


押し寄せる。


時間が、重なっている。


沈んだまま、

消えずに残っている音。


言葉にならない記憶が、

そのまま触れてくる。


「……聴こえるか」


低い声。


翠は、わずかに頷く。


「はい」


老人は、手を離した。


「では」


短く言う。


「一曲」


「……え?」


翠は、振り返る。


シルヴァーノは、微笑んでいる。


「今日の課題だ」


それだけ。


翠は、迷わず歩いた。


ベーゼンドルファーの前に座る。


指を置く前に、

一度、目を閉じる。


さきほどまで、頭の中で鳴っていた音。

ショパン、バラード第4番。


そっと、鍵盤に触れる。


重い。


簡単には、応えない。


もう一度、息を吸う。


吐く。


その流れのまま、

最初の一音を置く。


ピアニッシモ。


音は、ほとんど輪郭を持たない。


それでも、確かに鳴っている。


遠い。


どこか、既に過ぎ去った時間のような音。


揺れる。


近づいてくる。


まだ形にならないまま、

気配だけが膨らむ。


一音が伸びる。


指は動かない。だが、音だけが変わる。


広がる。


やがて、流れが来る。


抑えきれないうねり。


フォルテへ。


指が走る。


光のように、砕けていく音。


そしてまた、

静かな場所へ戻る。


どこへ向かっているのか、分からない。


だが、音は止まらない。


先へ、先へと進んでいく。


鍵盤が、応える。


先ほどの重さが、消えている。


手首がほどける。


和音が、自然に収まる。


音が、導く。


速くなる。軽くなる。


それでも、崩れない。


ただ、流れていく。



誰も動かない。


空気だけが、わずかに揺れている。


最後の和音が、落ちる。


余韻が、静かに残る。



その時。


音が途切れる前に、

老人が立ち上がっていた。


翠の前に立つ。


手を伸ばし、

その頭に触れる。


そっと。


「……よく弾いたな」


「こいつを、ここまで鳴らせるか」


目元に、涙が溜まっている。


「……まだ、生きていてよかった」


小さく、息のように零れる。


視線が、シルヴァーノへ向く。


「……お前、面白いものを連れてきたな」


わずかな沈黙。


そして、


「いいだろう」


翠を見る。


「来い」


それだけだった。


エルザが、奥から何かを持ってくる。


古い楽譜。


紙は、黄ばんでいる。


「一年後、クラコフへ来い」


静かな声。


「それまで、これをやれ」


翠は受け取る。


譜面を開く。


ヨハネ受難曲 。


書き込みが、びっしりと残っている。


「最初だけでいい」


老人が言う。


「今、読め」


翠は、目を落とす。


その瞬間。


胸の奥に、何かが落ちる。


声。


叫び。


押し潰された祈り。


火の中で、途切れていくもの。



息が、止まる。



目を閉じる。



音になる前のものが、

押し寄せてくる。


もう、戻らない。


シーズン4。


音を“弾く”場所から、

音に“触れられる”場所へ。


その境界を越えた瞬間は、

静かで、

取り返しがつかない。


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