↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
10/137

第10話 「息の音が、扉をひらく」

家族の気配が、音を変える夜の話です。

特別な出来事ではないのに、

なぜか、指がいつもと違う場所へ向かってしまう。


そんな静かな変化の回になります。

スマートフォンが震えたのは、午前の光がまだやわらかい時間だった。

画面に浮かぶ名前を見て、胸の奥の緊張が、ひとつほどける。


ルル


「お兄ちゃん!ママと日本に一時帰国するよ!

 数日お兄ちゃんのところ泊まっていい?

 ママはお仕事でホテルだけど、シュガーにも会いたい!」


文字の間から、弾む声がこぼれてくる。

翠は短く息を吐き、返信を打つ。


「もちろん。待ってる。

 気をつけておいで」


送信してから、少しだけ迷い、もう一言足した。


「シュガー、喜ぶよ」


その瞬間、足元でクリーム色の毛玉が動く。

シュガーが伸びをして、翠の足首に頬を擦りつけた。


「……わかるのか」


小さく笑い、窓を開ける。

外はいつも通りの東京。

けれど、部屋の空気は、わずかに変わっていた。


誰かが来るだけで、

音の鳴り方は、少し変わる。


*


夕方。

玄関のチャイムが鳴る。

ドアを開けると、そこにいたのは――

小さな白い風が、立っていた。


「おにいちゃーーん!」


抱きついてくる細い腕。

背中に回る力は軽いのに、心だけが持っていかれる。


「ルル……大きくなったね」


「だって、八歳だもん!」


笑うと、頬がふわっと赤くなる。

淡い金に近い髪と、明るい瞳。

この街にいながら、遠い国の光を連れてきたような子だった。


玄関の奥から、シュガーがそっと顔を出す。


「シュガーー!」


ルルはすぐにしゃがみこむ。

シュガーは警戒するかと思いきや、ためらいなく近づき、小さな手に鼻先を寄せた。


「……あ、覚えてる」


嬉しそうに笑い、毛並みを撫でる。

シュガーは目を細め、喉を鳴らす。


翠は、その光景を黙って見ていた。

胸の奥の固い部分が、ゆるやかにほどけていく。


ルルの荷物は軽い。

丁寧に抱えられたフルートのケースだけが、少しだけ重みを持っている。


「ね、今回も持ってきたの」


誇らしげに言う。


「練習してるの、聴かせてくれる?」


「もちろん!」


ルルはリビングへ飛び込み、床に座るとケースを開く。

宝物を扱うみたいに、フルートを取り出した。


「おにいちゃん、ピアノ弾いて。いっしょにやりたい」


翠は一瞬、まばたきをする。


「……いいよ」


“いっしょに”

その一言が、胸の奥に残る。


*


夜。

ルルはマジネコのアニメを流しながら、ソファで丸くなる。

シュガーはその隣に収まり、尻尾でルルの足を撫でるように揺らしていた。


「この回、シュガーちゃんがね、最後に言うの。

『君の好きはまだ輝いてる』って」


「……うん」


“まだ輝いてる”。

その言葉が、なぜか、あの夜の音に似ていた。


「ねえ、おにいちゃん。きょう、配信する?」


「……する予定だったけど」


「じゃあさ、コラボしよ! わたしフルート、吹けるよ!」


まっすぐな笑顔に、翠はうなずく。


「……少しだけ」


「やった!」


ルルは跳ねるように立ち上がり、フルートを構える。

翠はピアノの前に座る。

画面の向こうには、いつもの匿名の世界。

けれど今日は、隣に小さな呼吸がある。


配信を開始する。

コメントが流れ始める。


《コラボ!?》

《かわいい声》

《フルート!?》

《天使きた》


ルルが不安そうに翠を見る。


「大丈夫。息を、ゆっくり」


深く頷く。


最初の音が鳴る。

フルートは、息そのもの。

声に近く、けれど声よりも遠くへ行く。

翠のピアノが、その細い音を受け止める。


ルルの音は、無垢だった。

まっすぐで、軽い。

その軽さに触れた瞬間、

翠の音に、余白が生まれる。


いつも静かな場所に、

今夜、音が返る。


そして、気づけば。

指は、あの旋律へ向かっていた。

意図ではなかった。

ただ、そこに入る音があった。


鍵盤の上を、風が走る。

雲が晴れて、空がひらけていくみたいな音。


ルルがすぐに息を重ねる。

フルートが、空へ羽ばたく。


コメントが一気に増える。


《やばい》

《泣いた》

《天才》

《この曲なに!?》

《風…》


終わった瞬間、ルルは息を切らして笑った。


「おにいちゃん、いまの曲……すごい!」


「……うん」


翠は笑わない。

笑えなかった。


胸の奥で、何かが、静かに鳴り続けている。


ルルは嬉しそうにシュガーを抱き上げ、頬を擦りつける。


配信を終える。

画面が暗くなる。

部屋に残ったのは、音の余韻と、ルルの呼吸と、シュガーのぬくもり。

それとは別に、

まだ輪郭を持たない音が、残っていた。


*


同じ夜。

別の場所。


暗い部屋で、スマートフォンの画面だけが光る。


再生されたアーカイブ。

ピアノとフルート。

そして――あの旋律。

息を呑む音が、誰にも届かない場所で落ちる。


指先が、送信欄をひらく。

迷いは、一瞬。


”きみのせいで眠れない”


送信。

画面が静かに閉じる。

部屋には何も残らない。

ただ、鳴り続ける音だけが、胸の奥で灯っていた。


——つづく


ルルの音は、翠にとって“開く理由”ではなく、

閉じていた場所に触れてしまうきっかけでした。


誰かと合わせるという行為は、

上手くなることより、

自分の奥に気づいてしまうことに近いのかもしれません。


そして、その音は――

届くべきところへ、きちんと届いてしまいました。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。