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第10話 「息の音が、扉をひらく」

家族の気配が、音を変える夜の話です。

特別な出来事ではないのに、

なぜか、指がいつもと違う場所へ向かってしまう。


そんな静かな変化の回になります。

スマートフォンが震えたのは、午前の光がまだやわらかい時間だった。

画面に浮かぶ名前を見て、胸の奥の緊張が、ひとつほどける。


ルル


「お兄ちゃん!ママと日本に一時帰国するよ!

 数日お兄ちゃんのところ泊まっていい?

 ママはお仕事でホテルだけど、シュガーにも会いたい!」


文字の間から、弾む声がこぼれてくる。

翠は短く息を吐き、返信を打つ。


「もちろん。待ってる。

 気をつけておいで」


送信してから、少しだけ迷い、もう一言足した。


「シュガー、喜ぶよ」


その瞬間、足元でクリーム色の毛玉が動く。

シュガーが伸びをして、翠の足首に頬を擦りつけた。


「……わかるのか」


小さく笑い、窓を開ける。

外はいつも通りの東京。

けれど、部屋の空気は、わずかに変わっていた。


誰かが来るだけで、

音の鳴り方は、少し変わる。



夕方。

玄関のチャイムが鳴る。

ドアを開けると、そこにいたのは――

小さな白い風が、立っていた。


「おにいちゃーーん!」


抱きついてくる細い腕。

背中に回る力は軽いのに、心だけが持っていかれる。


「ルル……大きくなったね」


「だって、八歳だもん!」


笑うと、頬がふわっと赤くなる。

淡い金に近い髪と、明るい瞳。

この街にいながら、遠い国の光を連れてきたような子だった。


玄関の奥から、シュガーがそっと顔を出す。


「シュガーー!」


ルルはすぐにしゃがみこむ。

シュガーは警戒するかと思いきや、ためらいなく近づき、小さな手に鼻先を寄せた。


「……あ、覚えてる」


嬉しそうに笑い、毛並みを撫でる。

シュガーは目を細め、喉を鳴らす。


翠は、その光景を黙って見ていた。

胸の奥の固い部分が、ゆるやかにほどけていく。


ルルの荷物は軽い。

丁寧に抱えられたフルートのケースだけが、少しだけ重みを持っている。


「ね、今回も持ってきたの」


誇らしげに言う。


「練習してるの、聴かせてくれる?」


「もちろん!」


ルルはリビングへ飛び込み、床に座るとケースを開く。

宝物を扱うみたいに、フルートを取り出した。


「おにいちゃん、ピアノ弾いて。いっしょにやりたい」


翠は一瞬、まばたきをする。


「……いいよ」


“いっしょに”

その一言が、胸の奥に残る。



夜。

ルルはマジネコのアニメを流しながら、ソファで丸くなる。

シュガーはその隣に収まり、尻尾でルルの足を撫でるように揺らしていた。


「この回、シュガーちゃんがね、最後に言うの。

『君の好きはまだ輝いてる』って」


「……うん」


“まだ輝いてる”。

その言葉が、なぜか、あの夜の音に似ていた。


「ねえ、おにいちゃん。きょう、配信する?」


「……する予定だったけど」


「じゃあさ、コラボしよ! わたしフルート、吹けるよ!」


まっすぐな笑顔に、翠はうなずく。


「……少しだけ」


「やった!」


ルルは跳ねるように立ち上がり、フルートを構える。

翠はピアノの前に座る。

画面の向こうには、いつもの匿名の世界。

けれど今日は、隣に小さな呼吸がある。


配信を開始する。

コメントが流れ始める。


《コラボ!?》

《かわいい声》

《フルート!?》

《天使きた》


ルルが不安そうに翠を見る。


「大丈夫。息を、ゆっくり」


深く頷く。


最初の音が鳴る。

フルートは、息そのもの。

声に近く、けれど声よりも遠くへ行く。

翠のピアノが、その細い音を受け止める。


ルルの音は、無垢だった。

まっすぐで、軽い。

その軽さに触れた瞬間、

翠の音に、余白が生まれる。


いつも静かな場所に、

今夜、音が返る。


そして、気づけば。

指は、あの旋律へ向かっていた。

意図ではなかった。

ただ、そこに入る音があった。


鍵盤の上を、風が走る。

雲が晴れて、空がひらけていくみたいな音。


ルルがすぐに息を重ねる。

フルートが、空へ羽ばたく。


コメントが一気に増える。


《やばい》

《泣いた》

《天才》

《この曲なに!?》

《風…》


終わった瞬間、ルルは息を切らして笑った。


「おにいちゃん、いまの曲……すごい!」


「……うん」


翠は笑わない。

笑えなかった。


胸の奥で、何かが、静かに鳴り続けている。


ルルは嬉しそうにシュガーを抱き上げ、頬を擦りつける。


配信を終える。

画面が暗くなる。

部屋に残ったのは、音の余韻と、ルルの呼吸と、シュガーのぬくもり。

それとは別に、

まだ輪郭を持たない音が、残っていた。



同じ夜。

別の場所。


暗い部屋で、スマートフォンの画面だけが光る。


再生されたアーカイブ。

ピアノとフルート。

そして――あの旋律。

息を呑む音が、誰にも届かない場所で落ちる。


指先が、送信欄をひらく。

迷いは、一瞬。


”きみのせいで眠れない”


送信。

画面が静かに閉じる。

部屋には何も残らない。

ただ、鳴り続ける音だけが、胸の奥で灯っていた。


——つづく


ルルの音は、翠にとって“開く理由”ではなく、

閉じていた場所に触れてしまうきっかけでした。


誰かと合わせるという行為は、

上手くなることより、

自分の奥に気づいてしまうことに近いのかもしれません。


そして、その音は――

届くべきところへ、きちんと届いてしまいました。

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