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第1話 「音が、先に出会っていた」

夜の物語です。

音が先に出会い、名前よりも早く、

心に触れてしまうことがあります。

これは、森の色を宿した瞳と、

失われた聲を抱いたままの青年が、

まだ恋と呼ばない何かに、そっと出会う話。

静かな夜のお供に、ゆっくり読んでいただけたら嬉しいです。

夜の東京は、昼の熱をすっかり手放し、

かわりに光だけを抱いていた。


すいは、打ち合わせ帰りの歩道を歩いていた。


左手には、

白いチューリップの束。

包みは簡素で、

そのまま持てる程度のものだった。


タクシーに乗れば早い。

それでも今夜は、なぜか歩きたかった。


体の奥に残った言葉を、

足音で薄めたかった。


翠は、人と話すのが得意ではない。

沈黙は苦にならないが、

言葉の多い場所には、少し疲れる。


静かな部屋でひとり、

旋律を重ねている時間が、

いちばん落ち着いた。


名義は「Sugar」。

妹のルルが好きなキャラクターの名前を、

そのまま借りただけだ。


知られたいわけでも、

名に意味を込めたいわけでもない。

ただ、音だけが届けばよかった。


街を歩けば、

誰かの視線を感じることはある。

翠はそれに触れないよう、

ヘーゼルの瞳をサングラスで隠して歩いた。


――そのときだった。


ギター。


音が、先に心を撫でた。


技巧を誇る音ではない。

弦が鳴るたび、

夜に、柔らかな層が重なっていく。


翠は足を止めた。


耳を澄ます。

そして、息を吸った。


音が、

あまりにも自分の旋律に近かった。


公園の入り口。

街灯の下、ベンチにひとり。


プラチナブロンドの髪を無造作に束ねた男が、

アコースティックギターを抱えている。


全身黒の装い。

大柄な体に無駄はなく、

所作は自然にエレガントだった。


青い瞳の奥に、

粒のような光が宿っている。


翠の胸に、

別の声が立ち上がる。


――銀の月が、

海のまにまに揺れる夜。

そこに、

まだ知らないはずの愛の歌が聞こえる。


それが、第一印象だった。


無意識に、

翠は鼻歌を重ねていた。


次の瞬間、

ギターの音が止まる。


男が顔を上げる。

視線が、合う。


エリーは、その青年を見た。


吹けば消えそうな、

白い花。


病室に毎日、

そっと飾られていた花を思い出す。

言葉はなくても、

そこに在るだけで、支えになるもの。


翠の鼻歌は、

白い鳥のようだった。

幸福と自由へ、

空へ誘う声。


エリーは、思わず微笑んでしまう。


――ああ。

これは、ただの通りすがりじゃない。


翠は、危険を感じていた。

音で繋がるのは、

あまりに近すぎる。


視線を逸らし、

その場を離れようとしたとき、

足元に何かが落ちているのが見えた。


丸い耳。

ふわふわの毛。


マジネコの、シュガーちゃん。


「……ルルの、好きな」


拾い上げた瞬間、

視界が揺れた。


――暗い井戸。

石の冷たさ。

底で、誰かが泣いている。


「……っ」


膝が、崩れる。


左手の力が抜け、

白い花が、地面に触れた。


次に聞こえたのは、

低い、柔らかな声だった。


「Ça va ?」


誰かの腕が、

肩と背中を支える。


清潔で、少し冷たい香り。


薄く目を開けると、

さっきの青い瞳が、すぐ近くにあった。


エリーは、

翠の手に握られたぬいぐるみを見て、

眉を上げる。


「……C’est mon Sugar, ça.」

(……これ、俺のシュガーだ。)


「え?」


胸の奥が、

静かに鳴った。


翠は、この夜が、

ただの偶然ではないことを、

もう知っていた。


——つづく


読んでくださり、ありがとうございます。

この物語は、大きな出来事よりも、小さな“響き”を辿って進んでいきます。

音が、言葉よりも先に交わる夜。


次話では、その続きを、もう一人の視点から描いていきます。

また、静かな時間にお会いしましょう。

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