二章 莫谷神-4
莫の讌の翌日、李翰はさっそく有力公主の取り込みに動いた。
鶏鳴(午前一時~三時)は、後宮最大の敷地を誇る兵部兼工部の政務宮、その中にある演習場で、娘子軍が一糸乱れぬ弓術で柳葉を射ぬく。
そのかたわらで、李翰はよたつきながら素振りを行う。娘子軍が走り込みを行えば、十五周回遅れで追いかけた。
百家最弱の手足は、たちまち痣と擦過傷で赤く腫れた。
節々の悲鳴が耐えがたくなると、衡交家の書き付けを開いた。
<衡交家の書き付け>
麟後宮の長公主の内訳は主に三種類だよ!!!
一に、先王の実子。
一に、他国の質子。
それから最後の一つは――これが最多なんだけど――先王の養子だね。水廌家の曹俊録しかり、戎家の司馬戦しかりだ。
司馬君の入宮は七年前。
司馬って言えば、有名な賜姓だよね。そうなんだ。司馬一族は王家からの信任が厚い。戎家の実家は、麟の軍事を統べる武の一門。禁軍を司ってる。
もともと司馬氏は麟西部の民で、昔から傭兵稼業と交易が生計だ。ほら、麟西といえば洪鈞世界の西の外縁部。西域の騎馬民族と境を接してる。騎乗が巧みなんだよね。破竹の勢いで軍功をあげて、今じゃ、文は水廌家、武は戎家、麟政の二台巨頭だよ。
戎家は戦士だから、李君には接近の手段がないように思えるだろうけど、ひとまず僕の顔を立てると思って、数日、戎家の訓練について回ってみてくれないかな?
めでたくかしこ。
数日後の鶏鳴。筋肉痛が全身に回って、目もくらむ頭痛の中、素振りしていたその時、背後から声がかかった。
「さような剣筋では戦場から首なしで帰ることになろう」
粛々たる行進をみせる娘子軍の先鋒で、馬上の戎家が剽悍な顔をこちらへ向けていた。
とうとう機が訪れた!
すかさず李翰は、練習しておいた、勢いよく音を鳴らして胸前に手を組み合わせる、武ばった礼を行った。
「司馬将軍! 小才を娘子軍の訓練に加えてくださいまし!」
馬上の戎家は、いかにも累代の武人らしい曇りのない声で応えた。
「その意気やよし、だが貴殿には、あいにく武芸の見込みがない! 志願はご遠慮する!」
後宮兵部は正常らしい。厳しい選抜を経た娘子軍は体格も揃い、民間人くさい遠慮がちなところもない。まさに力の化身だ。
間違いなくこの中に李翰は不要だ。
だが、ここで引きさがっては、後宮が滅ぶ。
李翰は決死の勢いで白馬の脚に取りすがった。地に二本の溝を深く引きながら叫んだ。
「そこを曲げて! なにとぞ隊伍に加えていただきたく!」
「くどい! 国防はお遊びではござらん」
腹に力を入れ、李翰は馬上へ訴えた。戎家の懐に入れるなら、もうなんだってぶちまけるつもりだった。
「小才は戦乱で親兄弟を失いました! 里を失いました! 屍を食べました! すべて小才が弱いからです! 力ない女だからです! 小才にもっと力があれば! あんな思いをせずとも済んだものを!」
馬の脚は止まらない。李翰は引きずられ、泥にまみれながら、なお吐露した。
「将軍は女子に武芸を勧めておいでと伺いました! 小才も強くなりたいのです、もう何も奪われたくないのです、何者にも屈しない司馬将軍のように!」
とうとう馬に振り払われ、李翰は地に伏した。
脳裏に、衡交家の書き付けの続きがよみがえってくる。
――兵部尚書の司馬君は、宮女への実効力が強い。
宮女を編次した娘子軍を束ねてるからね! しかも、傷病で部隊を離れた者には厚い手当を、年頭には持ち出しで娘子軍らの実家へ祝賀の品を送る、抜群の面倒見だ!!
司馬君は力を求める女子を好むんだ、その理由はね……
蹄の音が止まっていた。
「……それがしの一族は、大麟軍事の一翼を担ってござる」
土まみれの耳に、戎家の声が降ってきた。
「男子はすべて武人に、女子は王家の養子として公主となる。姉妹は政略で各国へ嫁した。五番目と六番目の姉はその地で殺された。かくいうそれがしも籠の鳥。女子の一生は、とかくままならぬ。弱いからだ。だが弱者こそ、誰より操戈の術を知るべきなのだ。自由を勝ち取るために」
李翰の顔に影が差す。
差し伸べられた手は、初めて親しみの感情を宿していた。
「それがしは力を渇望する女を歓迎する。娘子軍は家族だ。貴殿はよい顔貌をしている。われらは必ずやよき姉妹となるだろう」
戎家の部下に対する厚情は衡交家の言の通りで、むしろ李翰が落伍的であればあるほど、戎家の叱咤は熱を帯びた。
数日かけてようやく馬に乗れるようになった日、将軍は静かに自馬の手綱を引いた。馬首をならべ、二人は夕陽に向かってどこまでも駆けた。後ろから、娘子軍が、誰からともなく慕い走った。
姉妹のあいだに言葉は不要だった。
◇◇◇
調練が済めば日が昇る。
食時(午前七時~九時)は、庭園を開墾した広大な圃で耕作だ。
「畝の乱れは心の乱れだあ、一心不乱に、農具を打ち込めえ!」
耕穡家の豪快な耕作の風塵が、辺りを黄土の霧に変える。
<衡交家の書き付け>
耕穡家の桑盈升は齢二十二。入宮は八年前。
桑君の公文書上での出自は、伝説的な徳治国家・壘、その傍流ってことになってる。
よくある上流階級の方便だよ。実際は、先王の地方視察中の落とし胤だ。本人もそれを隠していない。
母親が農婦ってことで、入宮当時はずいぶん冷ややかな扱いも受けたみたいだけど、桑君は生き残った。
官学の水廌学が重農主義なのも大きいけど、それだけじゃない。会えばわかる。めでたくかしこ。
時は遡って、莫の讌の翌日。
李翰が初めて耕穡家の農地(後宮内にある)を訪ねた時のこと。
風塵けぶる鋭い打ち込みで鍬を鳴らしていた耕穡家は、弾ける汗を手甲で豪快に拭いながら振り返った。
「取材だあ?」
話しかけてきた相手を察した途端、耕穡家の睛はあからさまに関心を失った。
この人の懐に入れる気がしない。初見で金銭を巻き上げられたこともあって、李翰の声はすぼまる。
「そのう、小才こたび告身を拝領し、彤官の位を得まして……」
「ははっ、莫姐の人事も風刺が効いてるなあ!」
かつて宮中では、后妃のことや制令を記すとき赤い軸の筆――彤管を用いた。ゆえに後宮の記録官を彤官という。何かと実用向きでない小説家に振るには最適の職だろう。
「就任祝いに栄養補助食を一式送るだあ。省庁勤めは多忙だからなあ。十万銭のところ就職祝いで七万銭でええ。なに? そうかあ、残念だあ。気が変わったらいつでも言ってくれえ」
「待って、話はそれじゃないんです! 元来小説家は、巷間の出来事を集め、整理し、親しみやすく後世に語り伝えるが信条。こたび小才、彤官の禄を食むことになりましたからには、後宮に集う諸子百家の一家一家に項を設け、伝を立てて後世に書き残したく。そこで取材を――ぅひゃっ」
むんずと分厚い手が、李翰の両手を握った。
「早く言えぇ! おめえもこの耕穡思想を体感しに来ただか!」
無関心そのものだった目が興味に彩られている。
「耕作はええぞ! 鍬を振るえば腹が膨れ、銭が入る。国も栄える。王も臣も民も、みな大地と銭と共に生きる! 今日からおめえもその一員だあ!」
正確な鍬の打ち込みを高速で実現する安定した体幹。膂力の表徴たる褐色の肌。労働により磨き抜かれた耕穡家の肢体は、天界の園に生る仙桃だ。
土と水と己の力だけで衣食住を完結させる耕穡家の暮らしは、物欲まみれの都会人に、自然回帰と清貧への憧憬を想起させて余りある。そのうちこういう生活様式がもてはやされそうですらある。
というかすでに流行の兆しだ。耕穡家の周囲では、下級公主が十数人も取り巻いて、絶賛耕作中だ。
耕穡家も、戎家に実力伯仲する後宮の一大派閥らしい。
「小説家ぁ、水はただ撒けばええってもんじゃねえぞ! 万物は気から成る! 自らの気を草木に与えるように撒くんだあ! 人々が喜べば草木も健やかに、人々が諍えば草木は萎れる! 目で見るんじゃねえ! 気で見るんだあ!」
手ごわいな、と李翰は労働の汗をぬぐう。
耕穡家は飾り気がなくのびやかで、懐に入ってきた者に隔てなく接する。莫の監視も気にかけた様子もない。そのぶん、個人的に親しくなる隙が見あたらない。
信頼を獲得するのは易くなさそうだ。
中腰で水を撒きすぎて鈍痛を訴える腰に、耕穡家にちゃっかり買わされた膏薬を塗りながら李翰はそう思った。
◇◇◇
「礼とは実践。礼とは区別。礼とはあらゆる行為の本体……」
うららかな日昳(午後一時~三時)。
礼宮内の講堂・緇林に、脩身家の澄ました声の講義が響く。
最前列に陣取り、講義内容を誰よりも熱心に書き取りながら、李翰は衡交家の助言を思い出す。
<衡交家の書き付け>
脩身家の名は庸子彬。
入宮は五年前。庸君は内六部尚書中、最年少。笄礼(成人)を迎えたばかりの齢十五。
庸君の人生を端的にまとめるなら、〈迫害〉だ。
庸君は真正の王族。ただし麟じゃなくて、かつての戦国八雄の一、塢国のね。庸君は亡国の公主なんだ。
庸君の心の拠りどころである塢国発祥の脩身学は、礼と徳を重視する。脩身学者の徳とは分相応であることだ。
庸君は礼儀正しく秩序だったものに愛を注ぐ。庸君の前ではとにかく謙虚にね、めでたくかしこ。
講義終了後、戸締まりをしている硬質な背中に声をかけた。
「庸夫子、少しお話ししてもよろしいでしょうか」
李翰は学んでいた。
脩身家の頭上を飾るのは進賢冠。今呼びかけに振り返って揺れる薄衣は襌衣。履物は烏皮。みな梍染めの黒色だ。
人だけじゃない。礼宮自体が瓦や壁に至るまで黒。庭園の牡丹も黒く、花上の蝶さえ黒かった。黒色は脩身家の表徴だ。
「また子ですか、学問に貪欲ですね」
外交で飯を食っていた衡交家の人物観察眼は抜群だった。
黒襌衣を用意し、干し肉の束脩(入門料)を納め、聴講し、ひととおりの礼節をなぞってみせると、脩身家の李翰を見る目と口調は、随分穏やかなものとなっていた。
おそらく李翰が彤官の位を得たことも、よい方に影響している。
彤官は官の末席だが、後宮における官職の有無は、李翰の想像以上に大きかった。井戸に突き落とされるなどの理不尽な暴力を受けることは皆無になっていた。
「小才は彤官として後宮のあらましをまとめておりますが、昨今の後宮についてはいかに記したものかと。夫子のご高見を伺いたく」
「中正に記すべきでしょうね」
庭園の黒牡丹に留まった蝶を一瞥したあと、脩身家は応えた。李翰はごく自然に見えるように窓を閉めて蝶を隔て、もう少し端的に発言した。
「中正――偏らず正しいこと――それはいずこにあるのでしょうか。先日の讌の一件ひとつとっても、小才にはこの後宮自体が、中正を欠くものに思えてなりません」
李翰は袖に含ませておいた香辛料を使って地に涙を注いだ。莫の行いは人道に悖る、そういう含みが伝わるように。この数日講義を受けて確信していたが、脩身学の説く徳は、莫の暴虐を許容しない。
「莫谷神には徳がありません。徳なき者は、華公主の座を禅譲すべきなのです」
と、返ってくる目算だったのだが、期待は大きく外れた。
「彤官とは便利な役職ですね。どこへでも入り込める間諜のようなものです」
冷めた拒絶が耳を打つ。しまった、拙速だったか。
脩身家は礼を説く。礼の度合いによって同心円状に親しさを濃淡する。脩身家の親しみの円は、まだ李翰を容れないようだ。
取り繕おうとした李翰より先に、脩身家が口を開いていた。
「予とて、子が訴える〈中正〉の意味に鈍感ではありません。成程この頃の莫至人の行いは甚だしく中正を逸脱せるものがあります」
「ならば――」
「けれど、胡蝶家の莫姐が王寵を得たために、官学・水廌家の専恣がやみ、どの学派にも後宮で遊説する機会が再び開かれた。さような考え方もあります」
蝶の監視はない――となると、意外なことに、脩身家の心は親莫らしい。李翰は慎重に言葉を選んだ。
「そういえば、小才の学派は末学ゆえさほど被害に遭いませんでしたが、夫子の学派は、二年ほど前まで行われていた麟の思想統制の折、絶学に等しい迫害に遭ったとか」
「焚書坑脩のことですか。そうですね、あれは故国が滅んだ戦争よりも激しかった。幾千の同門が坑にされ、貴重な聖賢の智が失われました。まこと、水廌学専恣時代の麟後宮は、暗黒でした。莫姐姐が麟主を変えてくれて、救われた者も多いでしょう」
脩身家は反水廌家であるがゆえに、消去法で、水廌家の対立存在である莫の行動を容認しているということか。ならばそれを切り口に、話題を変えてみる。
「それでは夫子は、さぞや水廌学派や曹氏を恨めしくお思いでしょう」
「水廌学の法治と、脩身学の礼治は、本来、車の両輪。礼で治まらぬ局面を法によって補完する。法の冷淡さを、仁愛で補完する。これこそが徳治です。どちらが欠けてもいけない」
何だろう。丁寧な回答に見えて、その実、何にも答えていない。
脩身家の真意はどこにあるのだろう。それを見つけられない以上、脩身家の倒莫参加は見込めないようだ。
◇◇◇
太陽が桑楡の地に沈む。
迎えの輿が恭しく李翰にかしづく。
連枝灯が並ぶ道を進めば、金塗り瑠璃噴きの煌煌たる刑宮が近づいてくる。
倒莫計画という秘密の共有により親密度が急激に増したらしい水廌家は、今夜も嬉々として莫対策を開陳してくる。
だがあいにく水廌家は莫暗殺を何度も失敗しているとおり、あまりこの方面の適性がないようだ。似たような話が繰り返される。それを聞き流しながら肉を咀嚼していた時だ。
「時に李妹。貴家、有力公主たちの間を渡り歩いているようね」
疑惑がかった碧眼を、李翰は食事の手を止めて、軽くいなした。
「俊録姐姐とだけ特別に親交しているとの評判が立てば、他公主から詮索を受けます。それでは倒莫の妨げになりますから」
「八面討好は嫌いよ。この世で最も汚らわしい猴を思い出すわ」
「誰にでも愛想のいい獣? 後宮には奇妙な生物がいるんですね」
「まったく。いけないわね、妹が一人増えたくらいじゃ、倒莫の良策は浮かばぬものね」
◇◇◇
夜半(午後十一時~一時)には、李翰は夕餐の残りを提げて囿苑を訪ね、ひそかに衡交家と落ち合う。
衡交家の指導はいわゆる後宮での挙動に尽きた。
いかに相手の目に映る己に、己の意図した印象を持たせるか。衡交家は不気味色の液体をすすりながら、気長に説いてくれる(口でなく筆記で)。
――今宵は対脩身家用の居振る舞いをおさらいしよう。そう、鞠躬如だ。門を潜るときにも、物を捧げ持つ時にも、前屈みにこうべを垂れ、あたかも天井につかえたように謙虚な姿勢で。
――衣裳の術について。身に着ける品は第二の顔だよ!!! 色彩は人の感情に紐付いてる。当面は黄系の衣裳がいい。親しみやすさと無邪気さを装うことができる。交渉ごとには青を。酔わせたいときは紅を。相手の衣にも注目して。服選びから無自覚な欲求を読みとるんだ。
――善く後宮において寵をほしいままにして、必ず後憂い無きの術について。
相手が自分を尊重したら、あえて身を引こう。好意を寄せてきたら恭しく距離を置こう。すると相手は欲求が満たされず、予定調和を崩され、隙が生じる。そこを見逃さず、こちらに主導権を引きよせるんだ。
有力公主間を行き来するそんな忙しい生活が、半月ほど続いた。
活動量ならあの娘子軍も超えただろう。
体を壊しては意味がないと、衡交家は言ったが、李翰は少しの午睡で疲れが取れた。しかもなぜか夜ほど目が冴えた。
後宮では満足な食事が毎食提供される。そのせいだろうか。
何にせよ、今はそれがありがたかった。




