二章 莫谷神-3
惨劇から解放され、緩慢な動作で帰途につく群衆から離れて、李翰は人を探して歩いた。
游仙宮からほど近い湖畔。静かで人影のない場所で。
押し殺した嗚咽の先に、神獣紋の裳裾が震えていた。
李翰の足音に気づいた水廌家が、激した感情そのままに、濡れた睛を振り向けてきた。
「――見せ物ではないわ、失せなさい!」
「存外、部下思いなんですね、水廌家って」
李翰の言葉に、憎悪から一転、警戒に満ちた光が、水廌家の睛に宿る。
「百家最弱なりに小才も考えてみたんです」
水廌家は激情そのままの気勢で黙殺する。李翰はかまわず続けた。
「莫至人が、あえて讌の余興に、敵国の間諜の斬首を選んだ意味を。公主たちに、そのさまを見せつけた理由を。あなたの讌上の反応からすると、あの敵国の間諜たちは、間諜などではなかった」
水廌家は震えている。感情は今にも溢れだしそうだ。
「処せられた者たちは、各公主がそれぞれ後宮内にひそかに放っていた重要な頭脳や、片腕や、耳目で。莫はそれを、公主たちの前で殺いでみせたのでは?」
水廌家のはばかることのない涙は滂沱。
「笑うがいい! 部下一人救えぬこの曹俊録を!」
今までの李翰なら、その水廌家の気魄に気圧されたじろいだ。しかしこの李翰は、三十六回死を見た李翰だ。
はっきりと犬歯を見せつけ、軽やかに笑声を立てた。
水廌家の怒気が湖面を震わせた。涙さえ激情で干上がっている。
「おまえ……末学の分際で妾を侮辱するとは!! 見せしめにされたあの子はただの部下じゃない、妹みたいな――」
「だって滑稽じゃありませんか。水廌家はただの胡蝶を、人喰い鰐のごとくに思いこんでいる」
「……貴家、変わったわね」
碧眼に宿る侮蔑の色が和らいだような気がした。李翰の言葉が毒を含んでいたからだろう。
後宮は巫蠱の壺。後宮人は毒虫でなくてはならない。李翰はようやく後宮人として認められたのだ。
「言っておくけれど、莫めはただの胡蝶ではないわ、小説家。莫めが馬だと言えば、麟後宮では鹿も馬となる、善悪もまたしかりよ」
どちらが本質なのだろう。些細な瑕疵で侍女を鏖殺する水廌家と、部下を失い深い後悔に身を沈める水廌家とでは。
だが今はそれを考えている時じゃない。
「まったく道理の通らない話ですよね。本来なら水廌家、あなたが当代後宮の主であるはずなのに」
水廌家の目がひときわ剣呑に光った。
「驚くことはないですよ、水廌家が法を巧みに扱うように、小才たち小説家は、巷説の吹き溜まりを見つけるのが得意なんです。長公主と一口に言っても入宮事情は様々みたいですね。敗北国の公主に、市井の隠し子。婢の成り上がり者まで――その中で、水廌家は特別だった。あなたはもともと、先王に請われ、子息――浩蕩王の后となるために入宮したんですよね?」
将来の息子の嫁にするために女児を購う風習は、農村部で特にさかんだ。王家と水廌家の関係は、身分は違えど似たようなものだろう。水廌家の一門は代々、王家と婚姻を繰り返すことで国政に影響力を持つ。
水廌家・曹俊録は、当代後宮の正当な主・王后となるために、ひとまず公主という形で入宮した――それなのに。
「……そうよ」
それだけ言えばもう十分だった。長く宮中で不遇をかこっていた誇り高い名家の女子の真情はあふれ出した。
「莫めは血を好む妖婦よ。こんなこと、法が許さないんだわ」
「なにゆえ、かような無法が?」
「妾は浩蕩王の正妻たるべく育てられた。あの男のことは誰よりも心得てる。だから、三年前に宇国からやってきた、服に一つの刺繍すらない地味な女を目にした時、妾は刹那に確信した。この女が王にかえりみられることは絶対にない。と」
それなのに――と水廌家は顔をしかめる。
「しばらくして莫は王心を射止めた。以後、王が訪うのは游仙宮のみ。妾は断言する。莫めは容姿で王心を捕らえたんじゃない。あの女は胡蝶家。登仙の薬丹を練る要領で媚薬を調合し、口にするのも憚られる淫靡な導引法で王を絡め取ったのよ」
「まさか。導引って体内の気を操る方法なんでしょう?」
「導引のなかには房中術なる技法があって、それは合歓のさいに相手の生気を自らに取り込んで壮健を保つのよ。生気を一方的に奪うこともできる。莫めの年齢不祥な美肌はそれよ」
李翰は笑えなかった。
胡蝶家といえば、薬学研究者で医者で幻術師なのだから。
「妾は莫めの暴虐を阻むべく、毒を用いた。刺客も送ったわ。だけど、あの女、毎回けろりとしてるのよ」
水廌家は激憤そのまま長い爪を撫でる。
「皆人が言う。莫は妖婦。毒も刃物も通らない。ときおり蝶に姿を変えては、後宮人の動きに眼を光らせる。誰もが諦め始めている。それをいいことに莫めは、寵をたのみに王に取り入り、無用の学への弾圧を取りやめさせた!」
「え待って、莫至人がひとかどの人格者に聞こえるんですけど?」
「有用の学だけを採り、空論に拘泥する駄思想家を颯爽と坑にしてその書を焚毀する最高に聡明な男だったのに、莫に籠絡されてすっかり変わっちゃったのよ! 今や駄学の先蹤であるすましやの脩身家と神秘主義者の星躔家までが、尚書の席を汚すありさまよ!」
李翰はしかと頷き、それから明瞭に発音した。
「さながら水廌家は、よく揺らぐ灯穂ですね。莫至人に吹き消されるのも早晩でしょう」
「この末学! もう一度、言って御覧!」
最底辺学派に侮辱された水廌家の睛に、再び烈しい光が宿る。
それこそ、李翰の待っていたものだ。
「元々は水廌家、あなたが後宮六部の全権限を統べていたそうですね。それが、莫至人に権力を蚕食され、今では刑部尚書の位をようやく守るのみ。まさに風前の燭光ではないですか」
水廌家の憎悪の視線は、李翰を食いちぎらんばかりだ。つまり、話を聞いてもらうには今しかない。李翰は続けた。
「水廌家、あなたは正しいけれど危うい。小才にとって、同じ長公主であるあなたは姉です。あなたという正義が失われることを、小才は妹として憂います」
「姉妹? 笑わせないで、百家最弱と姉妹になった覚えはない。それとも、貴家が妾のかわりに莫めに毒でも盛ってくれるとでも?」
「甘えないでください。水廌家は本来、正当な後宮の主であるべき方。卓越した才覚がおありになるはずです。涙を拭き、思考を巡らせ、失われたものを取り返すため、この百家最弱を使いこなしてみせてください」
李翰は恭しく麻の手布を差し出した。
水廌家の手が素早く動いてそれを跳ねのけた。
手布を追ってかがんだ李翰の頭に、一枝の梅が――莫が官職の賜与を保証する、賭博の勝ち札が降ってきた。
「妾の涙を受け止めたいなら、使い古しの手布ではなく、最低限の官位くらい用意しておくことね、李妹!」
◇◇◇
水廌家と姉妹の契りを結ぶことに成功し、別れた李翰は、その後、鳥獣の声かまびすしい囿苑にいた。
「――仇は討って来ましたよ、衡交家。さあ、約定を守ってください!」
今日も今日とて、虚ろな目で檻内にうずくまる陰気な衡交家は、返事をしない。酔生夢死とはこのことだ。
李翰は用件だけ告げると、檻を後にした。
下級公主の拼房に戻ると、夜空を切り取る窗枠にずんぐりとした影がとまった。
「ここはきみの家じゃないぞ」
その鳥を追い払った李翰の手中には、鳥の足から外した小さな布片が残った。
同室の女たちは讌の疲れからか、瞼を伏している。それを確かめて静かに布片を開いた。びっしりと文字で埋まっている。
脳内変換すると、
「親愛なる小説家へ。多謝多謝!!! よくぞ僕の積年の恨みを晴らしてくれたね!!! 見たかったな、悪辣宮女たちの生首が乱れ飛び、有力公主たちの顔が恐怖に歪むさまを!!! もちろん約定通り、莫君の討伐――名付けて〈倒莫〉には、全力で助力させてもらうよ!!!」
高まった気持ちがあふれ出して、余白に墨が散っている。初めて簡冊を受け取ったときはたまげたが、これが衡交家の内面なのだ。
衡交家は、衡交家をまだ廃業してはいなかった。
李翰は今朝のことを思い返す。
李翰は星躔家の指示に反し、讌の開催地である游仙宮に直行しなかった。向かったのは囿苑だ。
星躔家は言った――宮持ちの有力公主は信用できない。
その通りだろう。有力公主たちは早々に李翰の利用価値を見限っている。正面切って同盟を持ちかけても、関わるうまみのない李翰と連携して、莫討伐に命を賭けてはくれないだろう。逆に密告されておしまいだ。
それでも――敵は強大で、百家最弱の李翰には協力者が必要だ。
思い浮かんだのが、囿苑の片隅にうずくまる陰気な衡交家の姿。
衡交家は、後宮内の勢力争いに敗れ、誰からも省みられない。とても他人と思えなかった。この人物しかいないと思った。
李翰は囿苑の掃除を手伝いながら、自分も後宮で散々な目に遭っているのであなたの気持ちがわかる、と真情をこめて話した。
と同時に、無茶振り雇用主の宮から腹いせに持ち出した新しい衣食を与え、劣悪な栄養状態のためか若白髪をふくんだ蓬髪をくしけずってやり、力になりたい旨を申し出た。
ここまでやっても、衡交家は無反応だった。
ここは戦国後宮。親切顔で近づいてくる者は不審きわまりない。したがって衡交家の対応はとても正しい。
なけなしの社交力が尽きた李翰は、肩を落として囿苑を出、游仙宮へと足を向けた――その時だ、肩をわしづかまれた。
人じゃない。羽がある。百家最弱すぎて鳥にまで絡まれるようになったか――自棄ぎみに、耳元でがあがあ鳴く黒いのを追い払おうとすると、手中に何か小さなものがすべり込んだ。
羽音が飛び去っていく。
丸めた布を開けば、底抜けに明るい丸文字が現れた。
それを最後までなぞった李翰は、衡交家の後宮における闘争とその敗北の悲惨を知った。
談議上手で人当たりもよく、ひとかどの権勢を誇っていた衡交家はある日ちょっとした行き違いから職を逐われ、尊厳を奪われたという。
弱った者は徹底的に叩く。それが後宮人だ。
公主から宮女まで執拗でどぎつい刁難の限りを受け、陰溝色の服を着て精神安定の飲料をすすりながら囿苑にうずくまることになったこと――そんな時に李翰に声をかけられてとても嬉しかったこと。簡潔な文と陽気な丸文字が逆に哀しみに奥行きを与え、人心を自在にあやつるという衡交家の面目躍如たる表現がそこにあった。
李翰は知った。
衡交家は衡交家を廃業してはいない。
衡交家は交換条件を持ちかけてきた。概略はこうだ。
――莫谷神は暴戻だ。討伐には危険が伴い、命を賭す事業になるだろう。李君が、僕が命を預けるに足る人物か見極めるために、一つこちらの願いを聞いて欲しい。僕の願いは、僕を追い落とした子たちに反省をしてもらうことだ。
同封されていたのは、筆跡を変えて書かれた一覧表。
人物名と罪状、その証拠。罪状は莫への背反、或いは暗殺の企図。
それを莫の目に触れさせてくれ、と衡交家は依頼してきた。
――莫君の主催する讌では、大抵いつも死人が出るそうだ、莫君はそれを楽しむ。莫君にこの表が渡れば、必ず用いるはずだよ!!
李翰は首を傾げた。
衡交家の寄越した表に、有力公主たちの名はない。衡交家が憎むのは、いま衡交家のかわりに権官を占めるこの連中ではないのか。
直接、有力公主らの名を書いてしまえばいいのに随分あっさりした人だな、と思ったものの、この程度の労力で倒莫に助力してくれるなら逆にありがたい。李翰は莫の居宮である游仙宮のわかりやすいところに、表を落としておいた。
全てが終わり、水廌家の涙を目にして知った。表に並んだ名は、有力公主が密かに信頼し、重用している、表面上は無党派の後宮人たちだったのだ。
鳥が窗枠まで運んできた簡冊はさらに、陽気にこう続けていた。
――倒莫には有力公主たちの力が不可欠だ!!! 急に腹心を失った有力公主たちは傷心で、さぞ心細い思いをしてるはず!!! 有力公主たちの懐に入るなら今だよ!!!
李翰はただの簡冊一編で三利を得る衡交家の伎倆に舌を巻いた。
衡交家は自身の昔年の恨みを晴らし、有力公主の心に李翰がつけいる隙を作り、李翰の信頼を得た。鎖で繋がれていながらにして。
――追伸、有力公主一たやすい感激気質の水廌家を落としたら、残りの宮持ち公主は、四名。各家攻略の手がかりを書いておくから頑張って信頼値を高めて!!! めでたくかしこ。
讌の翌日、吏部の官員が李翰の室を訪れ、吏部尚書の印の入った告身(辞令)を読み上げた。
李翰は衡交家に教えられたとおりの挙動で跪き、深く頭を垂れて答えた。
「天意に離背することのないよう、役務に精励いたします」
賜った匣の中には、掌印。官職を表す半分に割った竹符。それから彤い軸の筆。
急な推挙の名分は、吏部尚書の莫が、入宮の日から検討していた李翰の役職を決定した、というもの。それがせんの讌の盤上戯賭博で勝者を当てた褒賞であることは明白だった。
あの讌の日、衡交家はこうも書いていた。
――後宮人が讌上での処刑を考える場合、選択肢は作法と格式に則ったものに限られる。大抵は、〈罪人〉に才を競わせるかな。即興で詩作や香当てを行って拙い者から池に沈めるだとかね。
――さて、才を競わす賭博なら、勝者は明白。水廌家の部下だ。最高の教養人を雇えるのは、後宮一の富豪、水廌家の曹君だけ。自身もそれをよく心得てる。曹君が賭けた〈罪人〉が、勝者だ。
――ああ、わざわざ賭博に参加する必要はないよ。傷心の曹君を使えばいい。官学の曹君は格下の思想家に軽んぜられるのを何より憎む。そこで、まずは冷たくあしらって注意を引き、一転、忠臣顔で近づけば、曹君の持ってる勝ち札はしぜん、李君のものだ。
――勝ち札がもたらす金品あるいは地位が、僕と友誼を結んでくれた李君へのささやかな礼品だよ、これを足がかりに倒莫を進めよう!!!
――李君が僕を選んだことを、決して後悔させないよ。
そう結ばれた快活な丸文字の文面をなぞってみる。
ここは麟の深奥、戦国後宮。誰もが私利のために動く。どんなに美しく振る舞っても、公主たちの手は、みな血の色だ。
けれど――よりにもよって自分は、最も手を結んではならない人物と与してしまったのかもしれない。
衡交家が寄越す鳥は夜目が利く上、飛び帰る時にいささかも音を立てない。




